接吻 1

口づけを下さい
この胸の燃えるところへ

指先でたどって
やさしさを下さい

悲しみにたどりついたら
笑わないで下さい
あなたを

愛しているんです

口づけを下さい
どうぞ
この恋の
もろい所へ
             
銀色夏生『このワガママな僕たちを』より

それは夢とも現実ともつかない記憶。
曖昧で、それでいて忘れられない記憶だった。
見下ろされている感覚と、ゆっくりと近づいてくる気配。
微かに唇に触れたそれは、すぐに離れて、もう一度重なった。

ーーーーーキスをされたのだ。

思った瞬間、眠りの海に沈み込んでいた意識を必死で起こして瞳を開いた。
けれど・・・・・・
どこかで予測していたように、そこには誰もいなかった。
だから有栖には判らない。
今でもそれが夢だったのか、現実だったのか・・・・・判らないままなのだ。


運命だったのーーーーー・・・

それはひどくありふれた、小説のような事件だった。
『運命だったの、あの人と出会ったのは』
心の離れてしまった恋人を殺して永遠に“自分の物”にして女はうっとりと微笑んでそう言った。
八瀬にほど近い現場。
事件解決の後、自宅まで送るという京都府警の柳井警部の言葉を丁重に断って、英都大学社会学部助教授・火村英生とその長年の友人である推理小説作家、有栖川有栖の二人は市バスの停留所までの道を歩いていた。
夜の帳の下りた街。
それ程遅い時間ではないのだが、もの淋しいその道は果たしてバスがあるのだろうかという気持ちにさせられる。
もっともなければないでもう少し先にある叡山電鉄の駅まで足を伸ばせばいい事なのだが。
「・・・・・・・・どうにもこうにも・・・・小説の中ではよぉ使われる話やけど、現実に目の当たりにすると何やぞっとせぇへんな」
重苦しい沈黙に耐えかねて口を開いたのは有栖だった。が、隣を歩く火村はユラリとキャメルの紫煙を揺らしただけで何も言わない。
特に返事を期待していたわけではないが、それでも何となくこのまま再び沈黙の中に戻ってしまう事が嫌で、有栖は言葉を続けた。
「そういう気持ちが判る様な気もするんやけど、判らんような・・・判りとぉないような気もするし・・・」
ボソボソとした声は気持ちの表れ。
そんな有栖の言葉に火村は足を止めぬまま、どこかかったるそうに顔だけをチラリと向けた。
「素直に判らないって言えばいいだろ」
「失礼な奴やな。判るような気もするって言うたやろ」
「へぇ・・・・有栖川先生がそんなに恋愛関係に精通しているとは知らなかった」
前方に戻された顔。
携帯用の灰皿に短くなったキャメルを押し込みながらの皮肉気な言葉に思わず眉を顰めてムッとすると、有栖はピタリと歩く足を止めた。
「ああ言えばこう言う奴やな、ほんまに。そないな事言うんやったら君の方こそどうなんや?判る言うんか?」
ピッと指を差した前方3m。
言ったそばから“ああ、つまらん事を言うんやなかった”と後悔に似た思いが胸の中を駆け抜けたけれど、勿論出てしまった言葉は元には戻らない。
僅かな沈黙。
やがて歩いていた足を止めて、火村は今度こそゆっくりと後ろを振り返った。
そして・・・
「そうだな・・判りたくないが、判るってところかな」
「・・・え・・?」
一瞬何をどう応えていいのか判らずに有栖は言葉を詰まらせた。
“くだらねぇな”という声を覚悟していたというのに、返ってきた言葉はあまりにもその予測とはかけ離れていた。
そのまま更に数秒。
うまい切り返しが見つからないままの有栖に火村はどこか暗い笑みを浮かべて新たなキャメルを取り出した。
「何だよ、その意外そうな顔は。失礼な奴だな」
それは有栖が先程火村に対して使った台詞だ。
「あ・・すまん・・・その・・・」
けれど揶揄られているのかもしれないなどという事すら考えられないらしい有栖に火村はもう一度クスリと笑って言葉を続けた。
「本当に好きだったら、何をおいても、そう、例え自分の気持ちを殺してでもそいつの幸せを考えるなんてそんな綺麗事は言っていられない筈だ。自分から離れて他の奴の物になると判っていてどうして普通でいられる?誰の物にもならないならまだしも、自分以外の誰かがそいつを手に入れるんだぜ?幸せになれなんて言える筈がない。そうだろう?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳に、なぜかチリリと胸が焦げるような痛みにも似た息苦しさを感じて有栖は眉間の皺を深くした。
又しても訪れた沈黙。
ユラユラと揺れて立ち上る紫煙。
そして、新たなキャメルが半分ほどの長さになった頃、それを口に銜えたまま火村がニヤリと笑った。
「おいおい、何て顔をしているんだ、先生。こういう答えを期待していたんだろう?」
「え・・・あ・・・あー!!人の事を引っかけたんやな!!」
「作家先生が似非ロマンティックな説をひけらかすからだろう?」
「ひけらかしとらんわ!判るような気がするって言うただけやないか!!」
「じゃあ、訂正しよう。知ったかぶりをするからだ」
「大して変わらんわ!ボケ!!あー・・ほんまに腹立つ!!!」
「まだまだ修行が足りねぇな」
「それを君が言うんかい!」
戻ってきたいつものペース。
前日とはうって変わった、ひどく冷え込んだ春の夜。

ーーーーーーー運命だったの。

耳に残る声と狂気の狭間で浮かべた幸せそうな微笑みを振り払うようにして。
「あ・・・」
「今度は何だよ」
「オリオン座や。ほら、あの三つ星。まだ見えるんやなぁ・・・」
ふと見上げた空に輝く冬の星座の代表とも言えるオリオン座の三つ星。
次の瞬間呆れたように返ってきた「とっとと歩け」と言う声を聞きながら、有栖は何故かひどく安心している自分にクスリと笑って前を行くその背中を追い駆けた。

英都大学法学部3回生の有栖は、友人である社会学部の同期生、火村英生を待っていた。
本日、彼の下宿の大家が下宿生たちに手作りの炊き込みご飯を振る舞ってくれると言うのだ。
“冬によぉ雪かきを手伝ってもろうたさかい、有栖川君にも声をかけたってな”という大家の伝言を今朝火村から聞いて有栖は勿論諸手をあげて「行く!」と宣言した。
そうして午後1限分だけ講義の多い火村と待ち合わせの場所を決め、それまでの空いた時間をうららかな春の日差しが溢れる中庭で最近はまっているシリーズ物の文庫を片手に空を見上げているところだった。
「ええ天気やなぁ・・・・」
芝生に座って見上げる空はどこまでも青い。
夏のそれとは違う、眩しく輝きながら、けれど包むような優しさを合わせ持つ光に目を細めてゴロリと芝生の上に横になる。
鼻を擽る緑の萌える匂い。
長袖では暑くて、半袖では少し肌寒い気がするこの季節。
こうして外で寝転がる事の何と心地よく贅沢な事か。
「夕飯は婆ちゃん特製の炊き込みやしなぁ・・・」
呟いた途端ふと耳に甦る“小さな事を積み重ねておくと思わぬ所で得をする〈情けは人のためならず〉の見事な実践だな”と伝言に付け加えられた皮肉気な言葉。それに“君も見習った方がええで”と笑顔で返せたことも又、思い出すたび楽しくて。
「ほんまに絶好調やな」
お手軽な幸せを満喫しつつ有栖はチラリと腕時計に視線を走らせた。
約束の時間まではまだ30分近くもある。
「・・・うーん・・あかん。何や眠たくなってきた」
実は夕べ少し原稿に熱中しすぎてしまったのだ。
結構時間を過ごした気持ちでいただけにあと30分という時間を襲ってきはじめた睡魔と戦うのは至難の業だと有栖はすでに読む気の失せていた文庫本をパタンと閉じてしまった。そうしてそのままさっさと敗北宣言を掲げて瞳も閉じてしまう。
「どうせ来るのはあいつやしな・・・」
もともと中庭のこの場所を有栖に教えたのは火村だった。
人があまり来なくて図書館以外でゆっくりしたい時はここにいるのだと、以前珍しく約束をすっぽかされてさんざん探し回った有栖はようやくこの場所で火村を発見し、その時に半ば無理矢理ここの利用権をもぎ取ったのだ。
もっとも構内なので利用権も何もないのだが、一応先にこの場所を見つけたのが火村なのでそれなりに敬意を払ってみたというのが有栖の言い分である。
それ以来、有栖は天気のいい日は時々ここに来てぼんやりと過ごしている。
ただし火村に言わせると“お前はどこでだってぼんやりとしているだろう”という事になるらしい。
「・・・・・・ほんまに〈春眠暁を覚えず〉とはよぉ言うたもんやなぁ・・・・」
引用の仕方が違うだろうと言いたくなるような諺を口にして有栖は一つ大きなあくびをした。
サワサワと心地の良い風が頬を撫でてゆく。
「・・・・怒鳴り起こされるに・・・1000点かな・・・・」
ユラユラと意識が波のように揺れる。
「・・・・蹴り飛ばされる・・も・・・ありえる・・かなぁ・・・」
語尾の怪しくなった言葉と、脳裏を掠める呆れきったような友人の顔に、程なくして有栖は小さな寝息を立て始めた。
そうしてどれくらい経った頃か、有栖近づいてくる人の気配にフワリと意識を浮上させた。
それは芝生の上をゆっくりと歩き、眠っている有栖の頭上で止まると、やがて様子をうかがうように再び動き出した。
(誰や・・?)
意識は何となく起きているのだが、身体がすっかり眠ってしまっているのか指一本ピクリとも動かせない。
(火村か・・?)
当たっているようにも外れているようにも思える想像に、けれどこんなに所で眠りこけている人間にわざわざ近づいてくるというのはほかにはあまり考えられない。
それならば、眠りに落ちる前に考えていた通り、自分はやはり蹴り飛ばされてしまうのだろうか。それとも叩き起こされるのだろうか。
その時点では、有栖は悠長にやっぱりどっちも嫌やなぁなどと思っていた。そうして早く起きなければいけないとか今ならば目を瞑っていただけだと言い訳が出来るかもしれない等とも考えていた。
そんな有栖の耳に聞こえてくるサクサクと言う芝を踏む音。
けれどやっぱり身体は動かなくて、音はひどく近づいて、頭のすぐ脇で止まった気がした。
(・・・蹴り飛ばされたら痛いやろうなぁ・・・・)
どうしてこんなに意識ははっきりしているのに身体が動かないのだろう。
サクッと又小さな音がする。
少しは手加減をしてくれるだろうか。
そんな思いに、訪れるだろう衝撃を覚悟した有栖は、次の瞬間思わず呆然としてしまった。
(・・・・え・・・・?)
それは有栖が予想もしない出来事だった。
(な・・・に・・・?)
唇にゆっくりと触れたぬくもり。
掠めるように触れただけのそれは、すぐに離れて再びそっと重なってくる。
(・・・こ・・・これって・・・・)
キスをされているのだと判ったのは更にその数瞬後の事だった。
そしてその瞬間、ようやく理解した事実に、有栖は今度こそ必死で身体を動かし始める。
「・・・・・・・っ・・」
ピクリと動く指。
震える瞼。
(人の寝込みを襲うのはどこのどいつや!!!)
何としても起きてその正体を確かめ、ボコボコにしなければ気が済まない。
離れてゆくぬくもり。
立ち上がる気配。
ーーーーーー逃げられてしまう!
(逃がすか、このアホんだら!!!)
胸の中で怒鳴り声も勇ましく、有栖はようやく脳味噌と回線の繋がった身体をガバリと起こした。
「・・・・・・・へ・・?」
だがしかし、そこには誰もいなかった。
「う・・・・嘘やろ?」
たった今、自分は確かに、誰かにーーー不本意だがーーーキスをされていた筈なのだ。
けれど誰もいない。
「ゆ・・・・め・・?」
そう考えるしかない。しかしそう考えるにはあまりにもリアルすぎる出来事だった。
「・・・・・・ほんまに夢やったんか?」
納得がいかない。絶対にどう考えても納得出来ない。
でも・・・・・・・・・・だけど・・・・・・・・・・
「・・・確かにミステリーは好きやけど・・・」
これはちょっといただけないと有栖は思った。
思わず眉間に寄る皺。
そっと指で唇に触れて・・・・。
「おい、何をボーっとしているんだ?」
「−−−−−−−!!」
かけられた声にビクリと身体を震わせて振り向くと近づいてくる友人の顔が見えた。
彼は呆然としている有栖を見てかすかすに眉を寄せて再び口を開く。
「アリス?」
「なぁ・・・・・・・火村」
「ああ?」
「今来たんやろ?その辺で誰かに会わんかったか?」
「誰かって?」
「・・・・・・・・・・・判らんけど・・誰か・・」
「・・・・お前仮にも小説家を目指しているんだろう?もう少しまともな日本語を使えよ。誰にも会わなかったけどどうかしたのか?」
「・・・・そうか」
「何だよ、寝ぼけているのか?」
「そう・・・・・・かもしれへん・・・」
こうしてそれは有栖の中で、夢とも現実ともつかない、迷宮入りの事件になったーーーーーーーー・・・。

フワリと浮かび上がった意識。
ポッカリと開いた瞳に映ったのは自宅マンションの見慣れた白っぽい天井だった。
「・・・・・・・・・」
一つ息をついて、ゆっくりと瞳を閉じて、もう一度開く。
薄暗い室内。
おそらく、まだ夜明け前か、夜が明け始めたばかりの時間だろう。ベッド脇の滅多に活用することのない目覚まし時計はそれに近い時間を差していた。
ベッドに入ったのが3時を回っていたのでほとんど眠っていないことになる。
「随分懐かしい夢やったな・・・」
そう・・・。あまりにリアルで一瞬自分が何歳なのか判らなくなってしまうほど鮮明な夢だった。
「・・・・・・・・・・・もう十年以上経つんか・・」
ポツリと零れ落ちた言葉。
次いで有栖はベッドの上にゆっくりと身体を起こした。
忘れていたわけではない。否、忘れようもない記憶。
普段は記憶の底に沈んでいても、何かの時にこんな風にふと浮かび上がってくるそれは、はじめのうちこそ納得の出来ない不思議な出来事だったが、時が経つにつれ、有栖の中でいわゆる『解けない謎』というものから逸脱していった。そしておよそ自分らしくないと判っているのだが、何か・・・運命的なものーーー前世だとか、巡り会うべきものだとかーーーそんなものに絡んで重なって、ある種の思いこみのようなものに変化していったのだ。
ーーーーーー運命だったの。
ふと脳裏を過ぎった女の声。
だからなのかと有栖は思わず苦い笑みを落とした。
先日火村が関わった事件。
久々に同行したそのフィールドワークは、火村曰く“三文芝居並”の結末を迎えた。
その時に犯人の女性が口にした言葉が思っていた以上に自分の中に入り込んでいたのだ。
「・・・・運命か・・・」
呟くように口にして有栖はベッドを下りた。
水でも飲んで寝直そう。
一般人にとってもまだ起きるには早いこの時間は、有栖にとって見れば真夜中に他ならない。
「彼女はどういうところでそれを感じたんやろ・・・」
寝室のドアを開け、有栖はそのままリビングを横切ってキッチンに向かうとコップに半分ほど水を汲んだ。
コクリと口にすると冷たい液体が喉を通ってゆくのがひどくリアルに感じられる。
別れると言い出した恋人を殺して“自分の物”にしようとするまでの執着と、それを支えた“運命”と言う言葉。
「・・・・・・・・」
空になったコップをシンクの中に置いて有栖はクルリと踵を返した。
先日火村には判るような気がする等と言ったが、やはりどうも自分には理解しがたいものらしい。
そうして思い出す火村の言葉。
『判りたくはないが判るってところかな』
「・・・・・・やめた・・・・これ以上考えてたら本気で眠れなくなりそうや」
いくら考えても答えの出そうもない事を意地になって考えるというのは、実はそんなに嫌いな事ではないが時と場合と言うものがある。
少なくとも締め切りが一週間後に迫っていて、ようやく一区切りをつけてベッドに入ってから一時間と少ししか経っていないという時に考えるべきものではない。
「・・・・・・・・寝よ」
コキコキと首を回して有栖は歩調を早めた。元々広くもないマンションである。
すぐに辿り着いた寝室に入って、まだ暖かいベッドに潜り込んで。
「おやすみ」
誰に言うともなくそう口にすると、有栖は今度こそ深い眠りに落ちるべく目を閉じた。