接吻 3


「・・・・・・なんでここで・・詰まるんや!」
謎解きも終わった、犯人も判った、後はまとめに入るばかりの所で有栖の指は昨日からストライキを起こしたかのようにピタリと動かなくなってしまったのだ
「うー・・・」
カーソルの全く移動しない液晶画面。
過去に何度かこんな風にエアポケットの中にすっぽりと落ちてしまった経験はあるが、今それをなぞるわけにはいかない。
何しろつい先程も担当の編集者からご機嫌伺いの電話が入っているのだ。

 
『くれぐれ言っておきますが、もう伸ばせないんです。どんな事をしても伸ばせないんですよ、有栖川さん』
普段は温厚で人の好い編集者は、どこかイッてしまったような口調でそう言った。
「判ってるって片桐さん。ほんまに8割は上がってるからちゃんと送れます」
『一昨日も8割でしたよねぇ。元々の設定がギリギリだったんです。駄目なら駄目って言って下さいね』
「片桐さん?」
『すぐにこちらに部屋を用意しますので』
「・・・・・・・い・・嫌やなぁ・・片桐さん。カンヅメなんかせぇへんでも明日の最終には乗せますよ」
『信じます。信じますからね』

 
微かに涙声になっていたのはきっと他に悲しい事があったからに違いない。有栖はそう思い込んで電話を切った。
だから、どんな事をしてもストライキだのエアポケットだのとは言っていられないのだ。
「・・・・コーヒー飲んで気分転換しよ」
そう言ってフロッピーに文書を落として、有栖はゆっくりと椅子から立ち上がった。
ウンと伸びをするとどこからかポキポキと音がする。
今流行のリラクゼーションというかいわゆるマッサージにでもかかった方がいいだろうか。
「・・・・かかるにしても原稿を上げんとな」
言いながらインスタントに手を伸ばして、おもむろにコーヒーメーカーの方に向き直る。
どうせ気分転換をするならば、多少なりともおいしい方がいい。挽いた豆を入れてスイッチを入れ、水を注げばインスタントに比べ幾分時間はかかるものの香りが格段に違うコーヒーが出来る。
「・・・便利になったもんやなぁ・・」
しみじみとそう呟いて有栖はボンヤリと褐色の液体が落ちてゆくのを見つめていた。
原稿が進まなくなった理由。
実はそれは有栖にはよく判っていた。
そんなつもりは全くなかったのだが、小説の中で謎解きをした探偵役の男に事件に巻き込まれたヒロインが「運命って、信じますか?」と尋ねたのだ。探偵役の男は「それは自分で切り開くものだと思っています」と少女に告げる。
有栖もそう思っている。だから突然喋り出してしまったキャラクターに探偵役を借りてそう答えたのだ。
けれど、そう思うそばからつい先日みたばかりの夢がそれを否定するのだ。そんな事を言いながらも運命というものに惑わされているくせにと。
だから・・・書けなくなった。
「・・仮にもプロやのに情け無さすぎや・・」
きっと多分、学生時代から口の悪い友人にバレたらそれこそ馬鹿にされてしまうに違いない。
昨日も久々に電話のかかってきた同業者につい、ポロリと漏らしてしまったのだ。
『・・朝井さんは前世とか・・運命とか・・そういうの信じます?』
言ってからしまったと思った。思いつつ本当に自分はそういう事が多いなと重ねて思う。
『・・アリス・・あんた・・タチの悪い新興宗教にでもハマっとるんやないやろね。悪い事言わんから止めとき』
「違う」と言ったらまだ疑わしそうな声で「じゃあいきなり何やの?」と聞かれたので、これが又ついついうまい誘導尋問に乗せられて例の夢(かもしれない)事まで喋ってしまったのだ。
当分京都には足を向けられない。
しかも話の最後には ーーーー
『アリス。言いたないけどあんたもほんまはええ年なんやから、そんな前世や運命やなんてどこぞのSF作家か、流行りのすぎた少女漫画みたいな事言うてへんで、もっと現実を見なあかんよ。あんたがそれが下せへん言うんやったら私が下したるわ。それは夢や。欲求不満やね。その時誰かと付き合うてたんやないんやろ?あんた可愛い彼女が欲しかったんよ。男の寝込みを襲う彼女が可愛いかどうかは別として。それじゃなければ変質者に襲われたかどっちかやわ。判ったらとっとと仕事しなさい。何やあんたの話聞いてたらこっちも真剣に仕事せなあかん気がしてきたわ。今時ええ年した男の“ロマンチスト”や“乙女ちっく”なんて犯罪やで。ええな?現実逃避したらあかんよ。このままやったらほんま悪い女に瞞されてわけわからんうちに婚姻届出されてまうよ。心配やわ・・。とにかく、あんたかて運命で作家になれたわけやないやろ?それに向かって頑張ったから作家への道が開けたん。つまりは運命なんて都合のいい言葉なんよ。判った?』
等と根を詰めて長々と諭されてしまった。
「・・・・都合のいい言葉か・・」
確かにそうかもしれないと有栖は思った。
そう思いながら淹れたてのコーヒーをカップに移して少しだけ砂糖を入れる。
フワリと鼻をくすぐる香り。
−−−−−−−運命だったの。
−−−−−−−運命って・・信じますか?
二人の女たちの言葉。
自分は何に引っ掛かって、進めずにいるのだろう?
熱めのコーヒーを一口口に含んで、有栖はコトリとカップを置いた。
シンと静まり返った部屋。
ベランダに続く窓から差し込む光は、もう夕暮れのそれ。
「運命は自分で切り開くもん・・やけど・・逆らえんものかてあるやろ?」
だが、どこからが切り開けるものでどこからが逆らえないものなのかと聞かれたら勿論判らないし、又本当に逆らえないものとして片付けてしまっていいのかとも思える。
ならば逆らえないかもしれない中で、自分なりに逆らった結果がそうならば納得出来るのかとか、それは自己満足と違いがないのではないか?という疑問が次々にポロポロと出てきて、頭の中がグチャグチャになってしまう。
「・・・・・どうも・・こういう問答めいたもんは性に合わへんな・・」
あの夜、あんな風に言った友人ならば・・・火村英生ならば何と言うのだろう。
「・・・・・・くだらねぇ事に脳味噌使ってるんじゃない位は言うやろな」
夕日に赤く染まる室内に、有栖は何故かひどく火村の声が聞きたくなった。
皮肉気な、呆れたような声でそう言ってほしいと思った。
「俺はマゾか・・」
クスリと零れた笑い。
すっかりぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して有栖は書斎へと向かって歩き出して。
「−−−−−−!」
鳴り響いたインターフォンに慌てて方向転換をした。



「・・ほんまに夢見てる言うか、らしいと言えばらしいんやけど」
一息ついて朝井小夜子は目の前の紅茶に口をつけた。
語り始めはこうである。

 
『センセはこの所アリスと会うてます?』
2週間程前にフィールドワークで一緒だったと言うと小夜子は小さく肩を竦めた。
『実は昨日アリスの所に電話したんよ。片桐さんがアリスはそこそこ好調らしい言うんでほんならちょっとグチでも聞いて貰おうかと思うたの。ところが何を言い出したと思います?』
小夜子の問いに火村はキャメルを吸いながら「さぁ」と答えた。それを見越していたかのように小夜子は「これは流石のセンセでも驚くと思うわ」と付け加えてその言葉を口にした。
『“前世とか運命とかって信じます? ってこうよ。ほんまに悪い宗教にでもハマったんかと思ったわ』
そう・・。流石の火村もこれには銜えていたキャメルを落としそうになってしまった。
それを見て小夜子は更に言葉を続ける。
『よぉ聞いたら今書いてる中編のヒロインがいきなりそんな事を切り出したんやて言うの。まぁ、私らの場合自分が生み出したて言うても冗談やなく勝手に喋り出してしまうキャラも居るからそれはそれで、ああそうなん?って思う
たんやけど』
そういうものなのかと火村は少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。
『で驚いた事に学生時代の夢を見た言うん』
『夢?』
『そう。先生は聞いた事あれへん?アリスの欲求不満、もしくは変質者遭遇の話』
『・・・・・・・』
『あの子なぁ、先生と待ち合わせしてた時に誰かにキスされたんやて』
『−−−−−−−−−!?』
『それが夢か現実か判らん言うんよ。よぉ聞くと寝ボケたとしか思えん状況やの。でな、さらにここからが凄いんやわ。はじめのうちは“解けない謎 みたいに思うてたんやけど、段々“前世の記憶かもしれへん とか“巡り会うべき運命の恋人かもしれへん”とか考えた言うから聞いてるうちに頭抱えたわ。ほんまに夢見てる言うか、らしいと言えばらしいんやけど・・』
こうして冒頭の部分に辿り着くわけである。

 
「でも、どう思われます?」
「どう・・とは?」
「その夢」
「さぁ、私は直接有栖川からそれを聞いたわけではありませんから何ともコメントの仕様がないんですが」
「私、センセのそういう当たり障りのない物言いって好きやわ。私ねアリスに言うてやったの、せやってこういうのは誰かがはっきり言ってやらなあかんやろ?それは夢や。欲求不満やったんや。きっと可愛い彼女が欲しかったんやろって。それやなかったら逃げ足の早い変質者やて」
「・・朝井さん」
「せやかてそうやろ?あの子が寝汚くボケボケしとるうちに逃げたんやわ」
そうきっぱりと言って小夜子はぬるくなった紅茶を飲み干すとポットの中に入っていた残りを白いカップに注いだ。
渋みのかかった紅い液体がユラリと揺れる。
「・・・運命とか、宿命とかいう言葉って私あんまり好きやないの。だって自分が頑張ったから出た結果に対してそのせいやて言われたら腹立つやない。私らは運命で物書きしとるわけやない。そうでしょう?」
「おっしゃる通りだと思います」
火村の返事に小夜子は鮮やかな笑みを浮かべた。
「ああ、そろそろ時間やね。ここからはタクシー使うからええわ。付き合うてくれて有難う。それから今度アリスに会うたら言うてやって、気色悪い変質者や、欲求不満の夢の事なんか忘れて前向きに生きなさいって。これはアリスにも言うたんやけど、悪い女にコロッと瞞されて、気付いたら婚姻届を出していたなんて事が冗談やなく起こりそうやから先生もしっかり見守ってやってな」
伝票の上に有無を言わさず千円札を置いて、カタリと立ち上がった女はそのままヒラヒラと手を振って店を出て行った。
目の前にはすっかりぬるくなった飲みかけのコーヒーと注いだまま残された渋そうな紅茶。
「・・・何が前世で、運命の恋人だ、あのバカ・・!」
ポツリと呟くと近くのテーブルから視線が寄せられた。
それに思わず眉をひそめて、残りのコーヒーを一気に煽ると火村は伝票と置かれた札を掴んで立ち上がった。
おそらく多分そんな事を言い出したのはこの間の事件が尾をひいているのだろう。
もしかしたら、火村自身が口にした事が、無意識のうちに有栖の中に残ってしまったのかもしれない。
ムッとしたまま精算して外に出ると、傾き始めた午後の日差しが火村を包む。
小夜子の話だと有栖は締め切りを抱えているがそこそこ順調に進んでいるらしい。
何度か遭遇してしまった修羅場にはなっていないようだ。
「・・・・・ご機嫌伺いにでも行くか」
そんなに面倒ならば止めればいいというような口調でそう言うと火村は向かいのパーキングに停めてあった愛車に乗り込んだ。
『悪い女にコロッと瞞されて、気付いたら婚姻届を出して
いたなんて事が・・』
たった今聞いたばかりの小夜子の声が甦る。
思わず落ちた舌打ち。
「あのバカ・・」
苦虫を噛みつぶしたような呟きは、けれど、動き出したベンツの唸るようなエンジン音に掻き消された。