迷宮 〜ラビリンス〜 2

 四季を通じて温暖な伊豆半島は古くから避暑・避寒の保養地とされてきた。
 熱海などのある東伊豆に比べ温泉の少ない西伊豆の中で最大の湯量を誇る土肥は“肥える土”の字の如くかつては金山で栄えた町だ。
 現在はその気候を生かしてカーネーション栽培等が盛んに行われ、駿河湾に沈む夕日の景観と共に観光の一つとなっている。
 その土肥から目的地のペンションは更に南に20分強。
 『土肥温泉』よりもその隣にある『宇久須温泉』に近い場所にあるらしい。
「えーっと・・・松崎行き・と・・」
 言いながら望月がバス停の時刻表に指を辿らせる。けれどそれは途中で不自然にピタリと止まり、やがてクルリと身体ごと向き直ってしまう。
「このままいきなり宿に向かう言うのも芸がないし、この辺りを散策してから行きませんか?」
 ようするにいい時間がないわけだ。
「この辺りって何があるんや?」
 ディバックを片手に織田が口を開く。
「知らん」
「あのなぁ!」
「えっと・・ちょっと待って下さい。金山の坑内が見学出来るのと・・後はそれの手掘り体験が出来る所と・・源泉の見学と参拝・・それから島木赤彦や若山牧水の歌碑のある松原公園。ああ、でもここは夕暮れ時がええって・・」
「・・マメな奴やなぁ・・・」
 ガサガサとガイドブックを取り出して説明を始めた僕に織田が驚きと呆れとを混ぜ合わせた様な声を上げた。
「せやってモチさんが下調べしておけって言うたんですもん」
 少しだけムッとして僕はチラリと横を見た。
「適材適所。素直はええ事や」
 それに小さくうなづいて望月はポンポンと僕の肩を叩く。
 何だか釈然としない。
「金山に、源泉に、公園・・か」
 あまり気乗りのしない様子でポリポリと頭を掻きながら織田が復唱する。でも、それは別に僕のせいではない。
「部長、どないします?」
 全ての采配は江神さんに。
 望月の言葉に6つの瞳が一斉に向けられた。
「・・うーん・・俺としてはその前に腹ごしらえをしたいんや
けどな。どこかあるか?アリス」
 言いながら小さく揺れた長い髪。
「はい、えっと・・この先に獲れたての魚を料理する定食屋があるそうですけど」
「決まりや!行きましょ!!アリスえらいぞ!」
 いきなり上機嫌になって織田がバックを掛け直す。それにクスリと笑って江神さんが口を開く。
「という事や。ほんなら行こか?」
「はい!!」
 勿論異議などある筈がない。
 早春の伊豆半島。
 相変わらずの経済学部コンビの漫才めいたやりとりと、どこに居ても変わらぬ江神さん。
 そして実は少し浮かれている僕。
 新鮮な魚介類に誘われてワイワイと歩き出しながら、僕たちは降って湧いた様なこの“来年度の部員確保における傾向と対策”についての合宿 という名目の旅を楽しみ始めていた。  そして、この後−−−−−−−。
 いささか楽しみ過ぎたかもしれないと思う僕たちが宿泊予定のペンション『カノープス』に辿り着いたのは辺りがすっかり宵闇に包まれたような時間だった。


「遠い所をようこそいらっしゃいました」
 40を少し過ぎたところだろうか。目元に柔らかな笑みを浮かべた男はペコリとお辞儀をしながらポーチから玄関ホールに僕たちを招き入れた。
「急な変更で申し訳ありません。お世話になります」
 ソツのない江神さんの言葉に「よろしくお願いします」と続けてその他3名もペコリと頭を下げる。
 それに男はもう一度優しげな微笑みを浮かべた。
「当ペンションオーナー兼従業員の石原です。お聞きとは思いますがまだ試作段階という状態ですので忌憚ないご意見をお聞かせ願えればと思います。こちらこそよろしくお願いします」
 言いながら男は「まずお部屋の方にご案内します」と促す様に歩き始める。
「京都からですと沼津に出られてですか?」
「ええ、約1名反対者も居たんですが高速船で土肥まで」
「それが一番無難線ですね。それでは土肥の方の観光を?」
「してきました」
 少し広めの玄関ホールから向かってすぐ左手にある階段。その脇にあるドアがどうやらリビングというか広間にあたる部分に絡がるものらしい。それを横目で眺めつつ、僕たちは電車ごっこの様に1列に並んで2階に上がった。
「どちらに行かれたんですか?」
「えーっと・・“まぶ湯 という源泉と、金山の手掘り体験と歌碑のある・・」
「松原公園ですか!?」
 2階に上がりきった所はカギの字の廊下になっていて左右に部屋のドアが見えた。
 その廊下に立って望月の言葉を聞いた途端、石原は驚いた様に目を見張った。
「随分回られましたねぇ」
 ・・・それはそうでしょうとも。
 やるからには徹底的にという我部のモットー(いつからだ?)も理解は出来るし、昔から“旅は恥のかき捨て”とも言う。
 けれど何をするにも、どうするにも、ものには限度というものがあるのだ。
 始めは渋っていたにも関わらず「ここまできたら全部クリアーしたる!」等と訳の判らない闘争心に燃えた先輩方のお陰で初日の日程は“歩け歩け大会”の様相を呈してしまった。
 その上・・・。
「色々下調べしてきた後輩の苦労を報わなあかんとちょっと欲張り過ぎてしまって」
 いきなり聞こえてきたその台詞に僕は思わず口を開いていた。
「!!!ちょ・ちょっとモチさん。何で僕にフルんです!?」
「せやってアリスが行きたいと思うて調べてきたんやろ?」
「僕はガイドブックを買うて持ってきただけです」
「あんなぁ、アリス。何もそうムキになる事ないやろ?」
「なります!大体“まぶ湯”でいい気になって地蔵にお湯をかけまくったり、金山の案内の人に食ってかかって問い詰めて勝ったとか言うて、しまいに公園で歌碑朗読してウンチク垂れて
それで僕の為とか言われても納得いきません!」
 そう・・・事もあろうにこの先輩方は、今は入浴が出来ない代わりに側に奉ってある地蔵に湯をかけて参拝をする“まぶ湯”でお湯をかけ合うという暴挙−−勿論、他の観光客は居なかった−−から始まり、次第にテンションを上げながら、今挙げた事を次々に実行したのだ。
「アリス・・お前先輩に対して何ちゅう態度を」
「事実は事実です」
「アリス」
 ピタリと言い切った途端、江神さんの制する様な声が聞こえてきた。そうだった。ここには僕たちの他に人が居たのだ。
「・・すみません」
 言いながらチラリと視線をずらすと少しだけ驚いている様なオーナー氏の顔が見えた。来た早々印象を悪くしてしまったとしたらどうしよう。
「モチたちもや。ったく、面白がってからかってるんやない。すみません、喧しい奴等で」
 全てをまとめる様な江神さんの言葉に次の瞬間石原はクスリと笑って口を開いた。
「いえいえ、若い方々のエネルギーは大いに刺激になります。楽しいお話も聞けましたしね。後で金山の名物案内人をどうやって言い負かしたのかぜひ聞かせて下さい」
 少しだけ茶目っ気を含んだ言葉が有り難い。僕は思わず息を吐いて肩の力を抜いた。それに合わせた様に右手の部屋のドアが開かれる。
「こちらと隣の部屋をお使い下さい」
 開いたドアには“太陽”をデフォルメしたマークのついたプレートがついていた。
 その隣は三日月のマーク。
「恐縮ですがすぐに夕食になりますので1階の広間の方にお越し願えますか?本来でしたらお好きな時間に召し上がって頂くところですが、初めてのお客様ですので異例ですがご挨拶をさせて頂きたいと思います」
 少し照れた様な笑みを浮かべながら小さく頭を下げる石原氏に、先ほどの事もあって僕は好印象を抱いていた。旅の中、宿の善し悪しは大きなポイントだ。ここならば気兼ねなく過ごせそうである。
「判りました」
 差し出された三日月マークの鍵を受け取って江神さんが答えると石原はゆっくりと階段を降りていった。
「さてと、ほんなら荷物を置いて下に行きましょうか」
「そやな」
 望月の言葉に息をつく様に答えて織田がバッグを抱え直す。
 アミダやジャンケンで決める事なく、何となく自然に望月と織田、江神さんと僕に分かれて部屋に入る。
「着替えますかー?」
「いや、すぐに行かな悪いやろ。多少の汗臭さはこの際勘弁してもらおう」
 ドアを開け放したまま隣の部屋とのやりとり。
 それを聞きながら僕はグルリと部屋の中を見回した。
 そこは落ち着いた山小屋のような雰囲気のある、けれど遥かに洒落た印象の空間だった。
屋根の傾斜を使った斜めの空間。そこに少し張り出した様に切り取られた明かり取りの小窓がいい。
 明るい色調の、木目の生かされた部屋。
 海に向いているのだろう大きめの窓は今は小綺麗なカーテンに閉ざされている。
「アリス、行くぞ」
「あ・はい」
 すでにドアの所にいる江神さんに慌てて部屋を出て、僕はそのままパタパタと左手の廊下に向かって歩き出した。
「アリス?」
「・・・“花”と“鳥”か・・」
 左の廊下は向かって右側にしか客室がなく、ドアの所には“花”と“鳥”のマークが入ったプレートがつけられていた。
「どうした?」
 続く様に部屋を出てきた経済学部コンビが前方の廊下を戻ってくる僕を見て少しだけ不思議そうな顔をした。
「いえ、モチさん達の所が“太陽 で僕たちの所が“三日月”やったでしょ?せやから他の部屋は何かなぁって」
「で?」
 尋ねてきたのは望月。
「花と鳥でした」
「ふーん」
 バタンとドアを閉じて織田が小さく声を出す。
「何となく“星”かなって思うたんですけどね」
 誰ともなしに呟いたその言葉に階段を下りかけていた江神さんが立ち止まってクルリと振り返った。
「“星”はこの建物や」
「えっ?」
「何やアリス、知らんかったんか?“カノープス”はりゅうこつ座の一等星。大きな帆船の形をした星座の一部で、南に行かんと見られん星や」


はい、第二話です。実は何でもない感じの台詞ですが、このラストの江神さんの台詞って結構好きなんですよ。