格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 5  
 


 五月も半ばを過ぎ、後半に差し掛かると、新学期特有の疲れのようなものが押し寄せてくる。

 バタバタと4月が過ぎて、ゴールデンウィークで遊び疲れ、そうこうしているうちにハッと気づくと溜まっていた仕事に愕然とする。

 もっとも今年はかなり計画的に用事を回してきたつもりなのだが、突発的なフィールドワークだの、やれゼミ旅行の打ち合わせだの、急に押しつけ
られる研修会への出席など予定外の事が重なり、今度は火村の方から有栖にキャンセルを入れるようになってしまった。

 「週末には必ず行くから」と言うと「無理したらあかんで」と返ってくる声。それに「無理しても来てほしい位言ってほしい」と口にしたらおそら
く赤くなっているだろう顔で「アホ!」と返してきた。

 まったく可愛くて仕方がない。

 ともあれ、有栖の方も短編の仕事があるようでお互いに頑張ろうと電話を切ったのは火曜日。本来なら講義のない水曜日に仕事をするべく研究室に
詰めていると大阪府警から電話がかかった。

 先日のフィールドの容疑者ともう一度会って貰えないかと言う事だった。

 とりあえず場所と時間を決めて火村は大学を出ると年代物のベンツに乗り込んでエンジンをかけた。

 一瞬こんな事なら予定をキャンセルしなければ良かったという思いが頭を過ぎったが、有栖も仕事をしている筈だと思い直して言われた場所に向かう。

 とにかく金曜の夜には会えるのだ。

 不本意だが、残った仕事を持ち込んで、有栖が仕事をしている間に自分も仕事をすればいい。

 今週は何を作ってやろうか。

 そう言えばゴールデンウィークに出掛ける代わりと言っていた旅行はどうするか相談をしていなかった。

 いつならば予定が合うだろうか。

 そんな事を考えているうちに車は目的地に着いた。

 容疑者の男の家に府警の森下刑事と同行する予定なのだが、思っていたよりも道路が空いていて早く着いてしまった。目に入った100円パーキングに
車を滑り込ませて火村はその近くにある喫茶店へと足を向けた。

 朝潮橋の駅から幾分離れた喫茶店。

 狭い訳ではないが、さして広くもないその空間は観葉植物の植え込みで幾つかのボックスに仕切られていて、緩い音楽が流れていた。

 コーヒーを頼んで火村は窓際の4人掛け用のボックスに腰を下ろした。

 カウンターよりも落ち着くし、何より外が見えないと森下が来た事が判らない。 

 取り出したキャメル。

 運ばれてきた水と灰皿。

 ついでとばかりに先刻までまとめていた資料を取り出して目を落としたその瞬間。

「そないな事言うとるから気持ちがぐらつくんやろ」

「………」

 それはひどく聞き慣れた声だった。

 声を潜めるように小さくしているが間違いようのない声だ。

 なぜこんな所にという思いと、誰と話をしているんだという気持ちがない交ぜになって火村はおそらく植え込みの向こうにいるだろう彼を探した。

「だって相手は未来の教授なんやで?」

「教授になれたら幸せになれるんか?」

「それは…」

「ちゃうやろ。そんなの」

(誰の話をしているんだ…)

 ドクンドクンと柄にもなく早まる鼓動を抑えて火村はどうにか植え込みの間から有栖の顔が見える位置を探した。そう。それは確かに有栖だった。

 誰だか相手は判らないが火村の知らない男と向かい合って座っている。どうやら有栖の方からは火村は全く植え込みの影に隠れてしまって見えていな
いようだった。

 というよりも彼等の座っている位置が入り口からも見えづらい位置なのだ。だから声が聞こえるまで全く気付かなかった。

 運ばれてきたコーヒーをそのままに火村は向こう側の会話に聞き耳を立てていた。

「お前がそんなやから不安になるんや」

「……ええのか?」

「自分で決めろ。自分の事やろ」

「俺だけの事やないから訊いとるんや」

「決めるのはお前やで」

「……ああ」

 銜えたままのキャメルにようやく火を点けて火村は眉間に深く皺を寄せた。一体これは何なのだろう。自分は何を聞いているのだろう。胸の中に湧き
上がる苛立ち。
「…全部放り出させる事になるかもしれへん」

「どっちもいい大人なんやからここまできたら本人の問題やろ」 

「強いな、お前は」

「アホ。お前がしっかりせんでどうするんや。自分だけやなく人一人の人生を背負う覚悟しても一緒にいたいって思うのか、違うのか。それが一番大切な
事やろ」

「………」

「“病める時も、健やかなる時も”ってやってほしいならいくらでもやったるで?」

 クスクスと小さな笑い声が聞こえる。

「アホ、照れるって」

 自分でも気付かないうちに握りしめていた手がテーブルの上で震えていた。

「…幸せにしろよ」

「言われんでもそうする。何もないけど絶対に幸せにする。これだけは誓うよ」

 吸いかけのキャメルを灰皿の上で揉み消して。

「それが聞きたかったんや。したらどうする?」

「そうやなぁ…とにかく会って話をして…」

 鳴り出した携帯を火村は慌てて取り出した。森下からのものだった。約束の場所にいるらしい。すぐに行くと電話を切って火村はゆっくりと立ち上がった。

 レジのある位置からも有栖はよく見えなかったが、その代わり相手の横顔はチラリと見えた。

 ごく普通の男だ。けれどひどく幸せそうな笑みを浮かべている。

 湧き上がる憎悪にも似た苦い思い。それを抑えつけるようにして火村は喫茶店を出た。途端に午後の眩しい日差しがあたり、思わず顔を顰める。

 有栖を抱いたのはほんの何日か前だ。

 その時にもこんな事は何一つ言わなかった。

 ただ少し元気がなくて、何かを気にしているようだった。それが彼の…あの男の事を考えていたからなのだろうか?

 自分は腕の中で他の男の事を考えている恋人に気づけなかった大間抜けだったというのか。

“幸せにしろよ”

 耳に残る有栖の声。

 自分では駄目だったのか。

 恋に浮かれて肝心の有栖の気持ちが見えなくなっていた。そんな馬鹿な事がと思ってもたった今聞いたばかり会話がそれを否定する。

 認めろと火村に囁く。

「火村先生!」

 上げられた手に軽く会釈をして火村は若い刑事に近づいた。

「お呼び立てをして…何かありましたか?」

「いえ…」

「具合でも」

「大丈夫です。車で来ているのですみませんが先導していただけますか?後をついていきます」

 ここに戻って来たくない。

 女々しいと思いながらも譲れない気持ちで口にした言葉に森下は気軽に頷いた。

「判りました。このすぐ近くですので。路駐になると思いますが宜しくお願いします」

 駐車場から車を出して火村は森下の後についてベンツを走らせ始めた。同時に運悪く赤になる信号。

“幸せにしろよ”

 有栖は…火曜にかけた週末まで行けないと言う電話をどういう思いで受けたのか。そして無理をするなとどういう気持ちで言ったのか。
更に思い出す、有栖が言っていた見合いがどうとか、そういう話ががあるなら言ってほしいというような言葉。

「…何を考えているんだ、アリス…」

 恋をすると馬鹿になる。 

 手に入れると怖くなる。

 俗説の正しさに笑い出したくなって火村は変わった信号に走り出した車を追いながら、点滅するウィンカーに習ってゆっくりと左にカーブを切った。





だからほらね、5話で終わらなくなっちゃったんだってば。すでに修羅場の予感(笑)