.

Greendays 11

 夢を見た。
 死んでしまった皆川有希恵が緑の中に立っていた。
 淡い緑と濃い緑。深い緑と明るい緑・・・。
 幾種もの緑の中で、彼女はひどく優しい微笑みを浮かべている。そしていつの間にか現れた一つの白い花を差してこう言うのだ。
“こんなに綺麗な花でも毒を持っているんですよ”
 その言葉に有栖はこれが最後に彼女と会った時の記憶の再生だと気が付いた。
 そう。3度目の出会い。
 『またお会いしましたね』と笑った有栖に彼女は笑って立ち上がった。歩道脇にある花壇の植え替えを任されたのだという。
 『ガーデンデザイナーというのは庭だけやなくて色々な仕事があるんやなぁ』
 感心したようにそう言うと彼女は再び笑って『ええ』と頷いた。
 そうしてしばらく話をしていて何かの拍子で先程の言葉が出たのだ。
 驚く有栖に彼女は口を滑らせてしまったというような表情を浮かべて言葉を繋ぐ。
『この花は特に根の部分に多くリコリンというアルカイドを含んでいまして食べると大変な事になってしまうんです。モグラでもそれを知っていてこの花の根は食べないんですよ』
『・・へぇ・・』
『神話の美少年であるナルキッソスが己の姿を映した湖面を見つめて恋焦がれ、いっそ一つになってしまいたいと飛び込んだ所から生まれたと言われる花なのに、そんな毒を含んでいるなんて何だか皮肉というか、いかにもそれらしいというか』
『・・はぁ・・』
 そしてこの後、有栖は有希恵に他の有毒植物について教えてくれないかと言ったのだった…
 
 
 
 
 .
  .
 
 
 
 

 
************************************************************* 
 
 
 
. 
 

 
 
 
 例年よりも少しだけ早い梅雨明けは、連日の快晴の中なし崩し的に発表された。
 まさに「夏本番」と言った様な空に響く蝉の声。
 暑さを倍増させるようなその鳴き声を聞きながら一昨日病院から帰ってきたばかりの有栖はホゥというらしくもない溜め息を落とした。
 検査を含めた一週間の入院。
 その間に火村は2.3度やってきて、有栖に室生がまだ捕まっていない事だけを伝えた。
 そして有栖自身も又、室生が告げた『知らなかったと言う事も罪になる』と言う言葉だけを警察と火村に伝えた。
「・・・・ほんまにいい天気やなぁ・・」
 暑さにうんざりとしながらも有栖はぼんやりとベランダの手摺に顎を乗せて見慣れた通天閣を眺める。
 病院を訪れたのは火村だけではなく、森下も来たし、鮫山も、千種も、そして片桐もそこから話を聞いたらしい同業者の朝井小夜子もやってきた。
『警察病院に入院している患者を見舞うなんてあんまりない事やから。それにしても貴重な体験やったわね』
 そう言って笑う小夜子に片桐はワタワタとして口を開いた。
『でも本当に無事で良かったです。変な薬を飲まされて入院したと聞いた時は心臓が止まりそうでした』  火村から片桐の電話でマンションにいる事が判ったのだと教えられていたので礼を言うと、人の好い担当者は折れてしまうのではないかという程首を横に振って「とんでもないです」を繰り返した。
 病院では媚薬を盛られた患者として珍しいサンプルになったが、それも喉元過ぎれば・・と言うヤツでこうして退院をしてしまえば何だか全てが夢のようにも思えてしまう。
 そんな火村や警察関係者が聞いたら呑気過ぎると言われてしまいそうな事を思いながら有栖は暑さに閉口したようにベランダから離れた。
「暑いぃ〜・・・」
 思わず漏れ落ちた声。
 ペタペタとスリッパの音を立てて有栖はそのままキッチンへと向かう。開いた冷蔵庫。中からウーロン茶のペットボトルを取り出して、一瞬だけ考えてコップを用意する。
 退院の日、火村はベンツでマンションまで送ってくれた。
 そうしてしばらくは張り込みがつくだろうと言った。
 にもかかわらず玄関先まで有栖を送ると火村は「じゃあな」と背中を向けてしまったのだ。
 声をかけた有栖に「また来る」とだけ言って振り向きもせずに。
 そして、連絡はない。
「・・・・・」
 透明のコップの中に冷えたウーロン茶を注ぐと有栖はそれを一気に煽った。そうして空になったコップに新たにウーロン茶を注ぎそれを持ったまま再びペタペタと音を立ててリビングに向かい、ソファに腰を下ろす。
「・・・・・・」
 あの夜・・・。
 有栖は幾度達ったのか判らなくなって意識を失った。
 火村はその有栖の身体を綺麗に拭いて清め、千種警部との約束通り警察病院に連れて行った。
 勿論それは火村自身が語ったわけではなく着ていた服としてロッカーに納められていたそれらを見て、有栖が医師に確認をしたのだ。
 まるで壊れ物を扱うようにブランケットに包まれて抱きかかえられて来たのだと聞かされた時は顔から火が出る思いだった。
『千種警部から媚薬を飲まされたらしい患者が来ると聞いた時はびっくりしましたよ』
 眼鏡をかけた人の好さげな医師は退院が近づいた回診の際にそう言って笑った。
『何しろ床の上に落ちていたカプセルを調べたらヨヒンビンとイボガと数種の神経刺激剤をブレンドした代物やて言うでしょう?バイアグラも真っ青ってやつですよ。あれは結局海綿体に血液が過剰に入り込んでペニスを充血させているわけですからねぇ』
 そんな身も蓋もない言い方をして笑う医師に有栖はどう返して良いのか判らずに結局「はぁ・・」と短い返事を漏らした。
 有栖は室生から貰ったカプセルは2錠とも飲んだ。
 だからおそらく床の上に落ちていたというそれは室生がこういうものを飲んでいるのだと判らせるために置いていったものなのだろう。彼は本当に有栖を殺してしまうつもりはなかったのだ。
『何はともあれ後遺症もなくて良かったですね』
 それが結論だった。
 こうして全てが過去の記憶になってゆく。
 でも・・・だけど・・・
 持ってきたウーロン茶を口にして有栖は何度目かの溜め息を吐く。あれ以来水分を切らしてしまうのが怖い。無意識のうちに水だのお茶だののペットボトルを幾つも買い込んでいた自分に有栖は思わず苦笑いをした。
 それが唯一の後遺症だ。
 そう考えて有栖は眉間に皺を寄せる。
 否、それだけではない。
 火村の顔をまともに見る事が出来ない。
 それが後遺症と呼べるものならば立派なそれだと有栖は思う。
 ふと思い出す己の痴態。
 そして・・・触れた指。
 あれは言わば治療と同じで、火村は自分を助けてくれたのだ。
 それは理解できる。
 何しろそうでなければ自分はあれを救急車や病院で繰り広げていた筈なのだから。
 それもおそらく付き添ってくれたであろう火村だけではなく救急隊員の前でも、医師の前でも、もしかしたら馴染みの刑事たちだって居たかもしれない。
 それを考えれば感謝してもし足りないと有栖は思う。 勿論幾度か訪れてきた火村がその事を口に出す事はなかった。
 有栖も感謝はしているがどうしても「ありがとう」と口には出せず、何も言わない火村に甘えて何も言わずにいる。
「・・・助かったっていうのも・・・何やし・・」
 思わず赤くなってしまった顔に有栖は再びコップを口に運ぶ。
 何も言わずに悪いという思いと、あんな姿を見られたと言う羞恥心がない交ぜになってギクシャクしている。
 そこまで分析できるならばとも思うのだが、それはそれこれはこれ、頭で納得していても気持ちが付いてこれないのだ。
 2つ目の後遺症。
「・・・・・・」
 空にしてしまったコップを手の中で弄んでいた有栖はコトリとそれをテーブルの上に置くと落ちていた新聞を拾い上げた。
 先程パラパラと見たが、室生はまだ捕まっていない様だった。
「・・・何で俺なんやろ・・」
 無差別ではなく、室生は確かに有栖と【あの男】をターゲットにしていた。
 けれど何となくそれを言い出せず知らなかった事も罪になるという事だけを警察と火村に伝えたのは【あの男】が火村のことを差しているのではないかと推論してしまったからだ。
 自分と火村が関わっているならばそれはフィールドワークに関係している可能性がある。
 それで火村が“フィールドに有栖を連れていったからこんな事が起きたのだ”と思うのは嫌だったのだ。
「・・・これも隠匿とか偽証とかそういうのに当たるんやろか」 
 ポツリとそう口にして有栖はふと、もしも本当にそうだとしたらいつのフィールドで関わったのだろうと今更ながらの素朴な疑問にぶち当たった。
「・・・・室生・・・」
 熱に浮かされたようなあの地獄の時間にも考えたのだが、どう考えても彼とは初対面だ。
 ならばその接点である皆川有希恵なのかというとそれはそれで全く記憶がない。
 大体彼女と会ったのも偶然なのだ。
 それならば・・・
「・・フィールドがらみやない?・・けど・・」
 一度浮かんだそれは否定をするには強すぎた。
 多分何かのフィールドワークが関わっていて、室生は自分をターゲットにしたのだ。
「・・・・大体男を軟禁して媚薬飲ませた罪ってなんぼのもんや・・」
 そう。それにしては、火村も森下も鮫山もガードが硬すぎる気がする。
 何かが他にあるのだ。
 自分の件は氷山のほんの一角で、室生は他に何かをしている。
 そして火村はそれを隠している。
「・・・・・・」 
 自分の仮定に突き動かされる様にして有栖はガサガサと新聞を広げ始めた。
 今日の分は目を引くものがない。
 それならばとラックに入れ放しにしてあったそれらを片っ端から開いて見る。
 大阪府警が関わっている事件で、火村が呼ばれそうな事件。
 パラパラと広げて日付を遡ってゆくうちに有栖は一つの見出しに目を留めた。
「・・・毒物を使った連続殺人・・・?」
 事件のあらましはこうだった。
 西区に住む弁護士の大和田知哉(48)がストリキニーネを服用して死亡。大和田氏は数日前から体調を崩して風邪薬を服用していた。その中にストリキニーネの入ったカプセルが混入されていたらしい。
 府内では毒物を使った事件が続いており、府警では関連が無いかを調べている。
「・・・連続って事はこの前があるんやな」
 言いながら有栖は更に日付を遡った。
 ラックに入れてあった新聞が無くなるとガサガサと資源ゴミ用に袋詰めしてあったものまでも引っ張り出す。
「・・・あった・・これが最初や・・」
 それは小さな小さな記事だった。
 住吉区の自営業者である女性が間違ってスズランの挿してあった水を飲んで死亡。完全に事故死の扱いになっている。
 そして次の記事も小さなもので、ドクゼリの根を誤って食べてしまった男の事が書かれていた。これも事故扱いだ。
 だが、3人目。ここから少し様相が違ってきている。
 豊中市の会社員が心臓病の薬として福寿草の根を煎じて飲んだのだ。ところがこの福寿草は送られてきたもので送り主は不明。事件性が出てきたところで似たような事件として前の二つが掘り起こされた。
「・・・スズランとドクゼリと福寿草・・・」
 それは室生の“講義”の中にも出てきた植物たちだった。もしも、もしもそれらの事件に室生が関わっているのだとしたら・・・・。
「・・どういう繋がりがあるんや?」
 何かが足りない、と有栖は思った。
 多分室生と彼女と有栖を結ぶもう一つのキーワードがあるのだ。
 そしてそれが判れば、これらの事件が室生の起こしたものなのかも見えてくる。
「・・・推理小説家をなめるなよ」
 そう言うと有栖はソファから立ち上がった。
 そうしておもむろに室生と訪れた寺の電話伝号を調べる。掘り起こした記憶の片隅の中。確かにあの日、火村の研究室を訪れた日に、火村は彼女の名前とその婚約者の名前を有栖に尋ねた。
 何かが彼の頭の中に引っかかったのだ。
 それならば、幾分反則と言う気もするけれど彼の思いつきをそのまま使わせて貰おう。
 多分府警に電話をしても森下たちは忙しいに違いない。それに例え何かを聞いたとしてもはぐらかされてしまうのがオチだ。自分の調べられる範囲の事は自分で調べて、後は引っかかりそうな人間に鎌を掛けるのが早い。
 寺の番号はすぐに判った。
 かけてみると住職は不在で、夫人が出た。
 すでに面識があったため先日は長居をしてしまってと挨拶をすると彼女は愛想よく「またお参りにいらして下さい」という。
 どうやら室生が手配をされていることを彼女は知らないようだった。
 そこで有栖はまだ室生の容疑が固まっていない事を推理する。
『・・・皆川さんの婚約者のお名前?』
「ええ、戒名ではなく俗名をご存じでしょうか?」
『・・・ええ、そら調べれば判りますけど・・』
 困惑している彼女に有栖は言葉を続けた。
「室生さんから以前聞いたんですけどど忘れしてしまって。法要の事のお知らせをするお手伝いをすると約束したんです。けど手紙を書こうと思ったら肝心の名前が出てこなくて。まさか皆川さんとその婚約者とは書けないし、まして名前を忘れたから教えて欲しいとは言えずに・・・すみません」
『まぁまぁ・・・ちょっと待って下さいね』
 笑いを滲ませて住職夫人は電話を置いた。そして2.3分で戻ってきて有栖にその名を教えてくれた。
「ありがとうございました」
 電話を切って有栖はメモをした名前をもう一度見た。
 【石田篤志】
 それはどこかで聞いた事のある名前だった。
「・・・・フィールドワークで関わったんやろか」
 もしそうだとしたら、自分と皆川有希恵は偶然にしてもかなり皮肉な出会いをした事になる。
 有栖は彼女の婚約者を捕らえる側に居た人間なのだ。
「彼女はそれを知ってたんか?」
 口に出た問い。
 けれど答えは否だった。
 多分、おそらく、彼女は有栖が火村と共にフィールドワークに出掛けている事など知らなかった。
 大体火村がフィールドワークを行っている事自体、知っている人間が少ない。ましてその助手となれば知っている人間は限られてくる。
 更に言えば婚約者の逮捕に一役買った人間と談笑するというのは相当の演技が必要になると思うし、有栖川有栖等というインパクトのある名前を“仇”として認識していたならば、出会った時に何かしらの言動があった筈だ。
 だから、彼女は有栖を知らなかった。
 大雑把だが確信はあった。では、それならば・・・
「・・何で彼女は自殺したんや?」
 逆恨みで有栖に・・・というのならばまだ理解できるが自殺をするというのはどう言う事なのか。
 またそれで室生が彼女の代わりに有栖を狙ったという構図も一応は形になるが今ひとつ納得がいかない。
 二つ目の疑問に有栖はしばらく考え込むとおもむろに手帳を取り出して捲り始めた。
 そうして見つけた名前に再び電話を握る。
「ご無沙汰しております。英都大学でお世話になった有栖川と申しますが中村先生は」
『有栖川?・・・有栖川有栖か?』
 珍しい名前はこう言う時に役に立つ。
 数年ぶりだというのに帰ってきた変わりのない友人の声に有栖は受話器を持つ手を握り変えた。
「よぉ、先生元気やったか。しばらくぶりやなぁ」
『何が元気で、しばらくぶりや。ちぃーとも同窓会にも顔出さんで。本は出とるから死んではいないんやなって言われとったで』
「えらい言われようやな」
『自業自得や。アホ。で、どないしたんや?何かあったんか?』
「ああ。我が法学部のホープ・中村先生にちょっと聞きたい事があってな。今ええか?」
『・・・長くなる話なのか?』
 学生時代の友人はそう言って少しだけ声を潜めた。
 それにクスリと漏れ落ちた笑い。
 中村大樹は有栖たちの代での司法試験現役合格者の一人である。気さくな人柄で学生時代はよく飲みに行った仲間の一人だ。
「長くなるのかならんのかは判らんけど聞きたい事は二つや。一つは弁護士の大和田知哉について」
『大和田知哉って・・・おい、有栖川お前何を調べとるんや?ノンフィクションの小説でも書くつもりか?』 「そんなんとちゃうわ。あとな、もう一つは石田篤志って知っとるか?」
『石田篤志?・・・・ああ、少し前に騒がれてたな』
「騒がれてたって?」
『何やお前知らんで聞いとったんか?石田篤志って言えば弁護士会の中じゃちょっとした有名人やで。もう2ヶ月近く前になるかな?毒草を食って獄中自殺したんや。で、獄中者の人権を守る会やら何やらえらい騒いどった。知らんかったんか?』
「・・・毒草・・・」
 中村の言葉に有栖の頭の中で何かが点滅を始めていた。知らなかった真実が見えてきている。
「・・・なぁ・・その石田の事件の資料あるか?」
『ああ?まぁ、扱ったわけやないから詳しい事は判らんけど、新聞の切り抜き程度のもんやったらあると思うで』
「それ・・FAXしてくれへん?」
 ドクンドクンと鼓動が鳴る。
 何故かひどく喉が渇く。
『いいけど。あとな・・その・・大和田弁護士の事やけど、下手な首突っ込まん方がええで。同じ弁護士仲間でまして死んだ人間に対してこう言うたらなんやけど、あんまり良い噂聞かんかった。そいつと何かあったんなら相談に乗るで』
 ひどく心配げな友人に有栖は大丈夫だと告げ、今度一緒に飲みに行こうと締めくくって電話を切った。
 そうして十数分後、約束通りに送られてきたFAXを見て有栖は呆然としてしまう。
 それは確かに火村と有栖が関わった事件だった。
 けれど有栖が驚いたのはそれだけではなかった。
 石田は毒物による殺人を犯していたのだ。
 その中には有毒植物の名前もある。
 しかも、石田自身が有毒のそれを食べて自殺をしているのだ。
 彼女の自殺の原因は、おそらくこの辺りにあるのだろう。
「・・・俺は・・・」
 唇が震える。
 押しよせてくる、取り返しのつかない事をしてしまったという後悔と罪悪感。
「・・・俺は・・」
『知らなかったと言う事も罪になるのだと私は思います』
 室生の声が聞こえる。
 考えろと言った意味が分かり始める。
「・・・・・っ・・」
 送られてきたそれをグシャリと手の中で握りつぶして
窓を閉めても聞こえてくる蝉の声の中、有栖は何も言えずにただ立ちつくしていた。


少しずつ解けてきはじめる背景。って感じでしょうか。