接吻 4


部屋に鳴り響いたインターフォンの音。
一度鳴ったそれは、すぐに出ない事に腹を立てたかのようにいきなり立て続けに鳴り出した。
「・・ったく誰やねん!近所迷惑な奴やな!!」
言いながらインターフォンの受話機を取るのを止めて有栖はそのまま玄関へと向かった。もしも悪戯だったら怒鳴りつけてやる。
そう思って勢いよく開いたドア。
「はい!?」
けれどその先に見えたのは・・・。
「火村!?」
「よぉ、生きてたか、先生。締め切り前でくたばっているかと思ったぜ」
ニヤリと笑う顔に相変わらずの口調。
たった今、声を聞きたいと思っていた事がいきなり現実となって有栖は一瞬言葉を失ってしまった。
それに火村が僅かに眉を寄せる。
「どうした?まさか本当に脳天の方までキテるんじゃないだろうな」
「あ・・アホ言いなや。急に来てガキみたいにベルを鳴らすから呆れただけや。近所迷惑っちゅう言葉を少しは覚えた方がええで。仮にも教育者やろ?」
言いながら入れと言わんばかりに玄関のスペースを空けると当り前のように入ってくる身体。
そんな小さな事が嬉しくて有栖はそのままリビングへ向かいながら口を開いた。
「けど、ほんまにどないしたんや?こっちに用事でもあったんか?」
「いや。純粋に先生のご機嫌を伺いにきただけだ。その分じゃ順調なんだろう?」
「お陰さんで順調や。と言いたいところやけど実は2日前からパッタリ進んでへんのや。今ちょうど気分転換にコーヒーを・・火村?」
お互いに前を向いたままのやりとり。
けれど突然後をついて来ていた気配がピタリと立ち止まった事に気付いて、有栖はリビングの中からいぶかしげに後ろを振り返った。
思った通り火村はリビングのドア付近でその足を止めている。眉間に寄った皴。
「・・・お前、締め切りはいつなんだ?」
「明日の最終便」
「邪魔したな。2日後に会おうぜ」
言うが早いかクルリと踵を返した身体に、有栖は慌てて今来た道を戻った。
「ちょ・ちょお待て!火村!何なんやその態度は!」
「過去の自分を考えれば至極自然な事だと思うぜ。あれを経験して友人を続けている俺に感謝しろよ」
スタスタと玄関に続く短い廊下を歩いて行く背中。
確かに、確かに、確かに!!火村の言う事も一理ある。
あるけれど、これはあまりと言えばあまりではないか。
「せ・せめてコーヒーくらい付き合うたってバチは当らんやろ!!」
だが、しかし、出てきたのはこんな箸にも棒に引っ掛からないような、反撃とも呼べない台詞だった。それでも火村を立ち止まらせる事は出来た。その事実に励まされるように有栖は更に言葉を紡ぐ。
「あ・・あとちょっとで終わるんや。ほんまに・・」
そう。そのちょっとに2日近くもかかっているだが、勿論それは言わない。
「ご機嫌伺いに来たんやったら、ちゃんと機嫌を見てから帰るのが礼儀ってもんやろ」
言えば言うほど情け無くなって行く、さすがに有栖自身にもその自覚はあった。
けれど、でも、あまりにもタイムリーな現れ方をする方が悪いのだ。こんな風な気持ちの時にいつも通りの顔して来るのが悪い。
「・・・・・・・」
訪れた沈黙。
やがて。
「いきなり怒鳴り出さないって約束できるなら付き合ってやってもいいぜ?」
「−−−−−−!」
ニヤリと笑う顔。
なぜ有栖がそんな事を言ってまで自分を引き留めようとするのか一切問わない。
それが火村なりの表現の方法だと有栖はよく判っていた。
だから・・・・。
「人を多重人格症か酔っぱらいみたいに言うんやない!」
ムッとして怒鳴る有栖に「そりゃ失礼」と小さく肩を竦める火村。
そうして二人は再びゆっくりとリビングに向かって歩き始めた。
 
 
 
   
  
 
程好く冷めたコーヒーを飲みながら火村は2本目のキャメルを取り出した。それを見て有栖が小さく眉を寄せる。
「コーヒーを飲むか、煙草を吸うかどっちかにしたらどうや?」
「うるさい。どっちもうまいんだからそれでいいじゃねぇか。つまらねぇ事言ってると年寄りくさくなるぜ?」
「君に言われたないわ!言うとくけどな、何日かだけやけど君の方がじじぃなんやからな。そこんところを夢々忘れ
ん方がええで?」
「その口の減らなさが作品に生かせれば、どこかの作家みたいに月産で本が出せるんだけどな。気のいい編集者も泣かずにすむし」
「・・・・・口だけで本が出るんやったら、君に勝てる奴は誰も居てへんよ」
ユラリと揺れる煙草の煙。
プツリと途切れた会話。
あんな風に引き留めたにも関わらず、有栖はまだ話を持ち出せずにいた。
聞きたいと言う気持ちがあっても、何をどう言い出せばいいのか。
(いきなり運命がどうとか言うたら絶対にいらん事まで聞き出されるしなぁ・・)
それはつい先日、同業の朝井小夜子によって証明済みだ。
しかも目の前の男は彼女よりも頭の回転と底意地の悪さにかけては遥かに上を行く。
けれど、でも、それが自分で納得出来なければこの堂々巡りからは抜け出せない。
「・・・・・っ・・」
胸の中で落ちる溜め息。
窓の外は藍色に染まる空。そしてその中で夕日の残骸が帯状にジワリと朱を泌ませている。
(・・・・・小説の中で・・って事にして・・)
すでにその“いらん事 を火村が小夜子から聞き及んでいるとは知らずに有栖は必死できっかけを捜していた。
−−−−−−−−運命だったの。
そう。確かにあの事件が引き金だった。
そうして忘れられない“夢 を思い起こさせた。
いつの間にか有栖の中で<らしくもない思考>に変化をしていた“夢”。
けれどそんな風に考える自分が納得出来ない部分も有栖自身の中にあって、多分・・今回のヒロインの台詞を生み出してしまったのだ。
−−−−−−−−運命って、信じますか?
どちらも自分だから、答えが出せない。進めない。
「おい・・目を開けて呆けるなよ」
「・・・・・なぁ」
「ああ?」
「・・・・・え・っと・・あの・・」
「アリス?」
窓の外、一つ、又一つ輝き出す灯りたち。
それを見つめながら有栖はふと、今日の夜空にもあの日のようにオリオン座の三ツ星が輝くのだろうかと埒もない事を考えてしまった。
「おい・・」
「この前の事件・・どないなった?」
勿論本当に聞きたかったのはそんな事ではない。
けれど結局それ以外に切り出しを考えられなかった。
有栖の言葉に火村は吸っていたキャメルを灰皿に押しつけて顔を上げた。
「事件?」
「八瀬の」
「ああ・・精神鑑定だとさ」
「・・・そうか・・」
再び落ちた沈黙。
一つ息をついて、有栖は再び口を開く。
「・・・・・運命って言葉をどう考える?」
考えて、考えて、考えた言葉はやっぱりこれだった。
己のボキャブラリーのなさを実感して、思わず胸の中で苦笑が零れる。
「この前の三文芝居の事か?」
ユラリと揺れる紫煙。
「違う・・小説の中でちょっと・・煮詰まる材料の一つになっとるから、助教授の意見をお聞かせ願いたいなと思うたんや・・・」
我ながら言い訳くさいなと有栖は思った。
3度目の沈黙。
やがて目の前でニヤリと火村が笑う。
「アリス。俺は自他ともに認める無神論者だぜ?そんなもん信じる筈がないだろう?」
「・・そ・・そっか・・そうやな・・」
軽い落胆。
「まぁ、でも敢えて言うなら」
「!」
僅かな期待。
「受講料は高いぜ?」
「コーヒー代でチャラや」
「セコイぜ、大阪人」
「やかましい、出し惜しみしとらんでとっとと言え」
そうしていつものやりとりのその後で、火村はそんな事も判らないのかというように小さく肩を竦めた。
「お前は運命で作家になったのか?」
「・・・へ?」
考えてもいなかった言葉に有栖は素っ頓狂な声を上げた。
それを無視して火村はさらに言葉を続ける。
「俺は運命でこの仕事についたわけじゃねぇぜ?なりたいと思ったからなれるように努力した。つまりはそういう事だ」
「火村・・?」
「まだ判らないなのか?仕方ねぇな。じゃあ締め切り前の作家にも判るように特別サービスでもう少し付け加えてやると“運命”なんて言葉は世間一般に使われる“一生のお願い”と同じ位都合のいい言葉だ」
「・・・・・・・・」
言った途端ニヤニヤと笑う顔に有栖は一瞬だけ茫然として 、次に嫌そうに顔を歪めた。
目の前にプカリと浮かんだ白い煙。
「・・君に聞いた自分がもの凄くアホな気がしてきたわ」
「自分で気付いておめでとう。さて、先生お判りいただけたところで少しは生産的な事をするのはどうですか?」
「・・・・・言われんでもするわ」
「お前がこもっている間に夕食位は作って行ってやるからよ」
「火村?」
「優しいだろう?礼は今抱えているヤツの原稿料が入ってからでいいぜ」
「−−−−−−−!」
うまく返す言葉が見つからないまま、数分後、有栖は書斎のドアを開けて・・・閉じた。
相変わらず何もないような冷蔵庫の中身。
来るたびに一体こいつは普段どんな生活をしているのだろう?と火村は疑わずにはいられない。
「・・・・やっぱり何か買ってくるべきだったな」
賞味期限ギリギリの玉子と、恐らく前回に火村が持ち込んだ冷凍野菜、そして一応は買っているらしい米を確認して火村は眉間の皴を深くした。
いつもならば、そんな事はお見通しとばかりに何日か分の食料を持ってくるのだが、今日はそこまで頭が回らなかったのだ。
「・・・ったく・・あのバカ」
閉じられた書斎のドア。
聞こえる筈のない言葉をムッとしたように呟いて、火村は昼間聞いた小夜子の言葉を思い出していた。
『“前世とか運命とかって信じます? ってこうよ。ほんまに悪い宗教にでもハマったんかと思ったわ』
「・・・・・・・っ・・」
『悪い女にコロッと瞞されて、気付いたら婚姻届を出していたなんて事が・・』
思わず浮かんだ苦い表情。
そう、ただの揶揄だと判っていても顔を見ずには居られなかった。
『この前の事件・・・どないなった?』
有栖は判っていなかったかもしれないが火村はその瞳に中にどこか縋るような色が浮かんでいる事に気付いていた。
火村自身が思っていた以上に、先日のフィールドが有栖の中に何かを残していて、それが例の“前世”だとか“運命の恋人”だとかを呼び起こし、ついでに原稿の方にまで影響を及ぼしたのであろう。それは容易に想像がつく。
「・・・・・玉子とじだな」
言うが早いか鍋を火にかけてダシを取る。
米は炊いている筈がないので、早炊きにセットしてすぐにスイッチを入れた。
「・・・・・・・」
有栖に言った通り、火村は“運命 等と言うものは信じない。どうにでも使える都合のいい言葉だと思っている。
だからこそこの前の事件も『三文芝居』だと言ったのだ。
−−−−−−−運命だったの。
運命で全てが決まるのならば・・・。
−−−−−−−あの人と出会ったのは運命だったの。あの人と同じ道を行くのは決められた事なの。だから・・・
「・・・・・・・・」
とりあえず先に吸い物を作って、御飯が炊けてから玉子をとじればいい。
手際良くダシをとりわけて、残りの吸い物用のそれにフリージングをしていたホウレンソウを落とす。フワフワと元に戻る鮮やかな緑。
「多少芽が伸びてるがいいか」
取り出した玉ネギは玉子とじ用に切る。
30分足らずで、火村は少し貧しい卵どんぶりを完成させた。そうして、有栖が篭もった書斎のドアを叩く。
「おい、飯が出来たぞ。食える時に温めて食えよ」
けれど中からは何の反応もなかった。
「アリス?」
思わず寄せられた眉。
手を掛けたノブを回してゆっくりと押し開けると、椅子に腰掛けたまま、ワープロの前に突っ伏している身体が見えた。
瞬間、眉間の皴が更に深いものになる。
「・・・・・締め切りなんだろうが・・」
呆れたように呟いて火村は眠っているその後ろ姿に近づいた。規則正しく上下する背中。
起きる気配はない。つまりは熟睡だ。
「・・ったく・・いい身分だな・・」
ポツリとそう呟いて、火村はその寝顔を覗き込んだ。
意外に長い睫と、無防備な、どこか幼いその顔は学生時代からほとんど変わらない。
「・・・・おい」
触れた指の間からサラリと滑る柔らかな髪。
「・・・お前・・警戒心が無さ過ぎるぜ・・?」
ポツリと落ちた呟きに火村の耳に再び小夜子の言葉が甦った。
『あの子なぁ、先生と待ち合わせしてた時に誰かにキスされたんやて』
「・・・・・・っ・・」
らしくもなくチクリと痛む胸。
まさか覚えているとは思わなかったのだと火村は低く笑うと再びその髪にそっと触れた。
−−−−−−3回生の春。
気持ち良さそうな寝顔にこんな所で眠りこけてと、はじめは呆れ、次にジワリと後ろめたい、けれどひどく甘い誘惑が火村の中に押し寄せた。
今ならばきっと判らない。
有栖の寝汚さは下宿に止まりに来た時の経験でよく判っていた。近づいて、これだけ眺めていても目を覚まさないのだ。
おそらく夕べ遅くまで原稿でも書いていたのだろう。
有栖は熟睡をしている。
ちょっとやそっとの事では目を覚まさない。
そう・・・触れるだけならば・・・。
掠めるように触れた唇。
引かれるようにもう一度合わせた。
そうして、微かにに動いた気配に名残惜しげに唇を離して火村は背を向けて歩き出し、わずかな時間をおいて何事もなく彼の前に現れたのだ−−−−−−−。
『あの子が寝汚くボケボケしとるうちに逃げたんやわ』
「・・・同業者はすぐに謎が解けたのにな』
柔らかな感触が離せずに、そのまま有栖の髪を弄びながら火村はどこか自嘲的な色を泌ませてそう口にした。
「・・そろそろ起きろよ」
記憶が、状況が、あの時とオーバーラップする。
「人に飯を作らせておいて寝るか?普通」
有栖は起きない。
つけっ放しのワープロの画面。とりあえず入っているフロッピーにそれを保存してスイッチを切る。
それでも有栖は起きる気配すらない。
「ここまで熟睡出来るのも一種の才能だな、アリス」
あの時、触れただけの唇。
甦る切ないほどの陶酔感。
「・・・・っ・・」
こんな風に無防備に眠る有栖が悪いのだ。
その記憶を呼び起こしておきながら、こんな場面を作るのが悪い。
ずっとそばに居ながらこの思いに気付かない有栖が悪い。
「・・・・貞操の危機だぜ?先生」
髪に触れていた手をそっとそっと肩に置いた。
伝わってくるぬくもり。
近づけた顔に一瞬だけ走る、苦い何か。
「・・アリス」
そっと触れた唇。
あの時と変わらない重ねただけの口付け。
離れて・・・再び重ねる。
全てがあの時と同じだった。
けれど、唯一違った事は−−−−・・・。
「−−−−−−−−!」
唇を離したその瞬間、有栖の手が火村のシャツを掴み、その瞳を開いた事だった。
「・・・・・・火・村・・?」


有栖は眠っていた。眠ってはいけないと判っているのに眠ってしまった。
結局あの事件以来−−−締め切りが近い事も勿論あったのだが−−−まともに寝ていなかったのだ。まして煮詰まってしまったこの2日間は推して知るべしな状況だった。けれど、先程の馬鹿々々しいようなやりとりで何だか少しだけ出口が見えた気がした。
当り前の事だけれど、自分は運命で作家になった訳ではない。同じような事を小夜子からも聞いたけれど、その言葉がようやく自分の中に降りた。そんな感じだった。
それにプラスして、ドアを一枚隔てた所に火村が居てくれるという事実も妙な安心感に拍車をかけていた。
何だかんだと言いながら面倒見が良くて口の悪い友人は有栖にとって大きな存在なのだ。
何か声がして、カチャリとドアが開いたのが意識の端で判った。原稿をすると言いながら眠りこけてしまったのがバレてしまった。火村はきっと呆れて、叩き起こすか、怒鳴り起こすか、するだろう。
そこまで考えられるのに一向に身体の方は起きない。
近づいてくる気配。
立ち止まって、覗き込む。
(何だかあの時みたいや・・)
髪に触れてくる指を知覚しながら有栖はぼんやりとそんな事を思っていた。
何かを言っているけれど何を言っているのかは判らない。
耳が起きていないのだ。
目も、手も、声も・・身体はまだ起きていない。
(ほんまに・・よぉ似とる・・)
でも今度は誰なのか判っている。
髪で遊んでいるその指が誰の物なのか自分はちゃんと判っている。
多分もうすぐ「いい加減にしろ」と呆れたような声が聞こえてくる。今は髪に触れるその手がパシリと頭をぶってくるかもしれない。
そうしてきっと「起こしてやったんだ。感謝しろ」位は言うのだろう。
けれど、有栖の予想を裏切るように、その人の気配は一向に“起こす”という行動をとろうとはしなかった。
ジリジリと過ぎてゆく時間。
その時間の中で有栖は唐突に不安に襲われた。
もしかしたら・・そう、もしかしたらここは自分の書斎ではないのかもしれない。だから、そばにいるのも火村ではないのかもしれない。
(・・・・!!)
起きなければいけないと有栖は思った。
起きて、確かめなければならない。
あの時のようにならないように、早く・・今度こそ逃がさないように。
その途端気配がゆっくりと動き出した。
“夢 のように近づいて、そっとそっと触れた唇。
瞬間、掠めた吐息と微かに聞こえた声は誰のものなのか。
十年数年前に解けなかった謎が答えを出そうとしていた。
−−−−−運命だったの。
耳の奥に、もう何度も甦った声が聞こえた。
『前世の記憶とか・・・出会うべき運命の恋人とか・・そういうんかなとも思うたりして・・・』
小夜子に語った有栖自身の言葉。
だから、逃してはいけない。
−−−−−運命は自分で切り開くものだと思っています。
探偵が語った有栖の思い。
今度は、逃がさない!
“夢 と同じに2度触れて離れてゆくそれに有栖は手を伸ばした。
そして・・・・。
「・・・・・・火・村・・?」
開いた瞳に映ったその顔に有栖は茫然とその名を口にした。