迷宮 〜ラビリンス〜 1

  

 時間の流れる速度が“外 とは違っているのだからそんな事は判らなくて当然なのだ。
「・・もうすぐ」
 声がジワリと響いた。
「もうすぐだから・・」
 優しくて、悲しくて、どこか狂気を孕んだ声は何かの呪文の様に繰り返す。
「もうすぐ・・」−−−−−−−−−−−・・・・

『海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは−−−−浪ばかり・・・・』
−−−中原中也『在りし日の歌』−−−



「ほらアリス見てみぃ!港やで、港!!」
 弾んだその声に顔を上げると言葉の通りに港を中心に広がる町並みが視界に飛び込む。
 青い空に刷毛で掃いたように浮かぶ白い雲。
 港町と温泉町の二つの顔を合わせ持つその街は、後方に深い緑と春先らしい柔らかな芽吹き色のグラデーションに彩られた山々を連ならせて素晴らしい景観を見せる。
 更に北方に視線をずらすと富士山まで拝めるという絶景は普通の状態であれば、そう・・・ここが陸地であれば間違いなく感
嘆の声を上げているだろう。だがしかし、口から出てきたのは感嘆の・・とはお世辞にも言えない、呻きに近い声だった。
「・・・早う・・着いてくれぇ・・」
「・・この風景にそうくるか・・」
 呆れたような溜め息混じりの声がムカつく胸に痛い。
「・・せやから船は嫌やて言うたやないですかぁ・・」
「船なら45分。鉄道とバスを使うたら約半日。選択の余地はなしや。記念に一枚撮っとくか?海上ゾンビ、アリス」
「・・・・・遠慮さして下さい」
 微かに上げていた頭を再び手摺りに懐かせて僕は深い深い溜め息をついた。
 ここで一応自己紹介をしておく。
 目の前の港に思わず縋る様な情け無い声を上げた僕−−かなり自棄−−は『アリス』こと有栖川有栖。京都にある英都大学法学部の1回生。ちなみにこの名前は本名で、性別は男である。
 そして港を指差し、溜め息混じりの言葉を送ってくれたのは経済学部2回生の『信長』こと織田光次郎。その隣で時間的な事
をあげ論理的に“無駄 を説明をしてくれたのが織田と同学部同期の『モチ』こと望月周平で・・・。
「ヤバそうやったら中に戻るか?」
 再び俯いてしまった僕に、長い髪を風になぶらせつつ振り返ったのは文学部哲学科4回生で7つ年上の『江神さん』こと江神
二郎。
「江神さん、子供は甘やかしたらロクな大人になりませんよ」
 望月の言葉に江神さんがクスリと微笑う。
 誰が子供なんだ・・誰が・・。
「ふ・船だけなんです!・・あとの乗り物は・・」
 思わず力ない反論を試みた僕の肩を叩く大きな手。
「判ったから、もうキャビンの方に行け」
「・・・はい」
 優しいけれどどこか有無を言わせぬその言葉にうなだれる様にして返事を返して僕は蒼を通り越して白くなった顔のままゆっくりと歩き出した。その途端。
「アリス、吐くならトイレまで我慢しろよ」
「ここでデッキ掃除をする気はないぞ」
 経済学部コンビの容赦のない言葉が背中を打つ。
「・・・・僕かてしたくないですよ」
 最後の意地でそれだけを言い返してキャビンへの僅かな階段を慎重に降りる。そうして最後の一段を降りた瞬間、僕は人の気配にふと後ろを振り返った。
「・・・江神さん・・?平気ですから外見てて下さい」
「 うん?・・ああ・・煙草が吸いたくなったんや。デッキは禁煙やったからな。それよりアリス、トイレは向こうやぞ?」
 言いながらトントンと階段を降りてきた江神さんは言葉の通りに階段脇の壁に凭れるとカサリと胸ポケットから愛用の煙草を
取り出した。それを見つめながら僕はキャビンの入口の−−つまり目の前の−−硬いベンチに腰を下ろす。
 口に銜えた煙草にカチリとつけられた火。
 ついでゆっくりと吐き出される白い煙。
「・・・アリス?」
 何も言わなくなった僕に江神さんが小さく眉を寄せて顔を向けた。それに慌てて口を開いて。
「あ・・・あと5分かそこいらですよね?座っていればなんとか・・大丈夫です」
「そうか?」
 “それならいいけど”と言葉を繋げて江神さんは再びゆっくりと白い煙を吐き出した。
 ひどく見慣れた、なぜか安心出来る光景。
 再び訪れた沈黙の中、響いて重なるエンジン音と波の音に僕はここが旅先なのだという思いを改めて噛み締めていた。
 そう・・・4人で来た2度目の旅行。
 そのきっかけは2週間程前に遡る−−−−−−−−−・・・

********


「旅行・・ですか?」
「そう、旅行」
 すでにお馴染みの学生会館の2階。定位置に当るラウンジの端のテーブルで少しぬるくなったコーヒーをすすりながら僕は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
 それににっこりと張りつける様な笑みを浮かべてその話を持ってきた張本人はメタルフレームの眼鏡を少しだけ押し上げる。その横には小さく眉を寄せた織田。その前−−−つまり僕の右横−−−には表情を変えない江神さん。
 “推理小説が三度の飯よりも好き”という奇特な人間の集まりである推理小説研究会。僕らはその一員である。もっともその
中の4人、というわけではない。4人でフルメンバーなのだ。
 話を戻す。
「なんでいきなり旅行なんや?」
「せやから、来年度の部員確保における傾向と対策について合宿を組んで話し合おうと」
「・・・・合宿なんか組まんでもこれだけしか居らんのやから
 いつだって、どこだって話は出来るやないか」
 それはそれで情け無い話だがまさにその通りなので僕は織田の言葉にコクリとうなづいた。その途端望月がチッチッチッと人差指を揺らす。
「場所が変われば意見も変わる。画期的な改革が必要なんや」
「改革ねぇ・・・」
 溜め息混じりにそう言って織田は目の前の紙コップに手を伸ばすと、次の瞬間空になっていた事に気付いてグシャリとそれを握り潰した。
「けど・・あと2週間足らずやろ?ここんとこ試験やレポートでバイトもよう入れられんかったから先立つものがな・・」
 手の中で哀れな形になったコップを玩びながらの言葉はまさに僕の心の声だった。
 旅行は好きだ。色々な土地に行って色々なものを見たり、聞いたりするのはどこかミステリーめいた楽しささえ感じる。
 だがしかし、悲しいかな、それは懐が寒いとお話にもならないというのが現実で・・・。
「せめて近場・・・せめて1泊なら・・・」
 苦し粉れの僕の言葉に望月はしてやったりという様ににんまりと笑った。
「行きの交通費は後払い可能や。しかも宿はペンション。温泉有り。2泊3日で朝食・夕食付きの税込み8千円!」
「8千円!?」
 まるでテレビ通販の様な台詞に思わずガタンと椅子を鳴らして立ち上がってしまった僕を見て、望月は“落ち着け”という様
に両手を小さく動かすとコホンと咳払いをした。そして。
「行く気になってきたやろ?」
「・・・それって本当は1泊の値段だとか、もしくはやばい所とか・・」
「・・・アリス・・慎重なんも一歩間違うとただの深いの疑り深いヤツにしかならんぞ」
「せやって・・・」
 あまりにもうますぎる話やないですか。
 その僕の言葉にならなかった言葉を代弁するかの様に今まで沈黙を守り続けていた我等が部長江神さんが吸っていたキャビンを灰皿に押しつけて静かに口を開いた。
「どういう事や、モチ」
「実はですね・・」
 江神さんの一声に望月はようやく事のあらましを話し出した。
 つまりはこういう事である。
 望月の友人I君(仮名)はこの春休み、出来たばかりの彼女と旅行の計画を立てていた。が、しかし、いきなり二人で旅行と
いうのも何となくバレバレのミエミエで同じく彼女持ちの友人を誘い、4人で行くという事になったのだ。
 折よくとある雑誌に載った新しいペンションの記事。
 申し込んだら首尾良く取れて、これはもう神様のご加護があるに違いない!という程予定はスムーズだった。が・・最後の最
後で落とし穴があった。
 つまり・・・・・・・そういう事である。
 更に傷心のI君に追い打ちをかけたのは一緒に行く予定だった
 友人が4人分の交通費をかぶるのは御免だと言った事で。
 もっともそのカップルも暗雲立ち込めて旅行どころの騒ぎではないらしいのだが・・・・。
「そいつ一緒に付き合って貰う条件で行きの交通費は負担してんですよ。要するに4人分。しかもキャンセルの利かんヤツ。
勿論傷心旅行と称して一人で行く気もない。したがってこのままやと4人分の交通費はパァ。更にペンションのキャンセル料
を、まぁ・・こっちはさすがにその友人が半額出すらしいんですけどね、でもいくらかは払う事になってまさに踏んだり蹴ったりな状態で・・・」
「・・・悲惨やなー・・」
 シミジミとした織田の言葉に望月は「そやろ?」とウンウンとうなづいた。
「そこで人助けも兼ねて、旅行に行かんかという訳や」
「それは判りました、でもそんなに安いのは?」
「実はそこのペンション実質の営業は夏からなんや。要するにモニター。で、1泊分の料金で2泊泊まらせて貰えると」
 −−−−−納得。
「早春の海。センチメンタルな気分も味わえるぞ」
「・・なんて似合わん言葉や・・」
 ハードボイルドをこよなく愛する織田の嫌そうな言葉に望月が「お前だけには言われとうない!」と反論する。
 そうして2週間。にわかバイトに明け暮れた末、僕らは船の上にいた−−−−−−・・・。

********


「アリス?やっぱりあかんか?」
 ぼんやりと記憶の海を漂っていた僕に江神さんのどこか心配そうな声が聞こえてきた。
「・・え・・?」
「気分・・悪いんやろ?」
「あ・・はい。いえ・・・平気です」
 言われてその事を思い出す。ボンヤリと江神さんを見つめながらそんなに深く自分の意識の中に沈んでいたのかと半ば呆れて半ば気恥ずかしくて僕は小さく俯いてしまった。
 再び耳を打つ、ザザンという波の音。
「・・・・・・どうせなら二人で来たかったな」
「・・え・・?」
 デッキに上がる階段脇のキャビンの入口に近い壁に凭れかかったままのその言葉は小さいけれどしっかりと僕の耳に届いた。
 トクンと鳴った鼓動。
 初めて江神さんと旅行をしたのは−−−勿論、今回同様4人でだが−−−去年の夏。
 そしてその年の冬、僕たちの間には大きな・・、大きな変化があった。
「あ・・あの・・」
 カーッと熱くなる頬に、慌てて視線を上げると次の瞬間目の前でニヤリとおかしそうに笑う唇が見えた。
「!か・・からかいましたね!」
「本音が出ただけや」
「江神さん!!」
 クスクスと笑い声が漏れる。
 キャビンの中はまばらとは言え他にも人間が居るのだ。それなのにそんな事を言うなんて!
「江神さん、そろそろ着きますよ。あれ?アリス良うなったんか?良かったなぁ」
 デッキの方から顔を覗かせて到着を告げる織田の言葉。
 その他意のない言葉に赤みのさした顔をフイと横に向けながら僕はまだクスクスと笑う彼を小さく小さく睨みつけた。


こうして高速船『コバルトアロー』は無事、土肥港に入港した。


学生編の2本目の事件物の長編でした。もっとも2段うちで60ページもの話を書いたのはこれが生まれて初めてでして、ある意味初の長編と言う事になると思います。
旅行の話だったからちょうどいいやと思ったら、早春に旅行をさせていたんだったと愕然。
はははは・・・。