3つの後悔 2

「せやからそんなん景気良く忘れるにかぎるで!」
もう何度繰り返されたのか判らない同じような言葉。
「飲んどるか?」
「・・・・飲んでます」
注がれたコップのビールは実はあまり減っていない。
(・・・・・何だかなー・・・)
どうして人間というのは他人の不幸を肴に飲む事が出来るのだろう。
『こんな事を聞いた事がある』といういわゆる不幸な話を聞かされて「せやから気を落とすんやない」と励ますその心遣いに、僕は気付かれないようにそっと溜め息を落とした。
一体どうしてこうなったのか。
理由は簡単である。
先刻のラウンジ。
振り向いた先に見えたのは予想通りに推理小説研究会の凸凹コンビ、経済学部3回生の望月周平と織田光二郎の二人だったのだ。
勿論慌てて顔を戻しても時間が戻る筈はなく、目の前で顔を逸らしつつ「ごめん」と小さく
謝る麻里亜と、新たなキャビンを取り出して火を点ける江神さんを見つめながら僕は背中から聞こえてくる「それで、どないしたんや?」と言う声が悪魔の声に思えた。
そうして根ほり葉ほり・・・・・根負けをして全てを語った僕に織田が言ったのだ。
「験直しや!アリス!!そういう気色悪い事は酒を飲んで忘れるにかぎる!!」
という事で現在に至っているのである。
だがしかし・・・・
(気持ちは有り難いんやけど・・・聞けば聞くほど気落ちする・・・)
僕のそんな気持ちに気付く事なく、場は今度は借金を抱えてクレジットカード破産をした、友人のそのまた友人の話に花が咲き始めていた。
途中で「本当ですか?」と合いの手(?)を入れる麻里亜と茶々を入れるコンビの片割れ。その横で江神さんはキャビンをふかしつつビールのお変わりを頼んでいる。
(・・・・少しくらい止めてくれてもええのに・・)
チラリとついつい恨みがましく走らせた視線の先で我関せずとばかりにプカリと上がる白い煙。
(・・・何とも思わんのやろか・・)
その横顔を盗み見ながら僕は少しだけ眉間の皺を深くした。
一応・・・ここだけの話なのだが、僕と江神さんはいわゆる『恋人同士』という関係なのだ。
もしも自分の彼女が(この例え自体が今イチなのだが)痴漢にあったと聞いたら僕だったら絶対に面白くないと思う。けれど・・・・・
「・・・・・・・・・・・」
相変わらずユラユラと揺れる紫煙。
(コーヒー奢ってくれたけど・・・)
後は特別これと言って何かがあった訳ではない。
先刻のラウンジでもあの後は何も言ってはくれなかった。
(そりゃ変に気を遣われるのも嫌やけど・・・)
思いながら持っていたビールのコップに口をつけて僕はチビリとそれを啜った。
(・・・あかん。思考が完璧に“女の子”しとるわ・・・)
そう。自分は断じて“女の子”ではない。
だからこういう思考回路も好きではない。
「・・・・こう言うのと比べれば今回の事なんて可愛いもんや。そう思うやろ、アリス?」
いきなり振られた話に僕は俯きかけていた顔を慌てて上げた。
その視界の中で“酔っぱらい”に片足を突っ込みつつあるような望月が「うん?」と問うように首を傾げる。
「・・・聞いとったんか?」
「・・・い・いえ・・・あ・はい・・・・あの・・・」
思わずしどろもどろになる言葉。
その半瞬後。織田がわざとらしいという形容詞がピッタリとくるような溜め息を付いて口を開いた。
「なんやなんやアリス。いつまでもそないしとったら忘れられるもんも忘れられへんで?よぉ食って、よぉ飲んで、さっさと忘れ!そんで今度そいつに会うたら頭突きしたるっていう位の気にならなあかん!なぁ、モチ」
「そうやで。せやからこんな話をして励ましとるんやないか。ほんまやったら××の新作ミステリーのうんちくをかましたいとこなんやで」
「・・・・・・・・・はぁ・・・」
“そっちの方がなんぼかマシです”という言葉をあえて飲み込んで、僕はその方法がどうであれ(この言い方もあまりと言えばあまりだが)望月たちの気持ちは有り難いと思った。けれど、そう考えるそばから、つい端に座る横顔に視線を走らせてしまうのも事実で・・・。
(アホか・・ほんまに・・・)
再び始まる不幸話。
温くなってゆくビール。
嫌な記憶と理不尽な状況は人間をナーバスにさせるものらしい。
店内のワーンと唸るような喧噪になぜ自分はこんな所にいるのだろうかと自問をしながら僕は溜め息を噛み殺しつつ、何度目かの視線を端に座った恋人へと送った。
その途端・・・・・。
「・・アリス?」
いきなり振り向いた顔に僕は慌てて視線を逸らす。
「どないしたんや?」
「え・・あ・・いえ・・」
麻里亜の向こう側から向けられた顔に今更ながらドクンドクンと鼓動が早まる。
もしかして、睨んでいたのが気付かれてしまったのだろうか。
胸を過ぎる当たってほしいような、ほしくないような複雑な感情。
けれど、でも・・・・・
「何か注文するか?」
「・・・・・・・・・・いえ・・もう・・・・」
聞こえてきた言葉に僕はガックリと肩を落としてしまった。
どうやら目は口ほどにはものを言ってくれなかったらしい。
「何もいらんのか?」
「・・・・はい」
更に追い打ちをかけるその台詞に半ば自棄になって返事をした僕の耳に微かに聞こえた小さな笑い。そして。
「帰るんか?」
「・・え・・」
耳の飛び込んできたその言葉が一瞬理解が出来なかった。
思わず声を詰まらせると脇から経済学部コンビのブーイングが上がる。
その中で僕はただ真っ直ぐにこちらに向けられた穏やかな眼差しを見つめていた。
まるでその瞳の中に今の言葉の意味があるのだというように言語障害に陥ったまま呆然としている僕を見て江神さんが瞳の中でフワリと笑う。
「すまんけど、俺は帰るわ」
「え・・・・・」
「明日は朝からバイトなんや」
「江・・江神さん・・・」
「すまんな」
言いながらテーブルの上のキャビンのパッケージとライターをさっさと胸ポケットの中にしまう長い指。有無を言わせず立ち上がった長身の身体にその瞬間僕の中で何かが弾けた。
「か・帰る!」
「アリス!?」
驚いた様な麻里亜の声が聞こえた。
でも何もかもがどうでも良かった。
情けないと笑うなかれ。僕は本気で置いて行かれてしまうのだと思ったのだ。
このまま、ここに、放って行かれてしまうと思った。だから・・・・
「帰ります!僕も帰ります!!」
掘り炬燵風のテーブルに膝を打ち付ける勢いで立ち上がった僕に、織田も望月もポカンとしていたが、この際それはどうでもいい事だった。
今日、この場に、一人で残されるのはどうしてもどうしても嫌なのだと考える前に行動を起こしてしまったのだから、後は酔っていたのだとシラを切り通す以外仕様がない。
大体こんな風にいきなり言い出す江神さんが悪いのだ。
こんな日に、この場所に置いて行こうとするなんて絶対絶対許される事ではない!
癇癪を起こした子供のように一気にそこまで考えながらバタバタと荷物をまとめる僕に江神さんが次の瞬間飄々と口を開いた。
「もうええんか?」
「・・え・・・・?」
問い掛けられた言葉の意味が分からずに顔を上げた僕に、それすらもお見通しだというように江神さんは出来の悪い後輩、兼恋人向かって問い直してくれた。
「もう忘れられたんか?」
「・・・!!!!」
向けられた微笑みに僕は何だか泣き出したいような気持ちになってしまった。
そしてほんのちょっとでも何もしてくれない等と考えて悪かったと心の底から思った。
つまりは・・・・そう言う事なのだ。
これは漕ぎ出された助け船だったのだ。だからしっかりと掴まらなくてはいけない。
「綺麗さっぱり、しっかり、きっかり忘れさせて貰いました!!!」
ニッコリと笑っていった言葉に返ってきた大好きな大好きな微笑み。
出した答えはどうやら正解だったらしい。
「ほんなら行くか。じゃあ、モチ、信長、マリア、あんまり遅くならんうちに帰れよ。これは俺とアリスの分。足りんようなら後で請求してくれ」
「ほんまに今日は有り難うございました。お休みなさい!」
ペコリと頭を下げて、軽く手を挙げて歩き出した江神さんに続いて・・・
「・・・・・・・・お疲れさまでした」
こうして呆然としたような望月の声に送られながら僕は江神さんと一緒に居酒屋を後にした。