「おい、食うのか食わないのかはっきりしろよ」
つけっぱなしのプロ野球中継。相変わらずの阪神の戦いを、けれど見ているわけではなくボーっとしている有栖に火村は呆れたように口を開いた。
「あ…すまん。食べる」
再び動かし始めた箸。それにテレビの中の試合も膠着状態から抜け出して3番バッターが三遊間を破るヒットを打った。
「…負けだな」
「やかましい。奇跡の逆転が待っているかもしれんやろ」
「“奇跡の”ってファンを名乗る奴がつけるか普通」
ニヤニヤと笑う顔から嫌そうな表情を浮かべて視線を外して有栖は金目鯛の煮付けを口の中に放り込んだ。
ちなみにこのメニューは有栖は火曜の夜に食べたいとリクエストをしていたものだ。忙しい筈の助教授はしっかりとそんな事を覚えていて約束の
金曜日に材料を持ってきた。「…どうした?」
「なんでもない」
「そうか」
他愛もない短いやりとり。どうやら相手のチームがヒットを転に繋げなかったようで、試合は8回の裏、阪神の攻撃になるところでCMになった。
流れてくる軽い音楽。画面には海岸線を滑らかに走る車が映し出されていた。
「具合でも悪いのか?」
「何でや?」
「ボーっとしてる」
「…そんなんいつもと同じや」
「へぇ自覚はあったのか」
「あのなぁ!」
ムッとしたように上げた顔。その瞬間飛び込んできた思いの外優しげな火村の表情に有栖は何も言えないまま小さく俯いてしまった。
「やっぱりお前、おかしいぞ?」
「勝手に人のことアホ呼ばわりすんな」
「誰もしてねぇよ。ほら、もうやめとけ」
言いながら箸を奪われて有栖は慌てて再び顔を上げた。それを見て火村はクスリと笑いを漏らす。
「馬鹿、ラップして冷蔵庫にしまうだけだ。お前の食べ物を取ると後が怖いからな」
「人を食欲魔人みたいに言うな」
「食欲魔人ね。コーヒーにするか?それともビール?」
「…コーヒーがええ」
「やっぱりお前調子悪いんだろう?」
「別に、食後はコーヒーやん」
キッチンとダイニングでのやりとり。香ってくるコーヒーの匂いに有栖はテレビの前のソファに移動して始まった8回裏の攻撃を見始めた。
「ほら、コーヒー」
「サンキュ。あれ?君もコーヒーなんか?」
当たり前のように隣に腰を下ろした火村の手元を見て有栖は意外そうな声を出した。
「食後はコーヒーなんだろ?」
「……ほんまにああ言えばこう言う男やな」
「素直って言ってくれ」
「素直の言葉を辞書で引き直した方がええで、先生」
コクリと熱いコーヒーに口をつけて、有栖は画面に視線を戻した。打席には4番バッターが立っているちなみに前者は凡フライに終わった。
「…こいつが打って累に出ればチャンスはあるんやけどなぁ」
試合は2点差。決して逆転が無理な点差ではない。
「よっしゃー!行けっ…!捕るなー!!」
だがしかし、有栖の応援も虚しく大きく上がったフライはセンターのグローブに収まった。「………ツーアウト」
「…うるさい」
結局三者凡退。試合は最終9回に変わる事を告げるアナウンサーの声に火村がリモコンでテレビを消してしまった。
「ちょっ…何すんねん!まだ9回があるやろ!」
「奇跡の逆転はないから安心しろ」
「あのなぁ!安心ってそれは安心やなくて」
「どうせさっきまでは見てもいなかっただろ?」
「……」
図星を指されて黙り込んでしまった有栖に火村はそっと肩を抱き寄せた。途端にピクリと震える身体。
「何かあったか?」
「…何かって…やめ…くすぐったい…!」
耳元で囁きながら仕掛けるように耳朶に触れる唇に有栖は赤い顔で身を捩った。
「…せっかく一週間ぶりに会えたのに心ここにあらずってぇのは気になるだろ?」
「そんなん…やめっ…て…火村…!」
耳朶に、付け根に、首筋に触れてゆく唇。
「……ほんまに…何でもない…」
「なら俺を見ろよ」
「見とるやろ」
「他の事を考えるな」
「…っ…考えとらんて…ん…」
奪うように落ちる口づけ。独占欲が心地よい事を知ったのはつい最近の事だ。もっともそれも相手が限定の場合だがと有栖は浮かされ始めた
頭でそんな事を考えた。「……ここで…?」
「嫌か?」
そう訊きながら火村の手はすでに有栖の服を脱がしにかかっている。そうしながらもこめかみに、頬に落ちる口づけ。
「…俺…まだ風呂入ってない…」
「あとでどうせ入るんだから同じだろ」
「……そう言う問題と…ぁ…や…」
ゆっくりとソファの上に倒されるとひどく部屋の明るさが気になって有栖は目を眇めた。
「…眩しい…」
「ああ?」
「電気」
「ああ、消さないぞ」
「でも」
「今更だろ。お前の裸はもう何度も見てる」
「せやから、そういう問題とちゃう…や…火村」
もう話は聞かないとでも言うように肌の上を滑り始めた火村の手に有栖はビクリと身体を震わせた。
「…な…明かり…消し…」
「真っ暗だと見えなくなる。暗闇でテレビをつけてお前が負け試合の観戦を始めたら困る」
「ア…ホ…そないな事するか…あ…あ…」
胸が性感帯になる事は火村に教えられた。
指が、唇が、その胸の突起を、脇腹を、臍を…ゆっくりと触れて有栖の知らなかった快感を引きずり出してゆく。
「ん…ん…っ…」
「……ったく…手を放せ」
「……」
「声を出さないと苦しいだろう?」
「んん…っ…」
明かりを消さない代わりとでも言うように有栖は口に手を当てたまま首を横に振った。
「アリス…」
「…っ…」
「ほら…」
「!!」
「強情っぱり」
「……っ…く…ん…!」
立ち上がる熱に触れられて再び身体が跳ねる。
「…アリス」
「…っ…」
「アリス…」
「…ふ…ぁ…!!」
口に含まれて身体を駆け抜けるような感覚にジワリと滲む涙。それでも手を退けない有栖に火村はわざと音を立ててそれに舌を這わせる。
「…ゃ…め…」
「手を退かせ」
「…ん…」
「退かさないとこのまま突っ込む」
「!!…なん…で」
「お前が強情な上、何か隠しているからだ」
「…何も…隠して…っぁあ!」
「仕事か?」
「ちゃう…」
「じゃあ、俺との約束を反故にして会ったっていう友人関係か?」
「…っ…別に…や…や…そんなん…」
「アリス」
「は…あ…も…」
舌が猛ったそこから奥に移り、更に広げられ、暴かれて有栖はその手で顔を隠してしまった。その為か漏れ落ちる声はくぐもったすすり
泣きにも聞こえて、火村をひどく嗜虐的な、けれど罪悪感を感じさせる気にさせた。「…アリス…手を退けろよ」
「………」
「アリス…顔も見せてくれないのか?」
「……」
「好きだ…」
「…っ…」
「明るいのが嫌なら目を瞑ってろ。それくらいなら許してやる」
傍若無人な物言いにクスリと笑って有栖はおずおずと手を退かした。それを見てすかさずその手を掴むと火村は涙の滲む目元に口づけを
落とす。「…いい子だな」
「…アホ…」
重なる口づけ。
互いの間でこすれる熱。
ゆっくりと背中を辿って先程舌で濡れた場所を指が割る。
「…ぁ…」
「………」
「…っ…」
荒い息が部屋の中に響く。
時折混じる細い声。そして…。
「あ…あぁぁぁぁっ!!」
やがて引きつるような声と共に有栖の瞳から涙が溢れ出した。
◇ ◇ ◇
「大丈夫か?」
「……大丈夫やない」
「風呂はどうする?」
「……もうええ」
「入れてやろうか」
「…遠慮する」
「そりゃ残念」
ソファの上で寝室から持ち出された薄手の毛布でくるまれて抱き寄せられたまま有栖は半分眠りの縁を彷徨っていた。
結局電気を消さないまま一度、更に電気を消してやったからと言ってもう一度ソファの上でコトに及ばれてしまった。意識を失わなかった
のは阪神の逆転並の奇跡だろう。「…なぁ…」
ユラユラと立ちのぼる、傍らの男が吐き出す紫煙を目で追いながら有栖はそっと口を開いた。
「何だ?」
振り向くと強くなるキャメルの香り。
「…准教授とかってやっぱり見合いの話とか結構くるのか?」
「アリス?」
突拍子もない有栖の言葉に火村は驚いたように名前を呼び、ついで微かに眉を寄せた。
「どうした?」
「…ごめ…変なこと訊いて」
「誰かに何か言われたのか?」
自分たちの関係が誰にばれてしまったという可能性は低い。何よりもそうであれば有栖の態度はもっと違う者になる筈だ。寄せた眉を、腕の
中の恋人を怯えさせないようにおだやかな表情にすり替えて、火村は肩を抱く手に少しだけ力を込めた。「…それともお前に縁談話でも持ち込まれたか」
「!!違う!」
慌てて上げられ顔を火村は「冗談だ」と返してこめかみに口づけた。
僅かな沈黙。こんな時は有栖が話し出すのを待つしかない。何も言わずユラユラと煙草を燻らせ始めた火村に案の定有栖がおずおずと口を開
いた。「…この前会った奴が…えっと…そいつの恋人に見合い話が来て…えーっと…」
まさか友人がカミングアウトをして自分も成り行きでそうしてしまったとは言えずに有栖は困ったように俯いてしまった。それを見つめなが
ら火村は零れ落ちた有栖のヒントを拾い始める。どうやら友人の恋人に見合いの話がきた事が何かのきっかけになったらしい。それは判った。けれど何を考え出してしまったのか今ひとつ判ら
なくて火村はとりあえず先刻の有栖の問いに応えることでそれを探る事にした。「…まぁ、見合いの話はなかったわけじゃない」
「……そうか…そうやろなぁ。やっぱり社会的な地位とか世間体ってもんが大きいからなぁ。日本はまだ結婚して一人前的な考えもあるし…」
先日西尾の話を聞いて、しかも彼の恋人が大学の准教授という話にこの何日か有栖はついついそれを考えてしまっていたのだ。西尾にはあん
な風にけしかけるように言ったが、実際それが自分自身だったらそんな風に考えられただろうか。あの時にも口にした通り、自分だったら相手
の枷にならないように、邪魔にならないように離れる事を選んでしまうかもしれない。その時は辛くてもそれが後に相手の、火村の為になるのならばと信じてしまうかもしれない。
そんな有栖の思考が読める筈もなく、火村は吸いかけのキャメルを灰皿に押しつけて今度こそはっきりと眉間に皺を寄せるととんでもない推
論を口にした。「…お前、俺に結婚をしろとでも言いたいのか?」
「…え!?そんな話が出とるんか!?」
「……出てない」
「なんや…びっくりした…驚かさんといてくれ」
「……………」
どうにも会話が噛み合わない。
訪れる沈黙。
「なぁ…そんな話が出たら隠さず言うてくれな」
「アリス?」
「……約束やで」
「ばーか。お前に言う前にそんな話跡形もなく消えてるさ」
「……」
「何に振り回されてるのか判らないけど…」
再び取り出されたキャメル。
銜えた途端点けられた火。肩に置かれた手が頭を有栖の頭を引き寄せるようにして、肩口に押しつける
「信じろよ」
「…うん」
「好きだ」
「うん…」
閉じられた瞳。
この時何故有栖がこんな事を言い出したのか、火村は後に何度も後悔をする事になる。
けれど勿論この時は肩にかかる重みとぬくもりだけが全てで、世の中の恋人達同様、目の前の幸せしか目に入らなかったのだ。
幸せボケさん(笑)