接吻 5

ドクンドクンとこめかみの辺りで鼓動が響く。
名前を口にしたまま動けなくなってしまった有栖に、火村はやがて、固まってしまったようなその指を何事もなかったかのようにシャツから引き剥がした。
動き出す時間。
「・・・・・・何・・して・た?」
出てきた声はひどくかすれた声だった。
「何だと思う?」
「ふざけるな!」
「判っててきく方がどうかと思うけどな」
「・・じゃあ、質問を変える。何でこんな事したんや?」
僅かな沈黙。
“眠り姫はキスで起こすって決まっているだろう? 等とそれをチャカして、ごまかしてしまうような台詞が浮かんだが、結局火村はそれを口にはしなかった。
「したかったから」
「火村!?」
有栖の顔がどこか傷付いたような色を浮かべた。
信頼は築くのに時間がかかるが、それを壊すのは一瞬で出来ると言っていたのは誰だったか。
「あんまり気持ち良さそうに眠っているからしたくなった。それだけだ。悪かった」
台詞を読んでいるような火村の言葉に、次の瞬間有栖の瞳が見開かれた。
「じゃあ!・・あの時もそうだったんか!?」
ガタンと立ち上がった身体。
「あの時も君だったんか!?」
小夜子から話を聞いていなければ有栖が何を言っているのかすぐには判らなかっただろうと火村は思った。
思ったそばからそれを聞いていなければ、こんな事をしなかっただろうと、それどころか今日ここには居なかった筈だと思った。
しかし、これは現実で、今ここに自分は居て、有栖に気付かれてしまったのだ。
ただ一つ有栖が気付いていない事があるとすれば、それは火村の気持ちだけだった。
「ああ。そうだ」
「!!」
クシャリと、まるで子供が泣き出す寸前のように有栖の顔が歪んだ。
「・・・・君は・・君は寝てる人間にキスをする癖でもあ
るんか?」
何が言いたいのか。一瞬いぶかしげに眉を寄せた火村に有栖は言葉を繋ぐ。
「寝ている人間なら誰にでもキスをするんかって聞いとるんや!!」
「するわけないだろ」
「なら!ならなんで・・!何で・・キスしたんや・・」
論点がどこか微妙にずれていた事に有栖は気付いていなかった。そして火村も又、それに気付かないまま口を開く。
「・・したかったから。言った筈だ」
「じゃあ、何でしたかったんや!?」
「・・・・・・・」
「眠りこけとる人間に、誰かれ構わずするん訳やないんやろ?ならなんで・・あの時も、今も、したんや・・?」
又少し、ずれが大きくなる。
「・・アリス?」
今度のそれには流石に火村が気付いた。けれど有栖はまだ気付かない。
「・・・怒ってないのか?」
「!!これのどこが怒ってへん言うんや!!目一杯!これでもかっちゅうほど腹立てとるわ!大体“したいから なんて理由でキスされて怒らん人間が居たらお目にかかりたいわ!!」
「ちゃんとした理由があればいいのか?」
「・・・・あのなぁ・・」
ゼイゼイと息が上げる程上げた声に返ってきた言葉に思わず身体の力が抜ける。
けれど火村はそんな有栖をまっすぐに見つめたまま言葉を続けた。
「理由があればいいのか?アリス」
「・・火村?」
繰り返された言葉に有栖はようやく話が逸れ始めている事に気が付いた。
「何で、怒らないんだ?」
又一つ、繰り返された言葉。
「・・何言うて・・」
「今も、あの時も、キスをした。それが判ってどうして怒る前にその理由を気にするんだ?何故気持ちが悪いと思わない?自分に対してだけされた事だと確認するのは何故なんだ?」
「そ・・そんなん・・!・・言いがかりや!俺は・・」
再びドクンドクンと鼓動が響き出した。
そう、自分は友人だと思っていた男にキスをされたのだ。
これがもしも火村でなかったならば、絶対にこんな風にはしていない。けれどそれは火村との間に積み重ねてきた時間があったからだ。これが他の人間ならば・・・もう少し付き合いの浅い人間だったら・・・。
そこまで考えて有栖はハタと気付いた。
ではあの時、十数年前のあの時だったら自分は火村に殴りかかっていただろうか?なぜこんな事をするのかと、理由も何も聞かずに怒鳴って、怒ってもう二度と口も聞かずにそのまま別れてしまっただろうか?
火村が今、言っているのはそう言う事なのだ。
−−−−−運命だったの。
再びあの言葉が聞こえた。
−−−−−運命って、信じますか?
−−−−−それは自分で切り開くものだと思っています。
「・・・・・っ・・」
「無防備に眠っているから、腹が立った」
「・・火村?」
「そんな風に無防備でいられるのは、判っていない証拠だから」
「・・何・を・・?」
その答えを有栖はもう知っているような気がした。
声が震える。
身体中が心臓になってしまったかのように、鼓動が大きく・・早く、なる。
「お前が、好きだ」
「−−−−−−−!」
「ずっと、好きだった」
「・・・・・・・」
「だから、キスした。あの時も、今も」
「・・・・・何で逃げたんや?」
「失いたくなかったから」
「・・・・・っ・・」
 
 
 口付けを下さい
 この胸のもえるところへ
 
 
「小心者だろう?」
「・・アホ・・!そういう奴ははなからこないな事はせぇへん!」
 
 
 指先でたどって
 やさしさを下さい
 
 
有栖の言葉に火村は小さな笑いを漏らした。
それを見て有栖も笑い出す。
解けなかった謎。
絡まってしまった糸はどこかが解ければ必ず外れるものなのだ。
「純情一途ってヤツだな」
「・・・・それ以上口聞いたら殴る」
「ひどいな、先生。こっちは一世一代の大告白をしたってぇのに」
「やかましい!・・ほんまに・・!」
赤い顔で怒鳴ると小さく竦められた肩。
そうして次の瞬間、火村はそっと目の前の身体を抱き寄せた。
「ひ・火村!?」
「それで?」
「何がや?」
「ここまできてボケるなよ。答えは?」
「・・・・答えって・・」
「十年以上の純愛だ。けどな、お前がそのつもりなら俺はひかない」
「そのつもりって・・火村・!」
言いながら近づいてきた顔に有栖は慌てて腕の中でもがき出した。けれど、火村の腕は緩まない。
「・・・・・判れへんねんもん」
「判ってるだろ」
「!!俺の気持ちやぞ!」
「お前が鈍感だから気付かないだけだ。もう一度言ってやるからとっとと気付けよ。好きだ、アリス」
「−−−−−!!」
囁く言葉に胸の中に込み上げてくる何か。
それを感じながら有栖は、あまりにもふてぶてしい純愛もあったものだとひとりごちた。
「判ったか?」
「・・・・判るか、ボケ!」
トクントクンと重なる鼓動。それに泣きたいような切なさが込み上げてくるのはどうしてなのだろう?
「・・・アリス?」
「・・・何で・・」
ポツリとこぼれた言葉は自分でも信じられない程小さなものだった。
どうしていいのか有栖には判らなかった。
何をどうしたいのかも有栖は判らなかった。
そして、これからどうなってしまうのか。
これから起こる事で何が変わってしまうのか、有栖には何も判らなかった。
 
 
 悲しみにたどりついたら
 笑わないで下さい
 あなたを・・・
 
 
「・・・・好きだ」
「・・っ・・そんなん!・・言わんでももう判っとる!」
「じゃあ、何が判らないんだ?」
「・・・・・・・」
「教えてやるよ」
「・・・・・・」
「ひかない代わりにちゃんと教えてやる」
「・・・強引過ぎや・・」
 
 
 あなたを−−−−−−−−−愛しているんです
 
 
「・・・・うまく丸め込まれただけの気がする」
コトリと抱き締められたままの胸に額を寄せた。
「じゃあ、丸め込まれちまえよ」
耳もとに聞こえてきた少しだけ笑いを含んだような声にゆっくりと背中に手を回して。
 
 
 口付けを下さい
 この恋の
 もろいところへ
 
 
3度目の口付けに有栖はそっと目を閉じた。




「・・・・やっ・・嫌ゃっ・・火村ぁ・!」
肌を辿る指ときりもなく落ちる口付けに有栖は小さく首を横に振った。
けれど勿論火村がそれでその手を止める事はないのだ。
胸から脇腹にかけてゆっくりと肌を滑って降りてゆく手と首筋に、耳に、唇に、そして胸に、まるで有栖の気を散らすように口付けを落としては離れてゆく唇。
泣きたくなるような羞恥心と、切なさに有栖の瞳にジワリと涙が浮かんだ。
「・・・アリス・・?」
「・・こ・こんなん・・」
「するとは思わなかった、か?」
「・・っ・・そうや・!」
言いながらも火村の手は止まらない。
「今更だろう?第一ここまできて何もしないで帰れるか」
そう。今、自分たちはベッドの上で裸で向き合っているのだ。今更と言われればこれ程今更な状況はない。
まして自分は何も判らない少女ではない。
「せ・せやけど・・あ・・っ・・やぁ!・」
胸の突起に触れた指が押し潰すようそこを撫でた。
そうして次の瞬間、火村はそれにくちづける。
「ひ・むら!・・やめ・」
「やめない」
「あ・ああ・・」
片方を口で、もう片方を指で嬲れて、有栖の瞳から溜っていた涙が頬を伝って流れ落ちた。
ジワリと泌む見慣れた天井。
−−−好きだ、と火村は言った。
ずっと好きだったと・・・好きだからキスをしたのだと言った。
「ん・・やぁ・!・・」
それを聞いた時に込み上げた気持ちを何と呼べばいいのか有栖には今も判らない。
そしてこの行為が何をもたらすのかも、本当は判っていないのだと有栖は思った。その瞬間。
「い・・嫌や!!!」
胸から離れた手が熱くなっていたそこに触れて有栖は思わず声を上げてしまった。
赤い顔が更に赤く染まる。
起き上がりかけて止められた身体。
そして次の瞬間、火村はいっそ鮮やかな笑みを浮かべてその言葉をきっぱりと無視した。
「やぁっ!嫌や!・・火村・!!」
いきなり含まれた感覚に頭の中が白くなる。
ねっとりとする初めてのそれは感じるというよりも恐れの方が先に立つ。
「やめ・嫌・・ねがい・・・ああぁっ・」
気が触れてしまう、と有栖は思った。
グチャグチャとしていた思いが泥の中に沈み込んで何も考えられなくなってしまう。
「あ・・あ・・」
「達けよ・・」
「ん・・」
何を言われているのか判らない。そんな有栖に火村は小さく苦笑に似た笑みを零して口を外した。
「達っていいぜ、アリス」
「・・ふ・・あ・あ・」
耳を掠める囁きと舌の代わりに絡められた指。
「い・・っ・」
長い指が勃ち上がったそれを愛撫する。
上がる息。身体中に響く鼓動。
「アリス」
「や・あ・あ・」
「出していいよ」
「!!・・は・・ああぁぁ!」
声と同時に強くしごかれて、有栖は熱を吐き出した。
「・・良かっただろ?」
「!・アホ!!」
返した短い言葉にクスリと漏れ落ちた笑い声。
そうして次の瞬間、火村はひどく優しげな仕草で有栖の額に張りついた髪をかきあげた。
「・・火村?」
「お前が自分の気持ちをちゃんと判っていない事も、当り前だが、この行為に抵抗感がある事も判っているさ」
「・・・・・」
ゆっくりと髪を掬う指。
「俺は狡いな」
「火村」
「それでも・・・」
らしくもなく途切れた言葉。
そうして有栖は合わせた身体から火村の熱に気付いた。
ドクンと大きく鼓動が跳ねる。
好きだと・・・ずっと好きだったと。
キスをしておきながら、失いたくないから逃げてしまったのだとこの男は言ったのだ。
なんとらしくない事か・・・。
オズオズと背中に手を回すと驚いたように上げられた顔。
「アリス・・?」
「寝込みを襲ったんわ、俺だけなんやろ?」
「・・・・・・」
睨むようにそう言うと、当り前だというように答えはなかった。
「他の奴にしてたら許さへんからな」
「・・・・・・」
何を言っているのか、もう目の前の男は判っているに違いない。だから・・。
「そういう事や!ボケ!!は・・腹に当ってるもんをどうにかしろ!」
見慣れた笑みが目の前に広がった。
一瞬だけ脳裏をよぎった“同情 という文字。
が、瞬時にそんな事でこんな事が出来るかと打ち消した。
「アリス・・」
触れただけの口付けはすぐに熱いものに変わる。
もう、覚えてしまった抱擁。
舌を絡めて、吐息を分け合う。
「火村・・火村・・」
抱き締めている身体は、抱き締めてくるこの腕は、確かにその名前の男のものなのだ。
「アリス・・」
返ってくる名前を呼ぶ声。
そして抱え上げられた足に、一瞬浮かんだ恐れを打ち消すように落ちてきた口付けを受け止めて。
「や・・あ・・あっ・・い・あああぁぁぁっ!!」
身体を突き抜ける想像以上の痛みに抱きついた背中にしがみつきながら有栖はポロポロと涙を落とした。
−−−−−−運命だったの。
「・い・たい・・い・・ぁ・い・・」
−−−−−−運命って、信じますか?
「・・・っく・・う・・」
それは確かに自分で切り開くものだと思った。
けれど、多分そんな風に呼べるものもあるのではないかとも思った。
あっても・・いいと思った。
ただ、それはきっかけの一つにすぎないのだと判っていさえすれば・・。
「・・・・いいか?」
何を問われているのか、判らない筈がない。
火村は男で、有栖も男なのだ。
一つになった部分が熱い。
熱くて・・・切ない。
「・・うん・・ええよ・・」
答えと同時に目もとに落とされたくちづけにもう一度背中に回した手に力を入れて。
「あ・ああっ・・い・・ああ・・!」
ガグガクと揺さぶられる身体に止まっていた涙が再び有栖の瞳に溢れ出した。