片戀2

 
 気が付けばいつも追いかけていた視線を、意図してそうしないようにするというのは思いの外難しいものなのだという事をこの一週間で僕は嫌と言うほど思い知らされていた。
 無意識のうちに学生会館に行きたがる足を押し止めて帰路につく等というのはまだ可愛いもので、とにかく彼のいそうな場所には近づかないと言うのが思っていた以上に辛い。
 この前見かけた中庭のベンチ。
 文学部棟の裏の芝生。
 図書室。
 行きつけの喫茶店。
 学食。
 購買部・・・・・。
 彼を見た場所の記憶を辿っておいて、彼に会わないようにそこを避ける。
「・・・性格がねじ曲がりそうや・・・」
 会いたい気持ちは山のようにあるのに会えばとんでもない事を口にしてしまいそうで会えない。
 そして何より、いつ会うかは知らないが、僕は江神さんが僕の知らない誰かと話をするのを見るのが嫌なのだ。江神さんに興味なり好意なりを持つ女性が江神さんの前に立つ。それがすでに許せなくて、見たくない。
 それでこんな風に江神さん本人を避けているというのは本末転倒と言えばまさにその通りなのだが、嫌なものは嫌で見たくないものはどうしてもどうしても見たくないのだ。だから避けられるものは避ける。
 意気地なしの三段論法だ。
「・・・・・せやって・・・江神さんの目の前で相手にガン飛ばすわけにはいかんやろ・・?」
 誰に言うでもなく、けれど本気でそんな事をしかねない自分に僕はこの所癖になってしまったような溜め息を落とした。
「自分がこんなに狭量で嫉妬深いなんて知らんかった・・・」
 というよりも出来ればあまり知りたくなかった。
 思わず付いた二度目の溜め息。
 ガックリと肩を落として足取りも重く僕は校門に向かって歩き出す。
 とにかく意気地なしでも何でも今は会わないうちに、見ないうちに、例え何と言われても帰ってしまおう。多分一ヶ月もすればどうにかなっているだろう。江神さんは彼女と会うだけだと言ったのだ。勿論それだけではなくなってしまう可能性もなくはないが、多分きっとそんな事にはならないと思う。否、思いたい。
 そうしてそれだけの時間をおけば、それはすでに過去の事になっていて、僕がそれを聞く事も、見る事も済んでしまうに違いない。
「・・・・・・・嫌になるほど後ろ向き・・」
 三度目の溜め息を付いて僕は思わず空を見上げた。視界に映る青い空。刷毛でスゥーっと描いたような薄い白い雲。そうして何故か次の瞬間、耳の奥にあの日の江神さんの声が聞こえてきた。
『うちに来るか?』
 そう。あの日もこんな風に良く晴れていた。
 確か名残の桜が最後の力を振り絞っていますというように咲いていた。
 そして・・・あの時は自分がこんな気持ちになってしまうなんて思ってもみなかった。
 こんなにも江神さんの事を好きになってしまうなんて思わなかった。
「・・・帰ろ・・」
 どんどん際限なく後ろ向きになって行く思考に軽く頭を振って僕は少しだけ歩く足を速める。
 名前も顔も判らない、ただ江神さんが会うと言っただけの女性に嫉妬をしてしまうくせに僕は好きだというこの気持ちを告げるつもりはなかった。
 当たって砕けろという諺もあるけれど、こればかりはどんな事をしても砕けてしまいたくない。
 どんなことがあっても『後輩』というこの立場だけは失いたくないのだ。
「・・・・・・・・・」
 バスを使わずそのまま四条への道をいつものように歩き始めて、僕は一瞬だけ未練がましく学生会館の方を振り返った。
 今日、彼は来ているのだろうか。
 けれどその途端。
「寄っていかんのか?」
「−−−−−−−!!」
 振り向かなくても誰だか判る。
 ずっと会いたくて・・・・会いたくなかった人だ。
「このところ顔を見せんからみんな心配しとったんやで?」
 いつから僕に気付いていたのか、江神さんはそう言いながら少しだけ走るようにして動けなくなってしまった僕の横に並んだ。フワリと微かに香るキャビンの香り。
「アリス?」
 会わずにいたのは僅か一週間の事なのにそれだけでトクンと鳴る鼓動。
「すみません・・」
 そう言って一瞬だけ間を置くと僕はゆっくりと隣に立つ江神さん見た。
 当たり前だが、変わらないその顔に何だか泣き出したいような気がするのはどうしてなんだろう。謝罪の言葉を口にしたまま何も言わなくなってしまった僕に江神さんは少しだけ不思議そうな顔をしてもう一度「アリス」と僕の名を呼んだ。
「・・・すみません、あの・・・バイトを始めて・・・・友達の代打で入ってそのまま続ける事になって・・」
「バイトか・・。そりゃしゃあないな。じゃあ今日もそうなんか?」
「はい・・・」
(すみません。嘘です)
 胸の中でそう謝って僕は顔を俯かせてしまった。これ以上彼の顔を見ていると聞きたくない事まで墓穴を掘って聞いてしまいそうで、そして僕がついている嘘が江神さんにばれてしまいそうで、切なくて、恐くて、居たたまれない。
「あんまり無理せんようにな」
 言いながら長い指が羽織ったシャツの胸ポケットからキャビンを取り出した。
「はい・・・。でもその台詞は江神さんに言われてもちょっと説得力にかけますね」
「言うてろ」
 江神さんはクスリと笑いながら取り出したキャビンを銜えて火を点けた。ユラリと青い空に向かって立ちのぼってゆく煙。
「しっかり働いて、しっかり飲み会資金を貯めるんやで」
「・・・あのですねぇ・・・」
「なんや、違うんか?」
「それは・・その・・・・・えっと・・・・」
「図星やろ?」
 クスクスと耳を擽る笑い声。
 いつものやりとり。これが今の僕にとって何より大切で何より守りたいものなのだ。だから・・・。
「・・・・・・・じゃあ、行きます」
「ああ、引き留めて悪かったな。モチ達には俺から伝えとく。アリスは飲み会資金を稼いでいるってな」
「・・・・たかられそうやから止めてください」
 僕の言葉にもう一度小さく笑って江神さんは「じゃあな」と歩き出した。
 離れてゆく背中。微かに眉を寄せて見つめて・・・
「・・・・もう彼女とは会ったんですか?」
 聞きたくて、聞けない言葉をそっと呟きながら僕はゆっくりと踵を返して歩き出した。
  後3週間。自分自身が決めた“1ヶ月くらい経てば・・”と言うラインまで残り3週間僕はこんな事を続けていかなければならないのだ。
「・・・・・・・・・・」
 目の前でパッと変わった信号。一斉に歩き出す人の波に呑まれるようにして横断歩道を渡る。
「アホやな・・・ほんまに・・」
 たった今別れたばかりだというのにこのまま走って戻りたくなっている足に力を込めて、僕は少しだけヤケになったような気持ちで歩調を早めた。
 耳の中に残る『アリス』という名前を呼ぶ声。
 早足で渡った気がしたのに渡り終えた途端信号はチカチカと点滅を始める。
 ひどく眩しい午後の光。
「・・・好きですなんて・・言われへんもん・・・・」
 白く褪せたその光の中で漏れ落ちたら言葉は、けれど背後で動き出した車の音にかき消され、自分自身にさえうまく聞こえなかった。
   


ううう・・文章がどうしてもどうしても気に入らず訂正入ってます(x_x)
本の時とはちょっと違う感じ?いやでも有栖が暗い感じなのは同じか・・・