格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 7  
 

 カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響く。

 来週の頭までに一本、短編の締め切りが入っているのだ。手の動きと同様、それが煮詰まっている様子はない。

 どちらかと言えば絶好調の状態で、うまくいけば今日中に上がるかもしれない。ちなみに今日は金曜日。作家の鏡のような所業だ。

 謎解きの所までを一気に書き上げて有栖はうんと伸びをした。そうしてコーヒーでも飲むかと数時間ぶりに椅子から立ち上がって書斎を出る。

 そのままリビングを抜けてキッチンに行き、少しだけ考えてサイフォンの方に手を伸ばした。
  インスタントの粉末コーヒーではなくドリップした方にしよう。そんなに時間がかかるわけではないし、ここまでくればそこまで時間を惜しむ事もない。

 フィルターの中に挽いてある豆を入れ、水をセットしてスイッチを入れる。

 やがてぽたぽたと落ち始める褐色の液体をぼんやりと眺めながら有栖は傍らの椅子に腰を下ろした。

 先週は有栖から火曜の夜に火村が泊まりに来る事への断りの電話を入れた。今週は火村から仕事が忙しく火曜日は行かれないという電話が入った。

 週末には会っていて、今週も会う約束をしているのに減ってしまった時間を淋しいと感じる自分がちょっと信じられないと有栖は思う。

 こんな風になる前はひどい時には1ヶ月以上も音信不通だった時もあるというのに今はその事の方が信じられない自分がいる。

 とにかく週末には仕事をしないようにしよう。

 半ば合い言葉か呪文のように唱えつつワープロに向かっていた結果、すでに原稿は8割以上アップしている。
 我ながら単純すぎるお手軽さだと有栖は限りなく苦笑に近い笑みを落とした。

 初めて火村に好きだと言われた日。

 そして何が何だか判らないうちに抱かれた日。

 あれからもう1ヶ月以上が過ぎようとしている。

 正直に言えば有栖は自分たちが、というよりも火村という男が『友人』から『恋人』に関係が変わった事でこんな風になるとは思っていなかった。

 もともと周りが言うほど火村は薄情でも、勿論人間嫌いでもない。どちらかと言えば面倒見が良い部類に入ると有栖は思ってはいた。だから仮定として
火村が結婚をして家庭を持ったとしたら彼は家族を優先し大切にするだろうとも思っていた。

 だがしかし、あの男がここまで甘くなるとは予想出来なかった。

 肉体関係と言うとえらく生々しいが、そう言った関係になっても多少気恥ずかしさや戸惑いのようなものは感じるだろうが、何年も一緒にいた自分たちの
間では今更変わるものなどないと、何故と問われればよく判らないのだが、有栖は漠然とそう思っていたのだ。

 だから翌朝、ひどく幸せそうな顔をして自分の世話を焼く男に、有栖は抱かれている時以上に恥ずかしくなった。そして恥ずかしくなりながらもまぁい
いかと思い、慣れていったのは有栖自身だった。
もっともそれが10日間も続き、忙しい筈の火村がこのマンションに当たり前のように帰ってくるのを見て
有栖は怖くなった。そうしている火村に対してではない。
有栖自身に対して怖くなってしまったのだ。

 10日間は火村にとって『蜜月』だったが有栖にとっても『蜜月』だった。

 火村には言っていないが好きだと言われたその時、真っ白になった意識の奥の奥で、有栖は確かに歓喜していた。隣に居ながらも決して全てを晒そうとし
ない、踏み込ませようとしない男が自分を好きだと言った。
驚きと同時に有栖はこの男の隣を手に入れたのだと思った。だからキスをされて、それ以上の事も
されて、甘やかされて、幸せだと思える自分が怖くなった。

 あまりにも根暗い考え方だが、もしも突然この手が消えてしまったらどうしよう。

 こんなに短期間でこの手がある事を当たり前のように思えてしまって、今までの生活に戻れなくなったらどうしよう。

 有栖には有栖の、火村には火村の生活がある。

 それは十分すぎるほど判っている。それなのに、火村が毎日自分の所に帰ってくるのを当たり前のように思ってしまう自分を有栖は感じ始めていた。

 だから「大丈夫なのか?」という言葉を出した。

 その台詞は火村に言ったのではなく、正確には有栖自身に向けての言葉だったのだ。けれどそれに対して不機嫌な表情を浮かべた火村に嬉しい等と末期症状
的な事を思ってしまったのも事実で、その後にこれ以上は譲らないと言わんばかりに出された「火曜の夜と週末は泊まり来る」と言う言葉に「待ってる」と返
した辺りがすでにイカレていると呼ぶにふさわしい状態だと思う。

「……アホや」

 とにもかくにもこの生活に慣れてしまってきている自分を有栖は自覚していた。

 それが嬉しくて、どこか怖い。堂々巡りの感情。

 だから…。

「…頑張れよ」

 思わぬ所で出会った同士。

 十数年ぶりに会った友人の告白に驚きはしたが、同時に何としてもうまくいってほしいと思った。

 友人の恋人が“助教授”というあまりにも馴染みのある職業だったから余計にそう思うのかもしれない。

 先週気になってついつい火村にも尋ねてしまったのだが、やはり助教授という仕事柄、西尾の恋人と同様、火村の所にもその手の話は来ているようだった。

 どんな気持ちでその恋人が西尾に対してどうすればいいかという事を言ったのかは判らない。

 けれどもしも火村からこんな話がきているがどうすればいいかと言われたら自分はどうするだろう。

 そんな話は受けないで欲しいと言えるだろうか。

 それとも火村の気持ちを測れないまま西尾のように好きにしろと言ってしまうだろうか。

「…あかん。気が滅入ってきた。仕事しよ」

 とにかく今火村がその手の事を有栖に言ってくるとは思えなかった。出来れば聞きたくないと有栖自身思う。

 とっくに出来上がっていたコーヒーをカップに注いでミルクと少しだけ砂糖を入れると有栖は書斎に向かって歩き出した。今日の夜には火村が来る。そうし
たら出来上がった原稿に目を通して貰おう。彼はあの皮肉気な笑みを浮かべて「こんなに早く上がるなんて、天変地異の前触れか?」等と言うだろうか?

「ほんまに腑抜け状態やな…」

 クスリと笑って、書斎のドアを開けて、閉めて…

「…頑張れよ」 

 今日の夜に会う約束をしたのだと昨日電話をかけてきた同士に向かって有栖は先程と同じ言葉を繰り返した。 

 

 

 

 

 

 --------------------------------------------------------

 

 

 

 夏休みの宿題に手を付ける事をずるずるとギリギリまで引き延ばす子供のように、火村は有栖に真意を確かめる事が出来ずにいた。

 頭では判っている。

 ジョージの言う通り、話をしないうちにあれこれと考えるのは馬鹿な事だと火村自身も思う。

 しかも『仲直りをする』等と言うよりも今のこの状態は喧嘩をする…しない以前の問題なのだという事も判ってはいるのだ。

 そう。喧嘩をしたのならばそこにはどういうものであれ『理由』と言うものが存在する。

 だから“折れる”にしろ、何にしろ、対処というものが考えられる。だがしかし、あの日偶然に聞いてしまったやりとりは火村にとってはまさに寝耳に水と
いう状態だった。  

 先週の火曜日、友人と飲みに行く事になったとキャンセルの電話を入れてきた時も、その週末、約束通りに会った時も有栖は変わりがなかった。しいて言え
ばぼんやりとしていた事と見合いがどうとかと今ひとつ会話が噛み合わなかった事くらいだろうか。けれどその後は特にどうと言った事はなく、更に今週に入っ
て、今度は仕事の都合で火村から週末までは行かれそうもないと電話を入れた時も、有栖にはそんなそぶりは少しもなかった。

 だからあの日、あの喫茶店で、有栖たちを見かけなければ…あの会話を聞かなければ、火村は先週と変わりなく週末にはマンションを訪れていた。

 そして、もしかするとそこで何の前触れもなく、あの男を紹介されたかもしれない。

「…コキュでも演じさせるつもりかよ…」

 寝取られ男の代名詞にもなるその名を口に上らせて火村は苦い表情を浮かべながらキャメルを取り出した。

 結局感情も、考えも、何一つまとまらないまま金曜日になってしまった。

 今夜は有栖のマンションに行く事になっている。

 そう約束をしてある。

 何が悪かったのか。

 自分は一体何をしてしまったのか。

 『抱いた』という事を言うのならば確かにそれはそうだろう。

 けれど有栖自身もどういう経緯であれ火村を好きだと言ったのだ。そしてそれからも何度も肌を重ねてきた。

 大体百歩譲って有栖の相手が女ならばまだ話が判るのだ。火村にとってどんな事をしても手放せない存在であろうと、有栖が女性に対して好意を向けるという
のはある意味自然な事だ。勿論それを許せる…許せないの問題はこの際横に置いておいての話だが。

 けれど、でも、相手は男なのだ。
「………………」
 なぜ、男なのか

 そこに暗くて大きな疑問が浮かぶ。

 これは間違いないと断言出来るのだが、有栖は男とのセックスは初めてだった。もっとも火村とてそちらの経験があるわけではない。有栖以外の男をどうこうし
たい等と言う気持ちはかけらもない。

 話が多少逸れたが、あの時“抱かれる”事が初めてだった有栖が僅か1ヶ月足らずの間にどうして他の男に走るのか。しかもその二人のやりとりが…

『幸せにしろよ』

『言われんでもそうする。何もないけど絶対に幸せにする。これだけは誓うよ』

『それが聞きたかったんや』

なのだ。一体いつの間に!?である。

「……っ……」

 水曜日以降、ほとんどと言っていいほど手につかなかった仕事は、この週末に来て雪だるま式に増えていた。

 本当ならば大阪に泊まりに行ける様な状態ではない。 だから、仕事が忙しくてどうしても都合がつかないと言ってしまうのは嘘ではないし簡単な事だと火村の
中で火村自身が囁いていた。

 無理をして行って当の有栖から『ごめん…実は』等とやられ、その上相手の男が出てきたら正直何をしでかすか判らない。

 かと言って自分が行かない間に有栖が何をしているのか。あの男と会っているのではないか。あの男に抱かれているのだろうか。そんな下世話な想像を悶々と繰
り返すのも心の底から嫌なのだ。

“話をしないうちにあれこれと考えるのは愚か者の所業です”

 もう幾度も頭の中で繰り返されたジョージの言葉が聞こえた。

「…今更離せると思うのか…」

 好きだと返された後で、あの肌の熱さを、縋り付いてくる指を、切なげに漏れ落ちる吐息を知ったその後でどうして他の男と一緒に行くなどと許せると思えるのだ。

「……いっそ俺を捨てるのかとでも縋ってみるか?」 言いながら零れ落ちた低い笑い。

 何が悪かったのか。

 何をしてしまったのか。

「……っ…!」

 ほとんど吸わないままの煙にしてしまったキャメルで指を軽く火傷して、火村は慌ててひどく熱いそれを灰皿に押しつけた。そうして赤くなっているそこを忌々しげに舐めて性懲りもなく新たな煙草を取り出す。

 カチリと点けた火。

 堂々巡りの思考回路。

 この所のキャメルの消費量は加速度的に増えている。

「肺ガンで死んだら絶対に化けて出てやる」

 それなら普段も考えろ!と有栖が聞いたらツッコミを入れたくなる様な事を口にして、火村は広げたままいっこうに進まない仕事に溜め息をついて意識を向けた。






二人の温度差(笑)