片戀4

「麦茶や」
「・・・・すみません」
 テーブルの上にトンと置かれたコップ。それを手にとってコクリと一口口にしていると目の前で江神さんが銜えたキャビンに火を点けるのが見える。
 ありふれた、もう見慣れた日常。
 こんな短距離を果たして乗せてくれるのだろうかという心配をよそに江神さんが停めたタクシーは西陣の彼の下宿の前まで行ってくれた。
 降り際に運転手が「お大事に」と言っていたからよほど僕はひどい顔をしていたのだろう。
 階段を上がって、馴染みのある部屋に肩を支えられるように入って、麦茶を出されて、飲んで・・・・けれど江神さんは何も言わない。
「・・・あ・・・の・・・」
 沈黙に耐えきれず口を開いた僕に江神さんはまだ長いキャビンをゆっくりと灰皿に押しつけた。
「顔色が戻ったな」
「・・・・・・・・・すみません」
「あんまり驚かさんといてくれ。道端で倒れそうになっているのを見つけた時はほんまに慌てた。軽い日射病やと思うけど心配やったら病院に行くか?」
 真っ直ぐに見つめてくる眼差しに僕はクシャリと顔を歪めて首を横に振った。そうしてそのまま小さな声で「すみません」と先刻と同じ言葉を呟いて顔を俯かせる。
「何だかこの前からアリスは俺に謝ってばかりやな」
「・・・・そんな」
「どないしんや?バイトがきついんか?」
「・・・違います」
「無理したらあかんて言うたやろ?」
 耳に流れ込んでくる、ひどく優しく響く言葉。どうしてこれが僕だけのものじゃないんだろう?そんな子供じみた独占欲に不覚にも涙がポトリと落ちる。
「アリス?」
 すぐさま聞こえてくる驚いたような声。けれど不意の涙に驚いていたのは江神さんだけではなく僕自身も驚いていた。
 身体の中に湧き上がる羞恥心と不甲斐なさ。次いで込み上げてくる“今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい”と言う気持ちをけれどそうしてしまったら“それこそ取り返しがつかない事になってしまう”という気持ちで押さえつけて僕は俯いたままギュッと唇を噛み締めた。
 訪れた沈黙。
 それは僕にとっては永遠に近い長さを持っていた。
 やがて、カチリとライターの音がして再び江神さんがキャビンを吸い始める。
「どないした?」
「・・・・・・・・」
「何かあったんか?」
「・・・・・・・・」
「アリス?」
「−−−−−!」
 サラリと髪に触れた長い指。
 それにビクンと身体を震わせると大丈夫だとでも言う様に今度は大きな手が頭を撫でてくる。
「アリス・・・」
「・・・・・っ・・・」
 どうやら僕の涙腺は本気で壊れてしまったのかもしれない。
 パタパタと落ち始めた涙は止まらなくなってしまって、どうしていいのか判らない。
「・・アリス・・」
 名前を呼びながら、まるで小さな子供をあやすように江神さんは僕の髪を撫でていた。
「・・・・大丈夫や。アリス」
 呼ばれるたびに深くなって行く声が嬉しくて切ないと思う。
「・・・・・・・・・・たんです」
「うん?」
「・・・・・失恋を・・・したんです」
 そうしてどれくらい経った頃か、掠れたような声でポツリとそう口を開いた僕に江神さんは一瞬だけ髪を撫でる手を止めて「そうか」と答えた。
 再び訪れた沈黙。
 けれど今度のそれは少し短くて、江神さんは髪を撫でていた手でポフポフと頭を叩くように変えてゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「そりゃ残念やったな。けどアリスを振るなんて相手に見る目がなかったんや」
 労りとも、同情とも違うひどく、ただひどく優しい声が胸の中にしみてゆく様な気がした。
 触れているその手を離さないで欲しい。
 そんな事を考えながら次の瞬間、僕は自分でも何故そんな事を言い出したのか判らないまま、その手のぬくもりに甘えて僕は言うつもりのなかった思いをそっと口にしていた。
「・・・・・けど・・ほんまは好きだって言うてないんです・・」
「・・・・アリス?」
 再び止まってしまった手の動き。それが少しだけ淋しくて僕は顔を上げずに言葉を続けた。
「言う前に玉砕してしもうたんです」
「・・・・何でや?」
「他の人から、その人に好きな人がいるって聞いたから」
「・・・・・・・」
 3度目の沈黙。
 もしかして気付かれてしまっただろうか。そんな事を考えてしまった途端江神さんの声が聞こえてきた。
「そんなん本人に聞いてみな判らんやろ?」
 どうやら大丈夫だったらしい。短くなったキャビンを灰皿の上に押しつける指先だけを俯いたままで見つめながら有栖は再び声を出した。
「・・・・・・・でも本人がそう言うたんです。好きな人が居るって。そういうて断られた人が居るから」
「けどアリスは言うてないんやろう?」
「・・・・・僕は・・・・・恐くて言われへん」
「何でや?」
「好きな人が居るからって断られたら・・言って・・もう側に寄せて貰えんようになんったらきっと気が触れてしまう。せやから言われへん」
「・・・・・・言うてみたらええのに」
 止まったまま、頭に触れていた手が今度こそ離れていき、それがまるで江神さん自身の様で僕は慌てて顔を上げた。
 重なる視線。
「アリス?」
「・・・・嫌や」
「どないし・」
「嫌や絶対に言わない!臆病でも、アホでも、狡くても、浅ましくても・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「一緒に居られんようになったら・・・僕は・・・」
 途切れた言葉に僕は一瞬にして我に返って顔を青くした。目の前の、何かを見透かすような眼差しに声にならない悲鳴を上げて喉がヒクリと引きつる。
 甘えて、図に乗って、こんな事まで言ってはいけなかったのだ。
 多分、おそらく、絶対に気付かれてしまった。
 もう、側に居られない。
「・・・すみません、帰ります!」
「アリス!?」
 顔を見ることすら恐くて、そして見られることが嫌で、もの凄い勢いで立ち上がった僕の腕を、けれど数瞬早く江神さんが掴む。
「い・嫌や!」
「アリス」
「離してください!」
「アリス、落ち着け」
「嫌!!」
 どうか見ないで欲しい。こんな自分を見せたくない。きっと今自分はひどい顔をしているに違いない。
 やっぱり壊れてしまったらしい涙腺に僕の瞳から涙が溢れ出した。
 終わってしまったのだ。何も言えないまま、不用意な言葉の中から気付かれて終わってしまった。
 それはきっと、いままでずっと逃げてきた罰だ。
 7つも年下の後輩。しかも同性。多分江神さんは困っている。もしかすると気持ちが悪いと思っているかもしれない。
 けれどそんな気持ちにさせたいわけではなかったのだ。
「・・・・ごめんなさい・・・」
「何で謝るんや?」
「・・・・離して・・」
「アリス。答えになってへんよ」
 ポロポロと涙を流したまま、掴まれた腕を振り払う事すら出来ない僕の身体を次の瞬間江神さんはフワリと抱きしめてきた。
「!!!」
 どうしてそんな事をするのか。
 跳ね上がる鼓動と同時にひどくやりきれないような気持ちになった僕に江神さんはそっと口を開いた。
「聞いてくれるか?」
「・・・・・・・・・」
 何を・・とは問い返せなかった。
 答えのない僕に江神さんは一つ息を吐き腕の力を緩めないまま言葉を続ける。
「この前な。付き合うてほしいって言われたんや」
「!」
「でも好きな奴が居るからいうて断った」
「・・・・・・・っ・・・・・」
 どうしてそれをこの人の口から聞かされなければならないのだろう。
 止まることが出来なくなってしまった様な涙を流しながら僕はただ抱きしめられている腕の中で次の言葉を待っていた。
「俺も・・・アリスと同じで好きな奴に好きだというつもりはなかったんや。でもアリスの話を聞いて気が変わった。俺がそいつに好きやて言うたら、アリスもそいつに好きだって言いに行くんや。ええな?」
「・・・・そんなん・・・」
 出来るはずがない。
 たった今玉砕した筈の思いを今更どうして言葉にしなければならないのか。それとも気付いたと思ったのは僕の勘違いで、江神さんはまだ気付いていなかったのだろうか?
 けれど、でも、だけど・・・・。
「約束やで?」
 聞こえてきた言葉に僕は思わずビクリと身体を震わせてしまった。
「嫌です」
「アリス」
「嫌や・・・絶対に言わない」
 これ以上惨めになるのは嫌だった。そうして何より、江神がここから彼の好きな人の所に好きだと言いに行くその事自体が耐えられない。
 江神の言葉を守るなら、僕は誰かに好きだと告げてきた彼に好きだといわなければならないのだ。そんな事が出来る筈がない。
「言わな判らん。そうやろ?」
 覗き込んできた瞳は聞き分けのない子供を諭すように優しくて、厳しい。
「・・・・・・何で」
「うん?」
「何で好きやて言うつもりがなかったんですか?」
「・・・・困らせるだけやと思うたからや」
「なら・・・・何で言おうと思ったんですか?」
「言わな始まらんと覚悟が出来たから」
 僕との会話のどこでその覚悟をしたのか判らなかったが、最後まで逃げようとしている僕に比べて、僕の好きになった人は潔い。
「約束や、アリス。俺が言うたらちゃんと言いに行くんや。ええな?」
「・・・・・・・・」
「駄目で元々と思えば結構勇気が湧くもんや」
 クスリと漏れ落ちた笑いに僕はつられるように小さな笑いを零した。
 緩められた腕。
 離れてゆくぬくもり。
 真っ直ぐに向けられる視線。
 そして「行ってくる」と誰かに想いを告げるためにここを出てゆく・・・・・・
「好きや」
「・・・・・え・・・」
 けれど聞こえてきた言葉に部屋を出てゆく為のそれではなかった。
「・・・な・・・・に・・・」
「好きや、アリス」
「・・・・な・・・・」
 何を言っているのだろう。どうしてそんな事を言うのだろう?もしかするとこれは僕の夢なんだろうか。都合のいい、けれど目が覚めてしまえば全てが消えてしまう残酷な夢なのだろうか?
「俺は言うたよ。今度はアリスの番や。ちゃんと言うてくるんやで」
 そう言って向けられた背中に訳が分からずに、けれど背中を向けられた事が切なくて、次の瞬間僕はその背中に抱きついていた。
「アリス?」
「何で!何でそないな事言うんです?どうして!」
「好きだから。ずっと・・・気付いたら好きだった」
「そ・・・」
「言うたら困らせると思った。だから言うつもりがなかった。でももうええんや」
 言いながら振り向いた顔は少しだけ困ったような表情を浮かべていた。それが辛くて、何だかやりきれなくて、口惜しくて、自分でも判らないゴチャゴチャとした感情の中で僕はひどく興奮したまま口を開いた。
「それは・・・それは僕の台詞でしょう?何で江神さんがそないな事言わはるんですか!?狡い・・・そんなん・・そんな事・・・何で」
「アリス」
「好きや・・・好きや!ずっと江神さんが好きやった!気付いたら好きやった!せやから!・・・・・せやから・・・・そんな事もう言わなくてええです。もう・・十分です・・・ごめんなさい・・・・・もう」
「何で謝るんや?」
「だって・・・・」
「この前からアリスは謝ってばかりで、おまけに泣いてばかりや」
「・・・・・・・・・」
「何で泣くんや?」
「・・・・・だって・・江神さんが・・・」
「俺が?」
「・・好きやて言うから」
「言うたらあかんか?」
「だって・・・・」
 噛み合わない言葉のやりとりに、いつの間にか再び腕の中に抱き寄せられていた僕は頬に、こめかみに、そして相変わらず壊れて涙の止まらない瞳に何かが優しく触れるのを感じた。
「俺がアリスを好きやて言うたら困るのか?」
「江神さんがそないな事言うたらあかんねん・・」
「そしたらどないしたらええんやろな?せっかく好きやて告白したのに」
「それは僕が言うたんですよ。江神さんの言葉やない」
 言った途端耳元で小さな笑いが漏れた。
「あのなぁ、アリス」
 そっと親指が涙を拭った。
「そういうのなんて言うか知っとるか?」
「・・・何がですか?」
「アリスが俺を好きで、俺がアリスを好きなんやから、これは両思いって言うんやで」
「!!!!」
「好きや、アリス」
「・・・・嘘・・・・」
「嘘言うてどないするんや。何ならもう一度言うか?好きやで、アリス。それでアリスは?」
 覗き込んでくる、大好きな、優しい瞳。
「・・・・好き・・・・好きです!江神さんが好きや!」
「ほら、両思いやろ?」
 クスクスと耳を打つ小さな笑い声。
 今更ながら抱きしめられている事実に慌てた途端、近づいて・・・近づきすぎて見えなくなってしまった顔に焦って・・・。
「え・・がみさ・」
 そうして重なった唇にアリスはギュッと目を閉じた。


ホーホホホホ・・。昔の原稿って・・・やっぱり見るのが嫌ね。
次回最終話です。Hはとばして朝になっててもいいですか?