格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 6 
 

 青い空。白い雲。

 綺麗に晴れ渡ったその空はまさに『五月晴れ』と呼ぶにふさわしく、見ているだけでも気持ちが明るくなる。
 が…どこにでも例外はつきものである。

「…突然の低気圧上陸ですか?」

「うるさい」

 すでに白く煙っているような気さえする研究室で怒りのオーラを発する助教授に声をかけたのは怖いもの知らずの英文科講師だった。

「そのうちスプリンクラーが作動しますよ」

「…何の用だ?」

「ティーブレイクでもと思いまして」

「すぐに講義があるんだ」

 ジョージの言葉に火村はにべもなくそう言い捨てた。 けれどそれを気にする事なく英国紳士は優雅に腕時計を眺める。

「あと20分ありますよ」

「それまでにまとめたいものがある」

「誰にでも休憩は必要です、ヒム。それにこれ以上煙を焚いたら間違いなく火災警報が鳴ります。せめて窓くらい開けて空気の入れ換えを
しましょう」

 そう言うと有無を言わさぬ勢いでジョージは火村の斜め後ろの窓を開けた。それに唸るように声を上げた火村の前に鮮やかなスピードで
カップに出来あいのぬるいコーヒーを注いで差し出す。

「どうぞ。これならヒムにもすぐに飲めますよ」

「……どうも」

「どういたしまして。ああ、それにしてもいい天気ですね。そういえば先日【麩饅頭】というものを食べました。あれはなかなかオツな味
ですね」

「…茶菓子談義なら他をあたってくれ」

 不機嫌極まりない様子でコーヒーを口に運ぶ火村にジョージはヒョイと肩を竦めて見せた。

「ティーブレイクというものはそう言うものですよ。それに講義まではあと16分もあります」

 そう言って優雅な仕草でぬるいコーヒーを口にする英国人に火村は苦い顔で再びコーヒーを口に入れる。

 気怠い午後の不機嫌なティータイム。

 短い沈黙を破ったのはジョージだった。

「茶菓子と言えば、以前こちらでお会いしたお友達はお元気ですか?」

 ジョージがさらりと口に上らせた人物は勿論有栖の事だった。以前どこかの市でその日にしか売らないという和菓子を手に入れた彼は
偶然火村の研究室に居たジョージにも上機嫌でそれを振る舞ったのだ。

 もっとも今ジョージがその話題が出したのは単なる茶菓子繋がりではない筈だった。

 その頃の自分たちは『友人』と呼ばれる関係以外の何ものでもなかった。けれど、多分、目の前の男は先日の電話が有栖からのものだと
気付いている。そしておそらく、学生達が噂をしていた火村の様子と、先日見聞きしたやりとりで火村と有栖の関係の変化も判ってしまっ
ているのだろう。だから、なのだ。

「……さぁな」

 短い火村の答えにジョージは顔色一つ変えないままにこやかに口を開いた。

「今度彼が知らした時は是非声をかけて下さい。先日の和菓子のお礼に【麩饅頭】を買って差し入れますよ。一緒にお茶でも飲みましょう」

「……」

 それには何も答えず、火村はキャメルに手を伸ばした。

 銜えて火を点けて、吐き出す紫煙。そのユラユラと揺れる煙を見つめながらジョージはゆっくりと声を出す。

「彼と喧嘩をしたのですか?」

「関係ない」

 バッサリと切り落とすようなその言い方にジョージはフワリと笑みを浮かべた。

「仲直りをしたいならまず自分が折れてしまう事ですよ。その後で何故そうなったのかを一緒に分析すればいいんです」

「聞こえなかったのか?関係ない」

 繰り返された言葉。

「ヒムが恋人と喧嘩をしたらしくて不機嫌だ」

「!!!」

「噂ですよ。どうもうちの大学は噂好きが多いようです」

「……その噂をわざわざ本人にご注進に来る奴もいるしな」

「そうですね」

 嫌味を込めた言葉をひどく楽しそうな笑顔で肯定されて火村は小さく顔を歪めた。

 微かに吹き込む五月の風。

「ヒム」

「…何だ。まだ何か言い足りない事があるのか?」

「老婆心ながらもう一つだけ。話をしないうちにあれこれと考えるのは愚か者の所業です」

「……」

 いったいこの男は何者なのだろう。

 そんな気持ちになった火村の目の前でジョージは自分カップをさっさと洗ってポット脇のトレーの上に伏せて置いた。

「5分前です。お邪魔しました。【麩饅頭】はマイブームのヒット商品なのでぜひご馳走させて下さい」

 言いながら小さく会釈をしてジョージは研究室を出て行った。その閉まったドアを見つめて火村はらしくもなく溜め息を落とす。

『仲直りをしたいならまず自分が折れてしまう事です』

 たった今聞いたばかりのジョージの声が頭を掠めた。

「……それどころじゃねぇよ」

 漏れ落ちる苦い言葉。

“幸せにしろよ”

 有栖の声が聞こえる…。

 他の男に向けられた言葉が火村の耳の奥に響く。

「…っ…」

 吸いかけのキャメルをすでに満杯状態の灰皿に押しつけて荷物を手にすると、火村は眉間に皺を寄せたまま椅子から立ち上がった。

 その途端視界の端に映った先程と寸分も変わらぬような新緑の風景。

 そう言えば先日のニュースで沖縄が梅雨入りをしたと言っていた。じきにこの京都にも、有栖の住む大阪にも鬱陶しい雨の季節が来る
だろう。

 けれどその時に自分は果たしてあの愛しい存在の隣に居る事が出来るのだろうか。

「……馬鹿か…」

 こんな風に仕事以外の事で1ヶ月も先の日常の事を考える事自体が馬鹿げていると火村は思った。

 ふと見た時計はすでに講義の始まりの時間を告げていた。せっかくジョージが5分前に部屋を出て行ったというのに自分がこれでは話
にならない。

 何かから逃げるように部屋を出て、それを閉じこめるように鍵をかけて…。

「……いっそ殺してやりたいよ」

 初めて有栖を抱いた日に呟いた言葉を、その時とは違う思いで口にして、火村はひどくゆっくりと長い廊下を歩き始めた。






悶々……それどころではない火村さん(^O^)