接吻 2


「お忙しいところわざわざご足労いただきまして有り難うございました」
先日のフィールドワークの調書に目を通して欲しいという柳井警部からの連絡で、火村は午後の講義を終えるとそのまま職場からほど近い京都府警へと向かった。
出されたそれを今まで関わってきた事件と同じように事務的に目を通しながら火村は彼女が精神鑑定に回された事を知った。
火村はこの精神鑑定というものにも含むものがある。
けれど現時点でそれがどうこう出来る問題ではない事は十分すぎるほど判っている。
とりあえずは犯した罪が闇の中に埋もれずに済んだ。そこから先は検事と裁判所の仕事だ。
「そう言えば先生、先日は遅くなってしまわれたのではないですか?」
かけられた言葉に火村は調書をめくる手を止めた。
「バスは有りましたか?」
続けざまの質問。
それに「ああ」と納得をして、火村は胸ポケットの中からキャメルを取り出しながら何かを思い出したような薄い笑いを浮かべて口を開いた。
「幸いすぐにバスが来ましてね。というよりも僅かにそちらの方が早かったんです。が、一時間は来ないだろうと言いましたら有栖川が年甲斐もなく追い駆けてくれました」
「・・・・それは・・・ご苦労様でした」
言いながら笑いを堪えるような表情を浮かべた警部に飄々と「伝えておきますよ」と答えて、火村は銜えた煙草に火を点ける。
フワリと浮かんだ煙。
(・・・そういえば)
あの時以来連絡をしていなかったなと火村は手にした調書に目を落としながらぼんやりと思った。
そして次に、締め切りがあるとか言っていたのは日にち的にそろそろなのではないかと思い当たる。
(2.3日したら電話でも入れてみるか・・)
多分今頃は締め切り前の悲惨な状況に陥っているに違いない。作家になってもう何年も経つというのにどうしてああも学習能力がないと言うか、ギリギリにならないと書き始められないのか。
(試験前に部屋の大掃除をするタイプ以下だな、あれは)
そう、それはそれで部屋の中が綺麗になるので状況的にはどうであれ悪い事ではない。
が、有栖の場合は部屋も片付けないので締め切り明けには全てが飽和状態になっているのだ。
「・・・・・・・・有り難うございました。鑑定の結果が出ましたら知らせて戴けますか?」
調書を元に戻し、次いで短くなったキャメルを火村は灰皿の上に押しつけた。
「判りました。それではまた何かありましたらご協力お願いいたします」
深々と下げられた頭。それに軽く会釈をしてガタリと椅子から立ち上がると、火村はそのまま府警の駐車場に停めてある愛車へと向かった。
アートなベンツ。
そう評したのは今し方話題になっていた大阪在住の推理小説家である。有栖もこれと張れるほど年季の入った車を所有しているのだが、彼に言わせると『間違うても一緒にして欲しくない』だそうで、だがしかし、どう贔屓めに見ても【目くそ鼻くそ】ーーー下品な例えだがーーーの域だと火村は思っている。
(・・・ったく・・今回もちゃんと生きているんだろうな、あの馬鹿)
キーを差し込んで開いたドア。
一旦思い出すと次々に気になってくるのは人間の習性だと火村はらしくもなく苦笑に近い笑みを落とした。
有栖は締め切り前になると人間らしい生活を放棄する。
初めて修羅場というものを見た火村はさすがに「・・おい」と眉を潜めたが、すぐさま隈のはりついた目で「やかましい!」と怒鳴られてからは、何をどうしても締め切り前の作家には近寄らないでおこうと心に決めたのだった。
それ以来、有栖の締め切りを確認するのが火村の習慣となった。
「・・・・まぁ、作家も助教授と同じ位には因果な商売だよな」
聞こえる筈のない言葉を口にして、火村は車内に身体を滑り込ませた。そうしてふと、そう言えばこの京都にも知っている作家がいたなと思った、その途端。
「火村先生!?」
「−−−−−!」
聞き覚えのある声と京都弁特有のイントネーション。
一瞬、もう少し早くドアを閉めてしまえば良かったとひどく大人気ない事を考えて火村は駆け寄ってくる人影に車か ら下りて会釈をした。
「ああ、ほんまに先生やわ。御無沙汰してます。お変わりなく?」
「ええお陰様で。朝井さんもお元気そうで。お出掛けですか?」
「そう。と言いたいところやけど、これからここと京大のなんとかって言う研究室の方に取材のハシゴやの。編集社 の人間と待ち合わせしてたんやけど早く着いてもうて。どないしようと思うてたんよ。ちょっとだけなら付き合うてもらえるかしら?」
にっこりと笑う赤い唇。
苦手というわけではないが、かと言って付き合いたいタイプでもない。職場の近くで余計な噂の種を撒く気はないの
だ。火村は丁重に誘いを断るべく口を開いて。
「付き合うて貰うお礼に“夢見る推理小説家 の話を聞かせるわ」
「夢見る推理小説家?」
「そう。浪花のロマンチスト」
「・・・・・・制限時間は?」
「1時間」
「どうぞ」
「おおきに」
こうして京都在住の推理小説家を乗せたアートなベンツは京都府警の中に様々な憶測を残しつつ走り出した。