格好悪いのも、情けないのも、みんな幸せな恋 8 
 


 インターフォンの軽やかな音。

 スピーカーからの『はい?』という声に「俺だ」と短く答えるとほんの少しの間を置いてガチャガチャという音がして勢いよくドアが開いた。

「遅かったな」

「…ああ」

 駐車場で車を降りた時に見た腕時計の針は9時を少し越えていた。そこから気持ちと同じように重い足取りでここまできたのだからおそらく半に近い時間になっているだろう。
この所の到着時間に比べれば圧倒的に遅い時間だ。

「火村?」

 開いたドアから中に入ろうともせず、ぼんやりとしているような火村に有栖は思わず小さく眉を寄せた。

 それを見てとりあえず足を一歩動かしながら火村はゆっくりと口を開く。

「…悪いな」

「何が?」

 見つめてくる眼差しから逃れるように俯いたまま靴を脱ぎながら火村は「夕飯の材料がない」と言った。

「何やそんな事か。それなら聞いて驚け。夕食は出来とるんやで」

「…へぇ、そりゃどういう風の吹き回しだ?」

 そう言えば今頃気付くというのも間抜けだが、部屋の中にはカレーの匂いが溢れている。

「…ったく…言うに事かいてそれかい…」

 バタンと閉じてカチャリと鍵の締まる音を背中で聞きながら火村は素早く玄関をチェックした。他人の靴はない。

「何しとるねん。早よ上がってくれ」

「ああ」 

 有栖の言葉に急かされるようにして上がりそのままリビングに入るとカレーの匂いはいっそう強くなった。

 それ以外は何一つ先週と変わらない空間だ。

「どないしたんや?ほんまに。飯はどうする?」

 立ちつくすような火村に訝しげな、それでいてどこか心配そうに声をかけて有栖はキッチンに向かった。その後ろ姿を目で追いながら火村はドカリとソファに腰を下した。
漏れ落ちる溜め息。

「なぁ、具合悪いんちゃうか?顔色良くないで」

「…そうか?」

「仕事そないに大変なんか?」

 言いながら運ばれてきたのはお茶だった。

 コトリと目の前に置かれた湯飲みに火村は小さく顔を上げた。

「とりあえずお茶。ビールかコーヒーと思ったけど具合悪そうやから」

 そう言って有栖は向かい側のソファに座る。

 出されたお茶にそっと手を伸ばして火村は目の前の有栖を見つめた。

 部屋同様に有栖も全く変わりがないと火村は思った。

 あの会話が夢だったのか思える程だ。

 もともと有栖は隠し事がへたで、感情がすぐに顔に表れるタイプだった。

 それなのになぜ気づけなかったのか。そして、なぜ有栖はそこまで隠せたのか。

「……おい…」

 いきなり額に当てられた手に火村は思わず湯飲みを持ったまま固まってしまった。

「熱はなさそうやな」

「当たり前だ」

「せやってほんまに凄い顔色しとるやで。仕事忙しいんか?」

 さきほど火村が答えなかった問いを有栖はもう一度口に上らせてきた。眉間に皺を寄せた顔を向けられて火村は内心で舌打ちをしながら「まぁな」と答えた。

 途端に又一つ有栖の表情が曇る。

「……したら無理せんでも良かったのに」

 それは有栖にとっては気持ちと裏返しの、そして火村を心配しての言葉だった。

 会えないのは淋しいけれど、火村が無茶をして身体を壊してしまう方がもっと嫌だ。

 けれど今の火村にとってはそれは全く違う意味を持つものになってしまった。

 会いたい気持ちと、逃げ出してしまいたい気持ちをどうにかバランスをとってやってきた自分の余裕の無さが他愛もないない言葉で神経を逆なでする。

「何だよ…来られちゃ迷惑って事か?」

「火村?」

「無理して来てくれなくていい。そう言ったんだろう?」

「誰もそんな事言うてへんやろ」

「へぇ…」

「あのなぁ…具合が悪いのかと思ったからそう言ったんや」

「そうだよな。具合が悪くて機嫌が悪い奴には来て欲しくない。正論だ」

「……何が言いたいねん」 

 さすがに剣呑な表情を浮かべた有栖から火村はゆっくりと視線を外してキャメルを取り出した。

 その様子に有栖はムッとしたまま口を開く。

「…おい」

「……誰か来るのか?」

「…はぁ?」

 いきなり飛んだ話題に有栖は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。一体今日の火村はどうしてしまったのだろう。毒気を抜かれたように湧き上がり掛けて
いた苛立ちを『心配』に変えて、有栖は何も言わない火村を見つめていた。その視線の中で火村は自分の突拍子もない問いかけを一瞬で忘れてしまったかのよう
に銜えたキャメルに火を点けている。

 ユラリと上がった白い煙。

「……何で?」

 先に口を開いたのは有栖だった。

「別に…」

 返ってくる短い答え。

 立ち上る紫煙を目で追いながら、『心配』が更に『疑問』に変わっていくのを感じていた。

 一体火村は何が言いたいのか。

 何が火村をこんなにも苛立たせているのか。

 こんな風に余裕がない友人、もとい現在恋人である火村を見るのは初めてだ。学生時代からずっと火村はいつでも有栖の一歩上を行くようにして、独特の皮肉気
な笑みを浮かべていた。それなのに…。

「何でそんな事訊くんや?」

「……そんな気がしただけだ」

「どうして?」

「…さぁな」

 合わない目線。はっきりとしない答え。

 再び持ち上がってくる苛々とした気持ちと何とも言い難い不安感のようなものを抱えたまま有栖はもう一度ゆっくりと口を開いた。

「…なら、誰が来ると思うたんや?」

「!?」

「誰かが来るかもしれへんと思うたから訊いたんやろ?心当たりでもあるんか?」

「………」

 今度こそ真っ直ぐに絡んだ視線。

 僅かな沈黙の後でらしくもなく先に視線を逸らしたのは火村だった。聞こえてくる忌々しげに舌打ち。そうしてテーブルの上に置かれていた灰皿に吸いかけの
キャメルを押しつけると火村は再び顔を上げた。

「そっちこそ。まだ答えてないぜ?誰か来るのか?」 

「知るか」

「ふざけるな!」

「ふざけとるんわ自分の方やろ!」

 売り言葉に買い言葉。

 そんな言葉が有栖の脳裏を過ぎった。

 何を言っているのか。

 火村が何を言いたいのか。

 なぜこんな風に苛ついて余裕がないのか。

 疑問は次々に頭の中に浮かぶけれどそのどれもが答えられないまま自分の中に沈んでゆくと有栖は情けない気持ちになった。

 一方火村は火村でこんな筈ではなかったのだとガンガンと痛み出すようなこめかみを押さえた。

「…何が言いたんねん」

「それは俺の台詞だ」

「言いたい事があるなら、はっきり言うたらええやろ?」
「言いたい事があるのはお前の方じゃないのか?」

「火村!」

 その瞬間。切れかけた有栖の声に重なるようにリビングに電話の音が鳴り響いた。

 2コールの後で小さく切り替わるような音がして、数瞬の間の後、留守電のテープが流れ始める。

 原稿をしていたので今日はずっと留守電にしたままだったのだ。すっかり切り替えるのを忘れていた。

 流れ出した自分の声に有栖はムッとしたまま電話に向かって歩き出した。けれど次の瞬間、火村は有栖の腕を掴んでしまった。

「!おい!」

「どうせ、留守電だろう?大事な用事なら吹き込むさ」

「そういう問題やない!離せ!」

「ほら、切り替わる」

 『発信音の後にお名前とご用件をお願いします』と取り澄ました有栖の声の後に響くピーッという機械音。

 次いでスピーカーから聞こえてきたのは西尾の声だった。

『留守のようなので又かけ直します。とりあえず報告だけでもと思ったので。えーっと…ありがとう。大丈夫やから。その…あー…やっぱり照れるから会って話す。
またな』

 メッセージはそこで途切れた。

 瞬間、有栖の身体からホッとしたような気配が伝わりそれに反比例するように火村の身体から怒りのオーラの様なものが立ちのぼった。

「…誰だ?」

「え?」

「今の」

「あ…ああ…友達」

「へぇ…」

 何かを含むようなその声に先程までのやりとりを思い出して有栖は掴まれていた腕を力任せに振り払った。

 その瞬間火村の目の下辺りに手が当たったような気がしたが今はそんな事はどうでもいいと目の前の男を睨みつける。

「何が言いたいねん!!」

「……」

「言いたい事があるんやったらはっきり言うたらええやろ!!」

 やはり頬骨の辺りにぶつかったのだろう。少しだけ赤くなっているようなそこを押さえながら火村は低く嗤って口を開いた。

「…はっきりね…じゃあ言わせて貰おう。水曜日。天保山の喫茶店。判るか?」

「……何…?」

「まだヒントが足りないか?それならこいつはどうだ。“幸せにしろよ”“言われんでもそうする”」

「…………」

「病める時も、健やかなる時もってやりたかったのか?」
「…なんで…」

 さすがにここまで来れば判るそれは自分と西尾との会話だ。それをなぜ火村が知っているのだろう?

 有栖の疑問に火村はもう一度低く嗤った。

「意外そうな顔だな。何で俺がそんな事を知っているんだ。せっかく隠してきたのに」

「…火村?」

 最後の台詞に有栖は小さく眉を寄せた。

 有栖にとっては別に隠しているつもりはなかった。彼等がうまくいけば何かの折りに自分がキューピッド役を買ったのだと威張って見せてもいいとさえ思っていた。

それなのになぜそんな事を言うのだろう?

「…何言うて」

「この前俺に見合いがどうとかって言ってたよな?あれはどう言う事だ?」

 そう。それはこの何日か火村が件の会話と同じように何度も考えた事だった。なぜ突然有栖がそんな事を言い出したのか。何故その時にもっとちゃんとどうして
そんな事を訊くのだと聞いておかなかったのか。唯一有栖が言い出したのがその事だけだったので唯一の手がかりだったのかもしれないと火村の中で大きな後悔に
なっていたのだ。 

 もっともそれは当たらずとも遠からじなのだが、有栖の気持ちとは視点が違いすぎた。

「それは…その…」

 途端にしどろもどろになるような有栖に火村の目が眇められた。

「…いつからだ?」

「え…?」

 ユラリとソファから立ち上がって火村は再び有栖の腕を掴んだ。本能的な怯えを見せて有栖の身体が僅かに後退る。

 全てが悪循環のようになっている事に気づけないまま火村は掴んでいた腕を引き寄せると奪うように唇を重ねた。突然塞がれた唇とマイナスの感情をぶつけられる
ような荒々しさに有栖は必死で首を横に振ってその腕の中から離れようとする。

「…っ…何すんねん!!」

「…キスも嫌だって事か」

「誰もそんなん…どないしたっていうんや。一体。何でこんな事」

 そう。自分は待っていたのだ。あれから再びワープロに向かって、とりあえずエンドマークを打って。仕事が忙しいと言っていたからと市販のルーを入れるだけの
カレーだがとりあえず夕飯も作って火村が来るのを待っていた。それがどうしてこんな事になってしまったのか。 相手が何に腹を立てているのかすら判らないまま
なぜこんな風にされなければいけないのか。

「…あいつが好きなのか?」

「な…に…?」

「いつからだ?」

「何言うて…」

「どうしてだ?」

「な…火村…」

「俺が見合いでもしてうまくまとまればあいつと居られると思ったのか?」

「見合いって…」

「どうしてなんだ、アリス」

「っ…や…火村!!!」

 立て続けの問い掛けに何をどう言っていいのか。
 なにがどこで間違っているのか。
 考える間もなく掴まれたままの腕を思い切り引き寄せられて、有栖はそのままもつれるようにして床の上に倒されていた。

 そうして次の瞬間、有無を言わせずに伸しかかってきた身体が容赦なく着ていた薄手のシャツを引き裂いた。

「………火村…!」

 信じられないというように見開いた瞳の中で火村は有栖が一度も見た事のない、ひどく子供じみた、そして切なくなるような表情を浮かべていた。

「……何で君がそんな顔すんねん…」

 無理矢理床に引き倒されて、いくらかは火村が庇ったのだろうがそれでも肘の辺りや背中の辺りが痛い。ついでにシャツは再起不能になっているし、馬乗りに
なって恐ろしい顔で見つめてくる男は正直言って怖くて重い。

 絶対的に自分の方が被害者だと有栖は思った。

 それなのにどうして火村がそんな傷ついた顔をするのだろう。

「……っ…」

 本日2度目の口づけもひどく荒々しいものだった。

 のし掛かられたまま口の中を掻き回されるようなそれに身体が震える。

「…ひ…むら…」

 唐突に始まって唐突に終わった口づけに頭がグラグラする。そんな有栖の呼びかけに答えを寄越す事もせずに火村はカチャカチャとスラックスのベルトに手を掛けて
それを引き抜いた。そうしてそのまま一気に下着までも抜き取ってしまう。

「なん…で」

 有栖の瞳に涙が浮かんだ。

 自分は一体何をしたのか。どうしてこんなにも火村は怒っているのか。何が彼をこんなにも怒らせてしまったのか。

「…嫌や」

「……」

「嫌やこんなん…何で…」

 抱え上げられて広げられた足。

 このまま入れられたらひどい傷が付くと有栖は判っていた。火村もそれは知っている筈だ。

 それなのにそんな事をしてしまう程、させてしまう程自分たちは何をすれ違っているのだろう。

「…火村…火村…火村…」

 これから自分を傷つけようとしている男の名前を有栖は呼び続けた。ポロポロとこめかみを伝って落ちる涙を両手で隠して有栖は火村の名前を呼ぶ。

「…火村…火…村…」

「………っ…」 

 その声を聞きながら火村は僅かな戸惑いと苛立ちを感じていた。繰り返される自分の名前に罪悪感と怒りをない交ぜにしたまま、けれどそれを抑える事が出来ずに
火村は無抵抗な有栖の身体を引き裂いた。

「!!!やぁぁぁぁぁっ…!」

 上げられた悲鳴と振り回される手。

 生理的なその抵抗が有栖の真意の気がして、それすらが切なくて、火村は振り回された手を押さえつける。

「…アリス…」

 初めて名前を呼ぶと涙でグチャグチャの顔が少しだけ歪んで、それでも視線を合わせてくる瞳。

「……ひ…む…ら」

 もう幾度も呼ばれた名前に少しだけ動くと悲鳴の様な声が小さく震える蒼い唇から漏れ落ちた。
「なんで…」
「………」
 答えるすべを火村は持たなかった。
「火村……」
 繰り返される名前。
「すまん……」
 
血の匂いがした。

 傷つけてしまったに違いない。

 予測が出来た事に顔を歪ませて火村は押さえつけていた手をそっと離して、自身を引き抜いた。
「…!っつぅ……」
 その途端有栖の口から引きつった声が漏れた。
 下半身だけをあらわにした、お互いにひどい有様だった。

「…なんで君が死にそうな顔…するんや…」

 有栖がかすれた声でそう言った。

「死にそうなんわこっちや…」

「………」
 そうだ。ひどいことをしているのは自分だと火村は思った。

「…なぁ…」

「……」

「わけ…訊いてもいいか?」

「……」

「俺…考えてんけど…なんでこんな事になったんか判れへんねん…」
 有栖の言葉に火村はクシャりと顔を歪めた。
 それはなぜか泣き顔のようにも見えて、有栖は黙って火村を見つめていた。



う〜ん……