格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 2  
 

 目に痛いほど眩しい青葉。

 新緑鮮やかなこの季節は実は結構好きだ。

 もう十数年も前になるが、有栖と出会ったのもこの季節だった。

 もっともその時は、まさかこんなにも長く彼との付き合いが続くとは思ってもいなかった。
ましてや自分がこうも彼に執着をするとは考えもしなかった。

 好きだと言って、好きだと返されてから約1ヶ月。

 多少その応えを強要した感もなくはないが、それまでの彼の鈍感さを差し引けばお釣りが来るだろうと火村は思っていた。

 大体自分は他人に対して世話を焼く人間ではない。

 好きだとは告げずにいたが、それこそ原稿が上がらないと言えば叱咤激励し、修羅場明けかその前辺りにはおよそ人間離れをした
衣食住の生活を立て直す手助けもした。しかも食事に至っては修羅場明けどころか、突然かかってくる電話で「あれが食べたい」と
いうものを作りに行った事も差し入れに行った事も両手では足りない。その他温泉に行きたいと言えば付き合い、カニが食べたいと
言えば仕事を調整し、やれ花見だ、月見だ、クリスマスだ、誕生日だ、正月だと、切りもないようなイベント好きにも文句を言いな
がらも付き合い続けてきた自分は、これほど似合わない言葉もないが“健気”と言っても過言ではないだろう。

 だから、思いが実ったその日。

 自分たちは間違っても『子供』ではないから勿論“両思いで良かったね”と終わる筈はなく、と言うよりも火村自身が終わらせる
筈もなく、この時とばかりに『大人』という文字を振りかざし、見事に全部戴いた。

 口づけにとけて、流された身体を否応なく多少強引とも言える勢いで、火村は有栖の全てを自分のものにしたのだ。

 どうすればいいのか判らないだの、何をするんだだのそんな所を触るなだの、果ては「嫌だ」「やめろ」「助けてくれ」「アホ
アホアホー!!」という色気のかけらもない言葉が次々と飛び出したが、それでも何でも行き着くところまで行ってしまえば勝ちで
ある。
そして、ヤッてしまえばこの言い方が下品極まりないとなりたての恋人は赤い顔で怒鳴っていたが後はもう…坂道を転がる勢
いで……。

「…ったく…」

 ポツリと溜め息混じりの言葉を零して火村はすでに頭に入ってこない学会のレジメを少しだけ横にずらすと机の上のキャメルに手
を伸ばした。

 そうして取り出したそれを銜えて、火を点けて、新緑を映す窓に向かってふぅと白い煙を吐き出す。

『…や…嫌や…』

 はじめて聞く、細い声だった。

 額に浮かぶ汗と苦しげに寄せられた眉が切なくて愛しくて、幾度も名前を呼んだ。

 こんな風に触れる事などないと思っていた身体は信じられないほど熱くて、せわしない息を吐く唇に、上下する胸に、そして日
に焼けていない肌に、幾度も唇を落として、身体を繋げた。

 今となっては笑い話の域に入る話だが、初めての時、どうされるのか行為の途中でその行く末に気付いた有栖は絶対に無理だと
青い顔で首を横に振った。

 だがしかし、火村とて今更な状況なわけで、泣きそうな顔の有栖とうろんな目つきをした火村はややしばらくベッドの上で睨め
っこをする羽目になった…

  

『…判った』

『…え…』

 火村の声に有栖はあからさまにホッとした表情を浮かべた。そうして次にさすがにすまなそうな顔をする。

 それはそうだろう。この状況でそれがどう言う事なのか、同じ男ならばよく分かる筈だ。

『ごめんな…その…』

 しどろもどろの言葉。けれど次に耳に飛び込んできた火村の言葉に有栖は思わず固まってしまった。

『ゴムあるか?』

『………っ…なん…やて…?』

『持ってないのか…たく…』

 言いながら火村はベッドを下り、寝室を出て、すぐに戻ってきた。しかも手には件のものを持ってだ。

『…どこから…』

『たしなみ』

『アホぬかせって!おい!何す…火村!?』

 慌てる有栖の足を火村は有無を言わさず広げた。

『い…嫌やって言うたやろ!…判ったって言うたやないか!火村!!』

『ばか、この状況ではいそうですかなんて言えるか。ほら足を閉じるな。暴れるな』

『や…嫌や!無理や!!絶対!そこは出すとこで入れるとこちゃう!…っ…やぁぁ!!』

『うるせぇな、痛くないだろ』

『…痛い…気持ち悪…』

 指が中をこするように動く。ただし、ゴム(コンドーム)をつけた指が…である。

『……っ…や…』

 かぶりを振って有栖はギュッと目を瞑った。

『ここか?』

『…ぁ…やだ…』

 そっと増やされる指の数にヒクリと喉が鳴る。

『…ほら、勃ってきたぜ?ちなみにこれは男の生理現象だから。前立腺って奴を刺激すれば誰でもこうなる。医者でもソープでも
やられている事だ』

『…ん…ん…』

 こんな事をする医者にもソープにもお世話にならないでいいと有栖はぼんやりしだした頭の中で考えていた。

 けれど火村が言った通りなのだろう。上がってくる息と思いがけないような感覚に泣きたくなるような羞恥心と快感が有栖の中
で渦を巻き始めていた。溜まってゆく熱を早く何とかしたくて、それを与えている手にもっとと馬鹿な事まで言いたくなる。そん
な有栖に火村はフワリと笑って指を抜いた。

『や…っ…』

『欲しいだろう?アリス』

『…な…に…っ…』

『どうにかしてほしい。そう思っているだろう?』

 耳元で囁く声すら熱を煽るものだった。勿論火村はそんな事は百も承知で耳朶をそっと甘噛するともう一度「アリス」と名前を
呼んだ。

『…ん…ゃ…』

『好きだ、アリス』

『…火村』

『欲しい…』

『…あ…』

『ひどくしないから…』

 甘い言葉を囁いて、震える熱に指を絡める。

『…アリス…』

『…っ…火村ぁ…』

 限界とばかりに伸ばされた指。その指先に音を立てて口づけて火村はもう一度有栖の足を広げて抱え直した。 そして先程から
痛いほど張りつめていた熱をゆっくりと、ほぐしたそこに当てて…。

『!!やぁぁぁぁ…!!』

 押し進めた……

   

 翌日ベッドから起きあがれなかった恋人を火村はこれでもかと言うほど甘やかしきって世話をした。

 さすがにスプーンで食事を口に運ばれるに至り、有栖は赤い顔で「起こしてくれたら自分で食べる」と言い出した。もっとも抱
き起こしたまま胸に寄りかからせて食べさせたのだからそう大差はない。勿論有栖は嫌がったが火村が譲らなかった。

 それほどに上機嫌な火村がこんな有栖を置いて京都に帰る筈がなく、火村はその後10日間を夕陽丘のマンションから京都御所
前のここ、英都大学に出勤し、夕陽丘のマンションに帰るという生活を送った。

 しかも、それのとりあえずの終止符が有栖から呆れたような、照れて困ったような表情で「ほんまに帰らんでええのか?」と言
われてなのだ。更にそのやりとりがピロートークだったというところが又泣かせる。

 ---------------以下再生。

『帰ってほしいというわけか?』

『そういうわけやない。けど無理してるのを見るのは嫌や』

『別に無理はしてねぇよ』

『……けど新年度が始まったばかりでいつもは忙しいって…俺はぐーすか寝とるけど…君は朝早いし…無理して事故でも起こされ
たら嫌や』

『心配してくれるわけか?』

『当たり前やろ!!』

『良かった。愛想を尽かされたのかと思った』

『アホ!そんなん…ある筈ないやん』

 ---------------再生終了。

 長くなった灰を火村はトンとは皿の上に落とした。そうして再びキャメルを銜え直して紫煙を吐き出す。

 人間、恋をすると馬鹿になる。

 それはある意味、非常に的をついている言葉と火村は思った。恋が実った途端生活が変わる。今までの自分に言わせれば間違い
なく『馬鹿』だ。

 大体自分はこういうタイプの人間ではないと思っていたのだ。だから好きだと言っても、恋人と呼ばれる関係になっても、取り
立てて何かが変わる筈はない。

 ……大間違いである。

 片恋という恋をしている方がまだマシだった。

 抱いて、啼かせて、甘えさせる。そうしたいと思っていた人間に対して、そう出来る事が、俗物と言われようと何と言われよう
と幸せなのだから始末におけない。

 だから有栖の言葉にとりあえず翌日は下宿に戻り、火曜の夜と週末を泊まるようにした。

 その代わりすぐにくるGWはずっと一緒にいる約束をとりつけた。

 実際一週間以上にもなるその大型連休は、思い出すだけで顔がにやけるものになった。

 短くなったキャメルを灰皿の上で押し潰して火村は最後の煙を大きく吐き出した。その途端コンコンコンと聞こえてくるノック
の音。

「…どうぞ」

「失礼します、ヒム。学生達からマドレーヌの差し入れを貰ったので一緒にどうかと思いまして」

 入ってきたのは英文科の英国人講師、ジョージ…ウルフだった。

 にっこりと笑う碧眼。それに「コーヒーでいいのか」と応えると、ジョージは「よろしければ私が紅茶を淹れましょう」とやん
わりとリクエストを返してきた。

「それにしても今日は暑くなりましたね」

「そうか?」

「もしかして、ヒム。全く外に出ていないのですか?」

「…いや、駐車場からここまでは歩いてきたぜ。ちなみに2限は向こう側の棟だったからそこにも外を通って移動した」

 シレッとそう言って机の上のレジメに目を落とす火村にジョージは小さく肩を竦めた。

「まったく…そういうのは外に出たうちには入りません。いいお天気なのに」

「暑いって言ったばかりじゃねぇか」

「夏のような暑さじゃありませんよ。ヒムもたまには日光を浴びた方がいい。ビタミンBだかEだか忘れましたが足りなくなりま
すよ」

「忘れるくらいのもんならそんなに必要ないだろ」

「…何だか違う気がしますが。さて、入りましたよ。アッサムティです。そしてこちらが差し入れのマドレーヌ」

「…ああ、ありがとう」

 湯気の立つティーカップを横目に、火村はキャメルを取り出した。どうせしばらくは飲めないのだ。それを知っているから普通
ならば失礼極まりないその所業をジョージも何も言わずにソファに座って見ているだけだ。

 揺れる紫煙。気怠い午後の沈黙。そして。

「…本当に」

「何だ?」

 ポツリと聞こえてきた声。

「やに下がってますね」

「!!何だって…?」

「いえ、女子学生達が言っていたんですよ。ヒムがやに下がっていると」

「………」

 下に恐ろしきは女の洞察力である。

 けれどそれをいつものポーカーフェイスで隠して、火村はまだ熱い紅茶のカップにそっと手をかけた。

「へぇ…そりゃ又。それでマドレーヌを持って視察に来たわけか」

「ええ、そんな楽しいものが見られるなんて滅多にありませんからね」

 ジョージの言葉に火村は小さく肩を竦めて少しだけ紅茶を口に含んだ。やはり熱い。

「それで、ヒムのハートをこんな見事に掴んだのは誰なんですか?」

「おい、頼むからその薄ら寒い質問はやめろ」

「お気に召しませんでしたか?それではもっと俗に言ってヒムをメロメロにしたのは誰です?」

「…面白がっているだろう」

「勿論です。ゴールデンウィーク前もかなり話題になっていたんですが、明けてからの方がもっと凄いですよ。

もっとも勝ち目がないってやっかみ半分諦め半分ってところでしょうが」

 微かに食器の触れる音をさせてカップをソーサーに戻すとジョージはマドレーヌに手を伸ばした。

 そして一口それを頬張るとニッコリと笑って火村に視線を戻す。

「ああ、美味しい。紅茶はまだ熱いけれどマドレーヌは冷めてますよ」

「そりゃどうも、ご丁寧に。せっかくのご視察だが特に何も出て気やしなかったとこいつの差し入れ人に言っておいてくれ」

 パクリと口にしたマドレーヌはパサパサとしたものではなく、バターの風味がよくきいていた。隠し味…とでも言うのだろうか
どこかレモンの香りが口に広がる。

「…ふーん」

「どうされました?」

「いや、どこで買ったのかと思って」

「手作りだと言ってましたよ」

「へぇ…」

 それは残念。そんな声にならない火村の声がまるで聞こえてでもいるようにジョージはフワリと笑って口を開いた。

「レシピを訊いておきましょうか?」

「……いや」

「そうですか?ところでヒム、ゴールデンウィークはどこかに出掛けられたんですか?」

「いや、どこも込んでいると判っているのに出掛けるなんて気が知れない」

 そう、どこかに行きたそうだった有栖にもごった返す行楽地の映像を流すニュースを見せて諦めさせたのだ。

 もっともその後で空いた頃を見計らって温泉にでも行くかと囁いたのだけれど。

「ではずっと下宿に?」

「おい、だから叩いても何も出てきやしないって言ってるだろう?」

「単なる世間話ですよ」

 ようやく冷めて程良い温度になってきた紅茶を口に運びながら火村は食えない外人講師を睨みつけた。その途端鳴り出した携帯
電話。
確かめると有栖からと表示が出ている。

 目の前のジョージに小さく詫びて、火村は座っていた椅子ごとクルリと窓の方に向いた。

「はい」

『あ…火村?俺や』

「どうした?」

『うん、あのな、今日ちょっと予定が入ってしもうたんや。すまんけど…その…週末でええかな』

「…急な仕事か?」

『いや、えっと…買い物してたら久しぶりに友達に会うて…ちょっと飲もうかって話になったんや。い…一応明日はどうかとか言う
てみたんやけど、なんやえらい元気なくて、気の早い夏バテか言うたらそんなんやないって。まさかそこで真剣に返されるとちょっ
とびっくりって…すまん…話が長くなった。…火村?』

「聞いてる」

『…怒ってるか?』

「…いや。仕方がないだろ。まぁ、それでホッとされてたら傷つくけどな」

『そんなん思わんわ。ほんまに悪かった。えっと…あの…金曜日待ってるから』

 脳裏に浮かぶ、赤い顔をした有栖。目の前の新緑を見つめながら火村は「ああ」と返事をして電話を切った。

 ふぅと漏れ落ちた溜め息。

「予定のキャンセルですか?」

「!!!」

 慌てて振り返ると涼しい顔をしたジョージがカップを手にこちらを見ていた。

「……ああ」

 思わず苦い顔をする火村にジョージはクスリと笑って

座っていたソファから立ち上がった。

「そんな顔をするものではありませんよ、ヒム。私の口は堅いです。彼女たちにはやっぱり本命がいるようですが、詳細は掴めませ
んと伝えておきましょう。ついでにマドレーヌのレシピも手に入れますよ。それでは」

 どうやら彼には電話の相手が判ってしまったのだろう思わぬ所で一つ貸しが出来てしまった。

「…旨く焼けたらお裾分けをするよ」

「楽しみにしています」

 誰が何を焼くのか。学生達が知ったら悲鳴あげそうな言葉を口にした火村に物怖じしない英国紳士はにっこりと笑ってドアを開け
て、閉じた。

 確かにこれではメロメロと言われても仕方がない。

 閉じたドアにクスリと漏れ落ちた笑い。

 とりあえず、今日の予定はキャンセルになったのだ。週末までに回せる仕事を回しておこう。

 多分有栖もそろそろ原稿の締切がある筈だ。

「…ったく…」

 手にしたら今度は離れる事が怖くなる。

「案外俗な人間だったんだな…」

 すっかりぬるくなった紅茶を口にして、火村は今日の予定を立て直し始めた。

 



ジョージは個人的に大好きです。動かしやすくて(笑)