3つの後悔 2.5

「あの・・・・」
すでに馴染みの西陣の下宿。
その玄関を入ったところで僕は思わず固まってしまっていた。
「・・・・え・・・がみ・・・さん・?」
「うん?」
別に好きで固まっているわけではない。
正確に言えば動けないのだ。
そう・・・・もっとはっきり言ってしまえば、ドアを閉じて名前を呼ばれて顔を上げた途端抱きしめられてしまって動けない。
「・・・・背中が・・・・」
「何や?」
「・・背中にドアノブが当たって・・痛いんですけど・・・」
「それはアリスが後ろに下がろうとするからやろ?」
「せ・・せやって・・いきなり」
「けど実験するって言うたのはアリスやで?」
「・・・実験って・・」
「記憶のすり替え。試すんやろ?」
「それは・・そう・・ってぇ!?・えええ江神さん!!どこ触ってるんですか!?」
「どこって・・」
パァーッと赤くなる顔と反比例するように青くなってゆく様な思考。
その間にも止まっていた手がゆっくりと動き出して僕はクシャリと顔を歪めた。
「や・・何・す・・・ん」
「何って、痴漢やろ」
「!!!!」
どうしてこの人はこう言う事をサラリ、しかもいつもと変わらない微笑みを浮かべながら言う事が出来るのだろうか?
「江神さ・・」
「だから言うたやろ?より大きな衝撃でその記憶を薄れさせてしまうか、記憶自体をすり替えてしまえばいいんや。まぁ、すり替えはちょっと難しいけど衝撃説はいけると思うんやけどな。覚えてへんのか?」
覚えていますとも!!でもまさかそれがこうなるとは思わなかったんですってば!!
「・・・い・・ゃ・・」
「・・・アリス」
ゆっくりと、けれど確実に追いつめてゆくように動く長い指。
そう。確かに言った。
居酒屋を出て、三条大橋に向かって歩くその道で確かにそう言う話は出たのだ。
出たけれど・・・・・・・・
「・・は・・」
自分でも嫌になるような甘い響きのある小さな声を落として、僕はその記憶を再生する・・・・


「有り難うございました。ほんまに・・・モチさんたちの気持ちは有り難かったんですけど・・・」
歩きながらペコリと頭を下げた僕に江神さんはキャビンを銜えつつクスリと小さな笑いを漏らした。
「きつそうやったもんなぁ・・・」
「はぁ・・・・」
その言葉に見ていてくれたのだと改めて思いながら僕は吐き出された白い煙を目で追った。
「忘れたい気持ちはあるんですけど、ああいう話を聞いて忘れられるもんやないし、却って気が滅入るっていうか・・今度そうなったらどないしようとか思って・・・」
「・・・・・っ・・」
「そこ笑うところやないです、江神さん」
小さく肩を震わせた身体を僕は思わず睨みつけた。
「すまんすまん。そらまぁ・・・そうやな」
笑いながら同意されても、あまり本心とは思えない。
「もうええです」と子供のように不意と横を向いてしまった僕に江神さんはまだ幾分笑いを堪えながら僕の肩をトントンと叩いた。
「悪かった。ほんまに」
「・・・・・もうええですよ」
「せやけど忘れたいのはホンマの気持ちやろ?」
「ええ。そりゃそうですよ」
「・・・・・・じゃあ試してみるか?」
「え・・?」
「ようするにもっと大きな記憶に残るような事とか、記憶に関するすり替えが成立すればええんやろ」
「・・・そんな事・・出来るんですか?」
「判らん。けど試してみるか?」
「・・・・・・別に危ないことやないですよね?」
一瞬、頭を何かで殴るようなイメージの浮かんだ僕に江神さんは鮮やかな笑みを浮かべて「それはない」と言い切った。だから・・・・・・・・。
「ならやってみようかな・・」

ーーーーーーー再生終了。


だから本当にこんな事だなんて思わなかったのだと、僕は胸の中に湧き上がる2つ目の後悔を抱きしめながら腕の中でブンブンと首を横に振った。
「・・・っ・・・・い・・いいです!やっぱりこんなん・・・は・・・やめ・・・」
「けど忘れたいんやろ?」
何でもないように言いながらドアに押しつけられたままジーンズの上を辿ってゆく指に顔が熱くなる。
「・・江神さん・・っ・・!」
「大丈夫や。ほら・・どこ触られた?」
「・・・・・・・・・っ・・」
こんな時に、こんな風に耳元で言うのは絶対に反則だと僕は赤い顔のまま思わず唇を噛み締めた。
「ここは?」
「・・・・・・・・」
「ここか?」
「や・・」
「アリス、言わな判らんやろ?」
「わ・・判らんでええです!こんなん・・も・・・」
ヒュッと息が鳴る。
言葉が詰まる。
ドクドクと早まる鼓動。
熱くなる顔。
「う〜ん・・痴漢するのなんて初めてやからなぁ・・・・」
「!!」
何て言う事を言うんだこの人は!
と言うよりも、初めてでなかったらそれはそれで十分問題なのではないだろうか?
勿論僕のその言葉は、僕自身の胸の中だけのもので実際江神さん本人に聞こえる事はなかった。
大体そんな余裕もなかったと言った方が正しい。
「・・・・・っ・・・え・・がみ・・さ・・・・ん!!」
ジーンズからスルリと抜かれたシャツの下に潜り込んできた手に震える身体。
「・・そん・・な・・とこ・・・触られてへんもん・・・・」
「じゃあ、どこを触られたんや?」
「・・・・・っ・・」
再び耳元に寄せられた唇から直接的に耳に流れ込んできた言葉にうっすらと涙が滲む。
「アリス・・」
「・・は・・・」
「ここか?」
「・・ん・・・・ゃ・・」
「言うてみ・・どこを触られた?」
「や!!」
いきなり前に回った手に僕は思わず小さな悲鳴のような声を上げていた。
けれどそれを気にする風もなく、その手はジーンズの上からゆっくりと動き始める。
「いや・・・ゃ!・・や・・め・・!!」
「・・・・・・・・・・」
「江神さ・・ん・・放し・・」
ガチャガチャと背中の腰の辺りでノブが音を立てた。
前をなぞる手と、シャツの中、直接脇腹から背中を這い上がってゆくような手に、羞恥心と同時に湧き上がって来る熱。
「・・・ねが・・・やめ・・・」
ポロリと涙が落ちた。
「や・・ぁ・・・」
「アリス・・・」
耳元で囁く声はどこか優しい残酷さを持っている。
「・・・痴漢にそんな顔をしたらあかんよ」
「・・やめ・・・ぁあ・・」
「それにそんな声も出したらあかん」
ジッパーを下げる音が絶望的な音に聞こえた。
「・・江神さん・・・」
涙が霞む視界に映る、ひどくひどく綺麗な微笑みが切なくて・・・苦しくて・・・
「・・そんなとこ・・・触られて・・へん・・っ・・」
「うん・・」
「・・ほんまに・・!触られて・・な・・あ・ぁぁ!」
「だからどこを触られたんや?」
「ん・・ん・・」
「アリス・・・・」
追いつめるように熱に触れてくる指。
身体と気持ちがバラバラになってゆく感覚に涙が溢れ出す。
「ジ・・ジーンズの上から・・ほんの少し触られただけやもん!!あ・・ほんまに・・それだけ・・やから・・」
言いながらギュッとシャツを掴むと小さな笑い声が聞こえた気がした。
それが口惜しくて、でも煽られたこの熱をどうにかして欲しくて僕は涙でグシャグシャになっているだろう顔を必死に上げた。そして・・・・。
「もう・・・痴漢は嫌や・・」
「アリス?」
「・・・忘れたから・・・もう、忘れたから。せやから・・・え・・江神さんに戻ってください」
そう言ってこれ以上はないと言うほど赤くなった顔を隠すように僕は目の前の身体にギュッと抱きついた。
勿論痴漢にそんな事はしない。
「・・・江神さんやなきゃ・・嫌や」
僅かな沈黙は僕にとってひどく長いものに思えた。
言ってしまった、言ってしまった、言ってしまった!!!
頭の中で壊れたテープのように同じ言葉を繰り返して、いっそ狂ってしまった方がマシと思った途端今までとは少しだけ違ったようにフワリと抱きしめられて、ついで掠めるように口づけられる。
「そうやな・・・。俺もやっぱり痴漢よりこの方がええな」
「・・・・はい」
頷きながらの短い返事にもう一度、先程よりも少しだけ長いキスが下りてきて、そうして次の瞬間耳元で囁かれた「好きや」という言葉に僕は背中に縋り付いた手に力を込めた。