3つの後悔

「最悪や・・・」
部室を持たない推理小説研究会の溜まり場。
学生会館の2階にあるラウンジの一番奥のテーブルの定位置で、僕、英都大学法学部2回生の有栖川有栖は苦々しげにそう呟くと、パタリとテーブルの上に突っ伏した。
「何が最悪なの?」
その言葉をしっかりきっかり聞き止めて手にした紙コップのコーヒーを置きながら、同じく法学部2回生の有馬麻里亜が聞き返す。
「・・・・いつ来たんや?マリア」
言いながら驚いたように顔を上げた僕に、麻里亜は向かい側の椅子にすとんと腰を下ろした。
「たった今よ。コーヒーを持って座ろうとしたら声が聞こえたの。それで?」
「それでって?」
「嫌だアリス。健忘症?今さっき何が最悪なのって聞いたでしょう?」
コーヒーを一口コクリと口にして覗き込んでくるその顔に、気まずげに視線を逸らした僕を見て麻里亜はスッと瞳を眇めた。
「ちょっと、その態度はないんじゃない?アリス」
「・・・・・・・・別に・・大した事やない」
「へぇ、アリスは大した事じゃない事が最悪になっちゃうんだ?」
「・・嫌な奴やなぁ、揚げ足とって」
「奴って言う言葉は女性に向かって言う言葉じゃないのよ、アリス。ついでだから教えておいてあげるわ」
「そりゃどうも」
「判ればよろしい。それで?」
再び口に運ばれたカップ。
「・・しつこいで」
「アリスがちゃんと言わないからでしょ?それに謎だと思った事はとことん食らいつけって」
「・・・それ・・誰が言うたんや?」
「モチさん」
聞く前から判っていたような答えに僕は再びテーブルに懐いてしまった。
それを見て麻里亜が口を開く。
「ほら、アリス。言わないとモチさんや信長さんたちも来ちゃうわよ。私だけが聞くのとあの二人が加わるのとじゃ随分違うと思うけど?」
それは確かに違うと思う。でも・・・だけど・・・
「・・・女の子に話す話やないんやけどなぁ・・・」
漏れ落ちた溜め息は最後の抵抗。
けれど麻里亜はそれに綺麗な眉を微かに顰めただけで視線を外さない。
「・・・後悔するかもしれへんよ?」
「聞かずにイライラするのと聞いて後悔するのとだったら後者を取るわ」
「・・・・・・・・」
そう。そうでなければこんなサークルには所属していない。
きっと自分が同じ立場だったら麻里亜同様迷わずそちらを選択しているだろう。
僅かな沈黙の後、僕が掲げたのは勿論白旗だった。
「・・・・他の人間には言わんといてほしいんやけど」
「いいわよ」
何故か自然に落ちる声のトーン。
「・・実は・・」
「うん」
「その・・・・」
「うん・・」
「・・・今朝・・いつも通りに電車に乗ったんやけど、それが妙に混んでて・・」
「それで?」
「「・・・・それで・・・はじめは間違いかなぁと思うたんや・・けど・・何や違う気がして・・そしたら・・・そ・・」
「・・・・そしたら?」
「そしたら・・・・・・あかん!!!やっぱり言われへん!!」
「アリス!!」
声を上げて再び顔を伏せてしまった僕に容赦なく麻里亜の声が飛んだ。
「ちょっとアリス!!ここまで話してそれはないでしょ!?」
「もうええねん。悪い夢やったと思うて忘れる!」
「アリスが忘れても私が気になるじゃない!電車が混んでてね何が間違いなのよ!」
「声が大きい!マリア!」
「アリスがはっきり言わないからでしょ!?これじゃ後悔も何も出来ないじゃないの!」
「・・・・・せんでええ後悔はする事ないやろ?」
そう。大体人を睨みつけてまで聞く話ではないのだ。
勿論これを聞いて彼女が何か得をするとは僕には到底思えない。
もっともそんな理由で麻里亜が聞く事を諦めるとも思えないのだけれど・・・・
「嫌よ。私、推理小説もこうで、こうで、こうだから、こう!とはっきりすっきり全て解き明かされましたって方が好きなの。男でしょ、アリス。はっきり言いなさい」
「・・・・・・・・・・」
何故いざとなると女性はこうまで強くなれるのか。
「ア・リ・ス・」
一音ずつ区切られて呼ばれた名前に僕は再び大きな大きな溜め息を漏らして口を開いた。
「・・・・・・・・鞄が当たってるのかと思うたんや・・」
「・・鞄?」
心なしか赤くなっているだろう顔が自分でも嫌だと思った。
「せやけど・・・う・・・動くんやもん・・・」
「・・・・・・・・ちょっと・・」
「・・場所ずらしても離れんし・・」
「・・アリス・・・?」
「女と間違えとるんかと思うたんやけど、そうやないって判って・・・」
「え・・・・・っと・・それ・・・・痴漢?」
武士の情けとでも言うような麻里亜の小さな声に僕は小さく「多分」と頷いた。
再び訪れた、先程とは少し質の違う沈黙。
ほらだから言うたのに・・というような声を胸の中で漏らした途端に麻里亜が口を開いた。
「そっか・・その・・ごめんね。こんな事聞いて。でも私にも経験があるからアリスの気持ちは少しは判る。勿論アリスと私の置かれている状況っていうか立場が違うから・・・アリスにとっては本当にショックな事だったと思う。けど、元気を出して。世の中にはいろんな種類の人間がいるって事で、ここは犬にでも噛まれたって気持ちになって・・えっと・・」
「違うんや、マリア」
精一杯、目一杯励ましていますという麻里亜に僕は諦め混じりの溜め息をついた。
「え?」
「せやから、俺が落ち込んでたんわショックは勿論ショックやったんやけど、それに対して何にも言えんかった自分が情けなかったんや」
「・・アリス」
「だつて口惜しいやん。そんな事されて、間違いだったらとか、男なのにとか、回りを気にして『やめろ』の声すら出せなかったなんて」
「・・・・・・そっか。そうよね。痴漢は犯罪なんだから言わなきゃ駄目なのよね!」
「マリア!?」
「私もはじめは何も言えなかったし出来なかった。でも足を踏んづけたり、睨みつけたりした事もあるし、こっちに来てからはほとんど電車に乗らないからないけど、今度あったらちゃんと大声で告発出来ると思う。だからアリスも今日の経験を生かして今度はちゃんと」
「こ・・今度って、こんな事そう何度もあったら」
「違うわ、アリス。そう言う普段からの心積もりが大事なのよ!」
「・・・・・・・・」
ちょつとそれは何かが違うのではないだろうか?
けれどでも、語り出してしまった麻里亜の口は止まらない。
「大体“痴漢”に対しての刑が軽すぎるからいけないのよね。いっそ現行犯逮捕の場合は懲役10年位に設定しておけばいいのよ。そうしたらもっと減ると思わない?」
「・・・・懲役10年?」
「そう。だってやられた方は精神的なショックが大きいでしょ?そう考えると日本の性犯罪における刑罰って言うのは全般的に手ぬるいわ」
「・・・・・・・・・」
「そう言えば以前読んだ本の中にレイプの公判シーンがあってね」
「・・・・・・・・」
ヒクリと顔が引きつった。
どうしていきなり痴漢からレイプにまで話が飛んでしまったのだろう。
「レイプって結局被害者の方が好奇の目で見られるのが実状なのよ。思い出したくもない記憶をそれこそ何度も何度も引きずり出されて、果ては自分から誘ったんじゃないのかとか、合意の意志はなかったのかとかって一体何をどう考えているのかしら!」
「マ・・マリア・・」
「そういう裁判の仕方にも問題が有ると思うの。人権って言う事をどこにおくかって・・」
「・・・・・・・・・・」
一体僕たちは何の話をしていたのだろう?そして放っておいたらこの話は何処まで行ってしまうのだろう???
(だ・・誰か助けてくれぇぇぇぇぇ!!!)
胸の中で上がる声にならない叫び声。その途端。
「お前たち何の話をしとるんや?」
「!!」
聞こえてきた、何処か呆れたような声に僕の脳裏を『地獄に仏』という言葉が駆け抜けた。
顔を上げると飛び込んでくる、声と同じように少しだけ呆れたような表情を浮かべた顔。
「あ、おはようございます、江神さん」
「痴漢だの性犯罪だのレイプだの注目の的やで?」
言いながら空いていた隣に腰を下ろして“江神さん”こと、文学部4回生で推理小説研究会の部長である江神二郎は胸ポケットの中からそっとキャビンを取り出して口を開いた。
「大体何で昼間からそんな話題になったんや?」
銜えられた煙草。
カチリと点けられた火。
ユラリと立ち上る紫煙。
「・・・え・・・えっと・・・」
もしかしてこの人を前に又あの話をしなくてはならないんだろうか。
僕は一気に暗い気持ちになってしまった。
その言い淀んだ言葉をどう受け取ったのか、江神さんが再びゆっくりと口を開く。
「痴漢にでも遭うたんか?マリア」
「え!?」
重なった声は僕と麻里亜のものだった。
「何や、当たりか?続くようやったら警察や鉄道公安に届け出た方がええで?」
フワフワと白い煙の浮かぶ中、寄せられた眉に麻里亜は慌てて首を横に振った。
「いえ!そう言う事じゃないんです!私も痴漢に遭った事は有りますけど・・あ・・」
「マリア!」
「・・・アリス?」
訪れた短い沈黙。
口を押さえた麻里亜と、彼女の名前を呼んで俯いてしまった僕。
これでこの人には全て判ってしまっただろう。
居たたまれないような気持ちのまま思わず唇を噛み締めるとポンポンと軽く頭を叩かれた。
「・・・そら難儀やったなぁ・・アリス」
目の端でまだ半分ほど残っているキャビンが灰皿に押しつけられるのを僕は黙ったまま見つめていた。
「コーヒーを奢ってやるからもう忘れ」
「・・・・・・・」
「この前言うてた本も手に入ったから貸してやるよ」
ひどく優しいその言葉が嬉しくて、けれど半分照れくさくて、僕はまだ赤みの残る顔を上げて小さく口を尖らせた。
「・・子供ですか、僕は」
「・・・・そうとも言えなくはないわなぁ、マリア?」
向けられた笑顔に麻里亜もまたクスリと笑いを漏らす。
「そうですねぇ」
「マリアまで!」
「ほら、アリス。そうやってすぐにムキになるところが子供なのよ」
「・・・もうええわ」
プイと横を向くとクスリと重なる二つの笑い。
そして・・・・
「ほら、手ぇ出し、アリス。好きなの買うてこい。俺はブラック。マリアは?」
「ミルクティー」
「だそうや」
「・・・・僕が買いに行くんですか?」
「そうそう。江神さんは出資者で、私は相談を聞いてあげたんだから」
「無理矢理聞き出したくせに」
立ち上がるとギッと小さく唸る長椅子。
そう・・・・ここで終われば良かったのだと僕は後に心の底からそう思った。
一つ目の後悔。
ここで終わって大人しくコーヒーを買いに行っていれば良かった。
けれど・・・でも・・・・
「アーリース!その代わりモチさんたちには黙っておいてあげるから」
「そんなん!」
聞こえてきたクスクスと笑いの混じった麻里亜の言葉に僕は歩きかけていた足をピタリと止めるとクルリと振り返って思わず口を開いてしまったのだ。
「最初から誰にも言わんて約束したやろ!?」
「何を誰にも言わんのや?」
「内緒はあかんなぁ、有栖川君」
「・・・・・・・・」
背中から聞こえてきた聞き慣れた声。
背筋を伝って流れる冷たい汗。
油の切れたロボットの様にギクシャクとおそるおそる振り返った僕の耳に「アホ」という江神さんの小さな声が響いた。