格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 1   
 

「……もう一度」

「アリス?」

「……もう一度言うてくれ」

 その声は微かに震えていた。

 追いつめられて、追いつめた。その自覚はある。

「出来れば返事を聞かせて貰ってからの方がいいんだがな」

「嫌や」

 すぐさま返ってきた短い答えに限りなく苦笑に近い笑みを落として。

 真っ直ぐに見つめてくる、けれどどこか不安げな瞳を見つめて。

「お前が、好きだ」 

 賭けだ。

 これは一つの賭けなのだ。

 そして、負けてもいいと口にしながらどうしても勝ちたいと思っている自分がここにいる。

 だから……。  



「お前が、好きだ」

  

 

 彼と『恋愛』を始める為に……

 



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「怒っとるやろ?」

「…怒ってない」

「……怒っとるやん」

「…怒ってない」

 言いながらも苦々しい表情でキャメルをふかす男の横顔を見つめたまま、大阪在住の推理小説作家…有栖川有栖は
思わず溜め息をついてしまった。

 リビングにはもうもうと白い煙が立ち昇っていて、すでに小火(ぼや)か!?と言う状態に近い。それでも怒っていな

いと言う彼長年の親友であり、二人の母校でもある英都大学の社会学部准教授である火村英生に有栖は再び何かを言う
べく口を開きかけて…止めた。

 何故火村がこうまで不機嫌になっているのか、その原因になっている(のであろう)自分の手に巻かれている白い包帯。
それを見て有栖は小さく眉を寄せる。ちなみに手の甲に巻かれているそれは長袖のシャツに隠れているが肘の辺りまで
同じ状態になっているのだ。

 それでは何故有栖がこんな包帯を巻くような怪我をしたのか。それは今日のフィールドワークに関係している。
 中短編を上げて3日目。うだうだと惰眠を貪っていた11時過ぎに久しぶりに火村からフィールドワークの誘いの電話が
入ったのだ。『まだ寝ていたのか?』という呆れかえったような言葉の後で『来るか?』と付け加えられた台詞に有栖は
一も二もなく飛びついた。

 原稿を送って3日。そろそろ修羅場で失われた体力も戻ってきて退屈になり始めた時だったのだ。
待ってましたとばかりに現場である住宅街に出向いて、いつものようにああだこうだと言いながら火村の推理を聞いて… 
そう、ここまではいつものフィールドワークとほとんど変わらない流れだったのだ。何よりも現場には顔なじみの船曳班の
面々がいて、こう言っては不謹慎極まりないのだが有栖はどこかでそれを楽しんでいたりもした。 
 ただ今回のそれがいつものそれと違っていたのは犯人の男を火村が追いつめてからだった。

 被害者の隣の部屋に住む痩せぎすのどこか神経質そうな男。

 一流の商社マンだった男はありがちと言えばありがちな話なのだが、バブル崩壊の煽りを食い、リストラの嵐に揉まれ
職を転々とする日々を送っていた。

 殺意というのは他愛もない所からわき出てくる事が多い。けれど一度わき出たそれが元に戻るのは非常に難しい事なのだ。
きっかけが次の不満を呼ぶ。不満はやがて苛立ちになり、苛立ちは更なる猜疑心を呼ぶ。

 男は頭が良かった。衝動的な感情がきっかけでもその手口はおそらく幾度も頭の中でシュミレーションを繰り返したの
だろう彼のアリバイは火村がそこに行くまでは鉄壁のものだったのだ。

 けれど、硬い物ほど壊れやすい時もある。

 火村が暴き出したそれに男はガックリと肩を落とし、その次の瞬間、連行しようとする刑事達の腕を振り払って隠し
持っていたナイフを振りかざして火村に向かってきたのだ。

 そして……。

『アリス!!!』

 耳に残る火村の声。

 間の抜けた話だが、その声で有栖は自分が何をしたのかが判った。そして更にその後で斬りつけられた腕がひどく痛み
出したのを覚えている。 

『馬鹿野郎!!』

 ダラダラと血の流れ出す手をすかさず心臓より上に上げさせた火村に有栖は顔を顰めながら『命の恩人にそれはないや
ろう?』と言った。

 けれど返ってきた答えは『誰がお前に助けてくれって言った!!』で、その言葉にムッとして怒ってもいいのは自分の
筈なのに、現場から病院へ、病院から警察へ、そしてマンションに向かう車の中と火村の機嫌は下がりっぱなしで、有栖は
とてもムカついていられる状況ではなかった。

 だからついつい“もしかしたらやっぱり自分の方が悪いのだろうか?”という気にさせられてとりあえずご機嫌伺いを
してみた結果がこれなのである。

「………」

 怒っていないと言う火村は相変わらず眉間に皺を寄せたままふぅと煙を吐き出すと短くなったキャメルをすでに満杯状態の
灰皿の上に押しつけた。
それを見て有栖は再びおずおずと口を開く。

「…えっと…こ…コーヒー飲むか?」

 だが出てきた言葉は見当はずれこの上ないもので、チラリと向けられた視線に有栖はとりあえず頬の筋肉を動かして笑い
顔を作ってみた。
重なる視線。それを外して俯いたのは火村の方だった。

 有栖がこっそりとついていた溜め息を、目の前でこれ見よがしに深く深く落として、火村はゆっくりと座っていたソファ
から立ち上がる。

「火村!?」

「俺は飲むけど、お前は駄目だ」

「……!何で!?」

 一瞬何の事を言われているのか判らずキョトンとしてしまった有栖の前で火村はさっさとキッチンに向かって

歩いてゆく。そこでようやくコーヒーの事だったのかと気付いて声を上げた有栖に火村は振り返りもせずに答えを返してきた。

「刺激物だから」

「そんなん…俺が飲むかって聞いたのになんで自分だけ飲んで俺が飲めへんねん」

「日本語が理解出来ないのかお前は。刺激物だから今日くらいは我慢しろ。コーヒーが飲みたかったら今回みたいな馬鹿な
事は二度とするな」

「!!」

 結局そこに戻るのか。一瞬声を失って、次に口惜しげに顔を歪ませた有栖に火村はパタンと冷蔵庫を開けた。

「相変わらず何もない…っと珍しく牛乳があるな。賞味期限も大丈夫だし」

 カチャカチャと勝手知ったる様子で火村はカップとミルクパンを用意してゆく。

「…せやから悪かったってもう何遍も言うたやろ」

「ホットミルクを作ってやるから大人しくしてろよ」

「おい、ごまかすな!現場でも、病院でも、警察でも俺は言うたやろ?君に迷惑を掛けるつもりはなかったんやて。身体が
先に動いたんや。怪我をしたのは俺の勝手で、不注意で、せやから怒るなって言うとるやないか」

「…怒ってない。ただ二度とするなって言ったんだ」

「…どう見ても怒っとるやん。そら確かについていった、何の役にも立てへんような助手が勝手に怪我をして自分の立場が
不味くなるって言うんわ…」

「俺はそんな事を言ってるんじゃない」

「なら!なんで!?なんでそんなんに不機嫌なんや!」

 いい加減煮詰まった有栖の言葉に火村は取り出した牛乳パックをトンとシンクの横に置いた。

「じゃあ、お前だったらどうなんだ?」

「…え?」

「お前が俺だったらどういう気持ちになる?犯人を逆上させたのは俺だ。その俺に向かって振り下ろされる筈のナイフを
横から出てきたお前が受ける。勝手に身体が動いたと言われても庇われて、傷を負わせた。お前ならそれでありがとうって
いう気持ちになれるのか?」

「……」

 長い指が幾分くたびれたキャメルのパッケージからそれを取り出して、再び黙り込んでしまった口に銜えられるのを有栖は
黙って眺めていた。

「……それは…」

「……」

 火を点ける小さな音がして、ついでユラリと揺れて立ち上る紫煙。

「けど、それやったら君かて俺の立場の事考えてもみないやろ?」

 一瞬だけ落ちた沈黙にけれど有栖は『異議あり』とでも言いたげに口を開いた。

「自分が一緒に行ったフィールドワークで自分の隣にいた奴が犯人に斬りつけられたとしたら…。その時に自分が何も出来ず
にただそれを見ていただけだとしたら情けないやん。そんなん嫌や。別に庇うとか、盾になるとか、犠牲になるとかそんな
風に考えているわけやないんや。ほんまに勝手に身体が動いた。君が俺の怪我を気にするんやったら俺かて君が怪我をするの
は見とうない」

「……」

「同じやろ?俺が怪我をしたのは俺のせいや。けど、君が気にするのも理解出来る。自分のために相手が怪我をしたら後味悪い
もんな。せやから気を付ける。これからはこんな怪我をしないようにする。それでもう許してくれ。間違っても…その…フィー
ルドワークに連れて行かないなんて言わんといてくれな」

 真っ直ぐに見つめてくる眼差し。有栖のこの瞳はとても好きだが今日のような時はひどくやりきれずに苛立ちすら思えると
火村は長くなった灰を一瞬だけ考えて水で濡らしたシンクの中に落とした。

「…火村」

「後でちゃんと掃除をしてやる」

「ちゃう、そんな事言うてない。さっきからはぐらかしてばかりや。なぁ、同じやろ?もしもこの包帯を巻いているのが君やっ
たら俺は絶対に自分の事責めとる」

「…別に責める事なんかないさ。犯人を煽ったのは俺だし、俺が怪我をしたんだったらそれは俺自身の見通しの甘さが引き起
こした自業自得って奴だ。お前が勝手に怪我をしたって言うよりもよっぽど正当性がある」

 怪我をする事に正当性も何もないだろうと思う有栖の前で火村は自嘲的な微笑みを浮かべた。

「とにかくお前の言う“同じ”とは違う」

「!!あのなぁ!俺は別に今日の事に限らずに言うとるんやで!隣にいて何も出来ずにいるのと、庇われて怪我をさせてしまう
のと怪我をさせたっていう負い目は一緒やろ!?」

「違う」

「火村!」

 ふぅと白い煙を吐き出して火村はシンクの中の水溜まりに短くなったキャメルをギュッと押しつけた。

 ジュッという小さな音が聞こえる。

「お前にとっては同じかもしれないが俺にとっては違う」

「……どう言う事や?」

 怪訝そうに寄せられた眉。その顔から視線を外して火村は残り一本になったキャメルを取り出すとそのパッケージをグシャリと
握りつぶした。

「とにかくお前が俺のせいで怪我をするなんて事はまっぴら御免だ」

「せやから!俺かて同じやて言うとるやろ!?」

「なら言い直そう。お前以上に御免だ」

「!!それってどういう事や!さっきから聞いてればまるで俺の気持ちがお前の気持ちとは違うみたいに聞こえるやないか!」

 子供は時としてひどく残酷にものを言う。それと同じだと火村はムッとして怒鳴る有栖の言葉を聞いていた。

 有栖は何も知らないからそんな事が言えるのだ。

「……誰もそんな事は言っていない」

「言うてるやろ!?」

「アリス」

「言ってる!俺かて君が大事なんやで!?自分のせいで怪我をさせたり、怪我をした時に自分が何にも出来ひんかったら嫌や!
同じやないか!それとも君はそうやないのか?」

 子供のような無神経な無邪気さで、火村を追いつめている事も知らずに…。

「…いっそ殺してやりたいよ」

「え?」

  ボソリと零れ落ちた言葉はけれど有栖にはうまく届かなかった。向けられたままの真っ直ぐな瞳。その眼差しに苛々とする
ような気持ちが膨れあがってゆくような気がして、火村はもう一度大きな溜め息をついた。

 そして……。   

「…何度でも言う。こんな事はするな」

「火村」

「そうでなければお前自身さっき口にしていたが、フィールドワークに誘うのを考えさせて貰う」

「!!火村!!」

 勿論フィールドワークの全てにこんな事が起きる訳ではない。そうでなければ警察の方も火村を呼べなくなってしまう。

 けれど、でも、嫌なのだ。

 たった今有栖を子供のようだと例えたが、ある意味火村自身も子供と同じだった。何がどうしても自分目の前で有栖が血を
流すなど耐えられない。それが自分を庇っての事なら尚更だ。

 そしてもしも、今までも可能性がなかった訳ではないのだが、向こう側に行ってしまった者達が火村への憎しみを有栖に向
けてきたら…。そう、火村自身に向けられるものならばいい。けれど始めから有栖にそれを向けようとする者がいたとしたら。

「………」

 有栖には庇うなと言っておきながら火村は必ず有栖を庇うつもりでいるのだが、それでも自分の居ない所でそれが有栖に向け
られたとしたら…

 目の前で口も聞けずにいる有栖をチラリと見て、火村は手にしていた最後のキャメルをようやく口に銜えて火を点けた。

 フワリと立ち上る紫煙。

「…君は…」

「…っ…」

「君は俺を何やと思うとるんや?」

「…アリス?」

 絞り出すような低い声に火村は沈み込んでいた思考の海から顔を上げた。

 途端に瞳に映った、口惜しげに歪んだ有栖の顔。

「…君は……君が怪我をしても俺が何とも思わないと思うとるんか!」

「……」

「俺が本当に何とも思わないと…俺にそんな風に思って欲しくないと思うとるんか…?」

「……」

「心配させて悪かった!フィールドの邪魔になって悪かった!けどな、俺は君が怪我をしなくて良かったと思うとる!何て言わ
れようと、君が怪我をするとこを見るのは嫌や!せやから…気を付ける。今度は二人でちゃんと逃げられるようにする。こんな
事にならんようにするからフィールドに誘わないなんて言うな」

「………」

「気持ちが…違うなんて言わんといてくれ……」

 言葉が小さく掠れた。

 うっすらと赤い瞳は泣いてしまうのを堪えているようにも見えて、火村は苦い何かが胸の中にせり上がって来るのを感じていた。

 そう、有栖川有栖と言う男はこういう人間だった。

 鈍感なくせに、一番の核心に近い所を突いてくる。

 「チッ」と小さく落ちた舌打ち。こんな風になる予定ではなかったと火村は今更ながら思った。

 思っていた以上に自分は有栖が目の前で斬りつけられた事がショックだったらしい。

 再び込み上げてくる苦い思い。早く悪かったと、今度は一緒にそうしようと、自分も同じ気持ちだと言ってしまえばいい。
そうすれば何も変わらない。けれど…。

「どうしてそんなにこだわるんだ?」

「え…?」

「お互い違う人間なんだ。考え方や、感じ方が違うのは当然だろう?それなのに何でそんなに同じ事にこだわるんだ?」

「あの…」

 困惑したように有栖の瞳が揺れた。そこまでにしておけと火村の中でけたたましく警鐘が鳴り響く。

「…せやって君が…」

「俺が?」

「…君が自分が怪我をした方が良かったみたいにいうから」

「当然だ。自分の迂闊さが招いた事なんだから」

「でも!でも…そういうんやなくて…えっと…自分を大切にせなあかんと思う」

「ほぉ…今日の今日でお前がそれを言うか」

「……ああ…ちゃう…せやから…」

 怒りをどこかに忘れてしまったかのように有栖は火村の出した問い掛けに必死で言葉を探していた。
文筆業という『言葉』を使う仕事をしている割に有栖は自分の思いを言葉で表すのがあまり得意ではない。多分感情の方が先に
なってそれがついてこられないのだ。学生時代からそれはあまり変わらない。

「…自惚れるなとかと言われるかもしれへんのやけど…もしも、今日の犯人が火村やなくて俺の方に来たとしたら、火村も同じ
事をしたんやないかって…」

「!?」

「ごめん。勝手な想像なんや。ほんまに自惚れとるって感じやな。けど…何がどうってよぉ判らんのやけど今日はたまたま犯人が
火村の方に行って俺の身体が勝手に動いただけで、反対の事だってあると思ったんや。その時に俺もどうして庇うんやって思う
けど、君はそれを当たり前みたいに思うやろ?自分のフィールドワークの中で起こった事やから自分が怪我するのは仕方がない…
それは嫌なんや。そら勿論こんな事しょっちゅうあってたまるかと思うし、あったら困るけど、ないとも限らん。その時にそれは
起こっても当然みたいに思わんでほしいんや。…すまん…うまく言えん」

 長めの言葉を紡いで、有栖は少しだけ困ったような顔をして俯いた。

「…自分から進んで怪我したいと思う奴はいないだろ」

「うん…そうなんやけど…ああ…それでええんやけど…うーん…したら俺の事もほっといてな」

「…アリス?」

「俺に何かあってもそれは俺の自業自得なんやから。俺に向けられたものに手を出したらあかんで」

「……」

「そういう事や。俺は勿論助けて欲しいとは思わんよ。けど、始めからそんな風に何の手も要らんて拒絶したら何も、誰も信じて
へんみたいやろ?お前なんか要らんて言うてるのと同じやん。少なくとも俺はそう感じたんや。

せやから気を付ける。気を付けるから俺の存在を否定せんといてくれ」

 再び真っ直ぐに向けてくる瞳。 訪れた沈黙。

 そして…。

「……お前が刺された時、心臓が止まるかと思った」
「…火村…?」

 最後のキャメルを前のそれと同じようにシンクの中で消して、火村は小さく口を開いた。

「失ってしまうかもしれないと思った瞬間襲ってきたのは恐怖だ」

「………」 

「お前を刺した奴を殺してやりたいと思った。お前にもしもの事があったらそうしていた」

「…火村…」

 瞳が驚いたように見開かれる。

 少し茶色がかったその瞳を見つめながら火村は更に言葉を続けた。

 同じだと言ったのは有栖なのだ。そして、ここまで火村を追いつめたのも有栖自身だ。
言ってしまう事でどうなるかは判らないが、言ってしまってもいいかもしれないと火村は思い始めていた。

 そしてもしも、もしもそれを告げた事で有栖が火村の元を去って行くと言うならば、今度こそ自分は何の枷もなく、大事な者を
守る事も、傷つけられるかもしれない恐怖を抱える事もなく生きてゆこう。

「俺の気持ちって言うのはそう言う気持ちだ。だからお前とは違うと言った」

 一瞬の沈黙。けれど真っ直ぐに自分を見つめてくる火村に、有栖はムッとしたような顔をして口を開いた。

「そんなん俺かて同じや!もしも君が刺されたりしたらそう思う。心臓が止まる位びっくりするし、居らなくなったらどうしよう
と思うし、もしもの事なんて考えたくもないけどそんなんなったら絶対仇討ちしたる!」

「…馬鹿…」

 クシャリと火村には珍しい、泣き笑いのような不思議な微笑みが浮かんだ。気持ちが又一つ軽くなる。
もしかしたらと甘い思いが胸の中に湧いてくる。

「!!あのなぁ!なんでそこで馬鹿なんや?ほんまに失礼な奴やな」

「アリス」

「何や?まだなんかあるんか?ええで、もう何でも言うてくれ。証明は得意なん…や…」

 言葉の途中で引かれた腕。そのままバランスを崩して倒れ掛けた身体を火村にしっかりと支えられたその次の瞬間、有栖の唇を
何かが掠めた。

「…え…」

「お前が悪い」

 耳元で囁く火村の声。

 それは多分、火村にとって最後の言い訳だった。

 勿論そんな事を有栖が判る筈がなく、抱き寄せられた腕の中で何が何だか判らないという顔のまま有栖はポツリと口を開いた。

「………怪我したから?」

「馬鹿…」

 見当違いのその答えに火村の口から先程と同じ台詞が今度は少し楽しげな笑いを含んで繰り返された。

 途端に条件反射のように寄せられる眉。

「…せやから…馬鹿って…っ…」

 言いながら上げられた顔を、けれど今度は掠めるようなものではなく、しっかりと唇を重ねて口づけて。

「……っ…ひ…」

「好きだ」

「!!」

「お前に庇われるのも、お前が怪我をするのも見たくない。好きだからどんな事をしても守りたかった」

「……」

「これがお前が引きずり出した、俺の本当の気持ちだ」

「……火村…」

 瞬間、有栖は全ての音が消えてしまったような気がしていた。喉が張りついてうまく声が出ない。けれど頭だけはもの凄い
勢いでフル回転を始めていて、火村の腕の中で動けないまま、目の前の、ひどく見慣れた、けれどまるで初めて見るような
男の顔を見つめていた。

 今この男は何を言ったのだろう?

スキダトイッタ。

 好きとはどういう事なのだろう?

ワカラナイケド、キスヲシタ。

 なぜ火村はキスをしたのだろう?

スキダカラ。

 キスを…。

「それで?」

 回るような思考を止めたのは火村の短い問いだった。

「…それでって?」

「それでも同じ気持ちなのか聞きたい」

「!!!!」

「アリス」

 抱きしめている腕に少しだけ力が込められる。

「…ず…ずるい!」

「ずるい?」

「こんなん…誘導尋問か悪徳商法と同じやないか」

「聞きたがったのはお前だ」

「せやかて…こんなん…急に言われても…」

 じゃあ急でなければいいのかと聞き返されそうで有栖は慌てて俯いてしまった。

 その途端思い出したようにドクンドクンと鼓動が早くなってゆく。

「…い…いつから?」

「ずっと」

「!!ずっとって…そんなに前から?」

「自覚したのは大学の終わりくらいか」

「………気付かんかった…」

「言うつもりはなかったからな」

「…何で?」

「何でって、お前言ってそうかって答えられたか?」

「……」

「言う事よりも一緒に居られる事を取ったんだ」

「………」

 冷蔵庫のモーターがブーンと低い音を立てているのが聞こえた。ピチャンと蛇口からシンクの中に雫が落ちて跳ねる。

「…じゃあ何で言うたんや?」

「お前が問いつめたんだろ」

「そ…それは…けど…」

「それでもいいと思ったから」

「!?火村?」

「もしもこれでお前が離れて行くなら仕方がないと思ったから」

「そ…それってどういう事や!?」

 腕の中から驚いたように上げられた顔に火村は微かな笑みを浮かべた。そうしてゆっくりと抱きしめていた腕を放す。

「こういうのは仕方がないだろう?お前が好きだと思う気持ちはどうにもしようがない。それをお前が嫌だと、気持ちが悪い
と思う気持ちも仕方がない」

「そんなん!…そんな…」

「言ってから何もなかったように今まで通りって言うのもお互い無理があるだろう?だから仕方がない。俺の気持ちは俺のも
ので、お前の気持ちはお前のものだ」

「………っ…そんな簡単に理屈で割り切れるもんなんか?」

「違うアリス。割り切らなきゃいけないんだ。だから聞きたい。お前は?」

 下りてきた沈黙。

 ドクンドクンと心臓が破裂しそうな音を立てているのが判った。情けなくも足と指先がガクガクと震えている。

 確かに自分は同じだと言った。

 火村が怪我をするのを見たくないと思った。その為なら自分が怪我をする方がマシだとも思った。今日も確かにこんな怪我を
したがそれよりも火村が怪我をしなくて良かったと思ったし、怪我をした事で心配を掛けて悪かったと思った。そして、フィー
ルドに連れて行くのを考えると言われた事が、火村が自分を切り離すのだと思えて、ひどくひどく嫌だった。

 火村は自分の気持ちを「好き」なのだと言った。

 それでは自分の…有栖自身のこの気持ちは何と呼べばいいのだろう?

 ただの親友と呼ぶには違うものなのだろうか。

 火村が離れて行ってしまうと思うだけでこんなにも動揺している自分は何なのだろう。

「……もう一度」

「アリス?」

「……もう一度言うてくれ」

 微かに震える固い声。

「出来れば返事を聞かせて貰ってからの方がいいんだがな」

「嫌や」

 間髪入れずに返ってきたのは子供じみた短い答え。それに溜め息のような微かな笑いを漏らして、火村はゆっくりと下ろし
たままだった腕を広げた。

「お前が、好きだ」

 ヒュッと息を飲む低い音が聞こえる。

 瞳が揺れる。

 真っ直ぐ見つめてくる、どこか泣き出しそうな子供の瞳。

 自分が狡い事をしていると火村は思っていた。

 けれど、火村自身にとってもこれはもうすでに賭けなのだ。

「お前が好きだ、アリス」

 伸ばした手が動かないままの有栖に再び触れた。

 ピクリと震える身体。

 けれど、瞳は外さずに。

「…ずるい」

「ああ…」

「絶対確信犯や」

「ああ」

 言いながら有栖の顔はどんどん赤く染まってゆく。

「…俺…ほんまによぉ判らんけど、でも今まで言った事嘘やない」

「…知ってる」

「同じ気持ちと…思う……今も思う」

「………」

 その目一杯赤く染まった顔の有栖にフワリと笑って火村は再び目の前の身体を抱きしめた。

「…気持ち悪いって思わんのは、やっぱりそうなんやろか?」

「さぁな」

「…どうしよ…」

「……」

「俺…これからどないしよ」

「別に、変わる事なんかないだろ?お前はお前のままでいればいい」

「…うん…」

 重なる唇。

「…っ…火村…」

「それで?」

「…多分……き…や…」

「多分をつけずに、もう少し大きな声で」

 言いながら目元に、髪に、耳元に掠めて落ちてくる口づけ。

「…好きや」

「もう一度」

「!あのなぁ!!」

「そうその位で」

 クスクスと笑いながら長い指が有栖の髪を弄ぶ。

 それがたまらずに恥ずかしくて。

「火村!」

「何だ?」

「……う…」

 ひどく近くでニヤリと笑う見慣れた顔。

 ドクンと跳ね上がる鼓動。 

「…好き…や…。狡くて、意地が悪くて、口も悪くて、絶対流されたとか、丸め込まれたとかしか思えんけど、でも……
それでもいいと思えるくらい…好きや!

聞こえたか、このアホんだら!!」

「お褒めにあずかって光栄」

「…誰も誉めとりゃせんて」

 唇が触れる。

 触れて、離れる。

「……っ…」

 離れて、深く重なる。

「…アリス」

「…ん…」

「アリス……」

「…ぅ…ん…」

 舌を絡めて。

 縋るようにその背中に手を回して。

 一瞬離れて、引き寄せられて。

「…好きだ」

「うん……」

 口づけて…。

「アリス…」

「…好き…や…」

 初めて聞く火村の声と浮かされたような自分の声。

 それをどこか遠くに聞きながら、有栖は背中に回した手に少しだけ力を込めた。






一気に話を進めました(笑)