迷宮 〜ラビリンス〜 3

「改めまして、本日はペンション『カノープス』へようこそいらっしゃいました。ご存じとは思いますが本格的な営業は夏からの予定です。こうして試作の段階でお泊まり戴くというのは心苦しい面もあるのですが、皆様のご意見を参考に良いペンションを作りたいと思いますので宜しくお願い致します」
 広間に下りて来た途端「まずはお食事を」という言葉で始まった晩餐。
 テーブルの上の料理が粗方なくなり、食後のコーヒーが配られた後で、石原はペコリと頭を下げてそう切り出した。
 吹き抜けの解放感のある広間に置かれたテーブルは4つ。
 2人用のそれを宿泊客のグループの人数によって組み合わせて置くらしい。すなわち今日は僕たちを含めて4グループの客がここに居るわけだ。
 パチパチという拍手の音にもう一度ペコリと頭を下げ、石原は人の好い笑みを浮かべて再び口を開いた。
「えーそれでは、誠に恐縮ですが、皆さまは2泊3日の時間を一緒に過ごし戴くだけでなく、判定を下して戴く仲間でもありますので、本来ならばこんな所で自己紹介等はないと思うのですが、これも旅の余興の一つという事で簡単にお願い出来ますでしょうか?」
 その言葉に斜め後方のテーブルから「やだ、どうしよう!」等という少し華やいだような歓声めいた声が上がった。
 女性ばかりの3人グループだ。
 それを聞きながら石原はにっこりと笑う。
「それでは僭越ですが、言いだしっぺという事で私から。石原伸之と言います。オーナーから会計、掃除、料理補佐と何でもこなしております。どうぞ宜しくお願いします」
 やや儀礼めいた拍手の後「では次に」と石原は後方に手を振った。するとキッチンらしいスペースからノッポの男がひょっこりと顔を出した。
「カノープスのコック長です」
 その紹介に男はパッと破顔する。
「またコック長なんて・・。ようこそいらっしゃいました。通い賄い夫の佐々木和也です。何かありましたら遠慮なくおっしゃって下さい」
 石原よりも少し年上だろうか。頭を掻いて照れる姿が少しだけ幼児向け番組の進行役を彷彿させる。
「それでは従業員は以上ですので次はゲストの方々に。レディファーストでよろしいですか?」
 その言葉に再び上がる明るい声。
 やがてカタンと小さく椅子を引く音がした。
「こういうレディーファーストはあまり有り難くないのですが・・・えーっと・・東京から来ました。藤本直子です。OLをしています。よろしくお願いします」
 ショートカットの少し気の強そうな顔がにっこりと笑って小さく頭を下げた。湧き上がる小さな拍手。次いで目線で促されつつ隣に座っていた女が少しだけ顔を赤くして席を立った。
「同じく東京でOLをしています、堤佐絵子です。宜しくお願いします」
 緩いパーマのかかったセミロングの髪が肩口でフワリと揺れる
「堤さんと同じ会社で仕事をしています。伊豆は初めてなので楽しみにしていました。生方恵美です」
 間を開けずに立ち上がった3人グループ最後の一人はキュッと結んだポニーテールと大きな瞳が印象的だった。
「有難うございました。では次に・・お願い出来ますか?」
 微笑みながらそう言って石原が視線を向けたのは夫婦・・だろう、50にさしかかる様な二人のテーブルだった。
 かけられた言葉に少し照れた様にして白髪混じりの男が立ち上がる。
「若い方ばかりで恐縮です。埼玉の方から参りました、長内隆と妻の真知子です宜しくお願い致します」
 夫の言葉に向かい側でペコリと頭を下げた少しふくよかな顔が何だか京都の有名な某菓子屋の店先に置かれている人形を連想させて僕は思わず小さく俯いてしまった。それに目の前に座っていた織田が不思議そうな顔をした。
「では、次は・・お願いします」
 視線と声がむけられたのは僕たちのテーブルだった。
 何となくそれだけで緊張をして思わず姿勢を正してしまった自分が少しだけおかしい。
 カタンと先頭を切って立ち上がったのは勿論部長・江神さん。
「京都の某私立大で某文化系サークルに所属しています。“新年度の新入部員獲得の傾向と対策を練る合宿”という名目でやってきました。江神・・二郎です。よろしくお願いします」
 一瞬考えるように名字と名前の間を空けたのは続く後輩への配慮だろうか。ペコリと頭を下げて座った江神さんに続いて望月が立ち上がった。
「同じく某私大・某サークルの望月周平です」
「右に同じの織田光次郎です」
 あまりにも簡単な紹介にならって僕はカタンと立ち上がった。
「一番後輩の有栖川・・」
 チラリと視線を向けると3人が3人とも同じような顔をしていた。完全に面白がっている。やっぱり名前まで言わなきゃならないのだろうか。
「・・・有栖です。よろしくお願いします」
 言った途端そこに居た全員が“えっ?”という顔をした。
 ・・・・ああ、久しぶりだこの感覚。
「・・・有栖川有栖さんですか?」
 言い直さないでほしいと切に思ってしまったのは僕にしてみれば当然の事だが、聞き返したくなるその気持ちも良く分かる。
「はい、名前は判りやすいに限るというのが父親の信条で」
「確かに」
 僕の言葉に石原は短く、けれどはっきりそう言ってにっこりと笑った。そうしてそのまま次のテーブルに話題を向ける。
 最後のテーブルは30前後の男と20代前半の男の二人連れだった。はじめに年上らしい男が立ち上がる。
「東京の某出版社で編集の仕事をしています。飯塚修一です。実は石原さんのモニター募集記事を載せたのがうちの社の雑誌でして。僕はそれとは違う雑誌の編集をしているんですが休暇を兼ねて応募したんです。キャッチフレーズ入りでね。“当方雑誌編集者。有給を使って取材を兼ねたし”勿論この記事が正式に掲載になれば有給は取り消しにしてもらうつもりですが。『脱サラ・ペンション成功者』の鍵を握っているのは我々モニターですので、皆さん大いに言いたい事を言いましょう。宜しくお願いします」
 ペラペラと喋りたいだけ喋ってストンと椅子に腰掛けた男に僕は思わず茫然としてしまった。雑誌の編集者というのはこんなものなのだろうか。
 照れたような笑みを浮かべて石原は小さく口を開いた。
「何だか飯塚さんに全てまとめてもらった感じになりましたがその通りですので宜しくお願いします。では最後に・・」
 小さく会釈をされて飯塚の向かい側に座っていた男が腰を上げた。
「フリーのカメラマンをしています。前島公則です。飯塚さんに声をかけられて同行しました。この辺りは出身地にも近いので愛着もあります。ぜひ成功していただきたいと思います」
 幾分ぶっきら棒に頭を下げて腰を降ろした男を見て石原は再び口を開いた。
「有難うございました。という事で繰り返しになりますが、忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。では次に簡単にペンション内の説明を・・・」
 話はそのまま風呂の場所や使用可能な時間、非常口についてと、明日の朝食についてに移っていった。それを頭の端で聞きながら僕はもう一度広間の中を見回した。
OL3人組と熟年・・にはちょっと早いかの夫婦と雑誌記者とカメラマンの二人組に大学生の僕たち4人。
 中々バラエティ豊かな面々である。
 一通りの説明が終わり、一応その場はお開きとなったのだが広間はそのままなし崩し的に自由交流の場になった。
 食器が下げられて綺麗になったテーブルをさっさと組み替えて話し出した雑誌編集者たちとOLたちのグループ。
「京都はどちらの方ですか?」という声に長内夫妻と話を始めた江神さん。
 そして先ほどの約束通り(?)石原と話し出した望月たち。
 何となくその場で望月たちの話を聞いていた僕の耳にいきなり調子のいい声が飛び込んできた。
「でもオーナー、これだとちょっと男女比が片寄っていますよねぇ」
 突然の話題にそれぞれの会話がピタリと止まった。
「ああ・・それは・・」
 少し困ったような声で口を開いた石原に珍しく江神さんが口を
挟んだ。
「うちが土壇場でメンバー交替があったんです」
「へぇ・・彼女にふられたとか?」
 ニヤニヤと笑ってのその言葉に今度はにこやかに望月が口を開いた。
「よぉ、判りましたねぇ。ただし俺等やなくて友人ですけど。生憎センチメンタルジャーニーをする趣味は無かったようで」
「はは・・じゃあ君等は借り出されたわけか」
 馴れ馴れしいのか、ただ単に詮索好きなのか、それとも他に思う事があるのか・・いずれにしろ先ほどの自己紹介から僕はどうもこの男に好感が持てない。
 その僕の気持ちを読んだ様に飯塚はいきなり話の矛先をこちらに向けてきた。
「有栖川君だったっけ。今君の話題も出てたんだけど本当に珍しい名前だよね。お父さんって芸術家かなんか?」
「・・・・・・至って普通のサラリーマンです」
「ふーん・・ルイス・キャロルのファンなのかな。不思議の国や鏡の国ならぬ、今回は海の国のアリス君かな」
 そんなんあるかボケ!と言いたい口をヒクつかせながら抑えつつ「さぁ?」と首をかしげた僕に男は図に乗って言葉を繋ぐ。
「とすると登場するのはウサギや猫の代わりに人魚にサメってとこか」
「あら、人魚なんて可愛いじゃない」
(どこがじゃい!!)
 楽しそうな藤本の声に胸の中で毒づいた僕を見て流石の経済学部コンビが助け船を漕ぎ出し始めた。
「まぁ“アリス”が男やったら可愛らしい人魚姫位ご登場願わんと話ならへんな」
「でもそれで“アリス”と人魚姫が手に手を取ってハッピーエンドやったら面白ろないで」
「・・・確かに」
 小さく吹き出す様なカメラマン氏の台詞に飯塚は「ホントだ」とヒョイと肩を竦めた。
 どこかホッとした様に漏れ落ちる笑い声。
「さて・・ではご自慢の温泉でも入るとしますか」
 言いながら腰を上げたのは長内だった。それに習う様に長内夫人も立ち上がる。
「あたしたちもそうしよう」
 藤本の声に堤もゆっくりと立ち上がる。
「あたしもう少しここに居る」
 そう言ってチラリとカメラマンの前島を見たのは生方恵美だ。
 まぁ・・色々ともうすでに思惑があるらしい。
「じゃあ俺は長内さんと風呂をご一緒させて貰おうかな。いいですか?」
 飯塚の言葉に長内がにっこりと笑った。
「どうぞどうぞ。構いませんよ。色々お話を聞かせて下さい」
「江神君たちは?」
 気安く投げられた問いかけ。一体この男は何なのだろう?思わず硬くなった僕の表情に江神さんがゆっくりと口を開く。
「“名目”がありますので。一度部屋に戻って『会議』をしようかと思います」
「名案が浮かぶ事を祈っていますよ」
 笑いながらの穏やかな石原の言葉に部長は「ありがとうございます」と微笑み返して立ち上がった。それに習って僕たちも静かに席を立つ。
「少し早いですが、お休みなさい」
 長内氏の声が背中にかかった。
「お休みなさい」
 ドアに手を掛けたまま振り返ってペコリと頭を下げる。
 階段を上がって、手渡された鍵で『月』の部屋を開けて・・。
 そして僕たちは先制カウンターパンチよろしく、「そしたら明日はどないする?」といういきなりの織田の言葉に、“名目” の話をする事なく、怒りを抑えに抑えていた僕がそれをぶちま
ける事もなく、そのまま“明日の予定 を立て始めたのだった。



「あーいいお湯やった。やっぱり温泉はええですねぇ」
 言いながらパフンとベッドに転がると後ろからクスリと小さな笑いが聞こえてきた。
 それが何だか恥ずかしくて僕はパッと身体を起こすとクルリと後ろを振り向いた。
「・・何で笑うんです?」
「いや、素直な感想やなぁと思うただけや。もっともその台詞は確か3度目やけどな」
 笑いを含んだ言葉。それにどうリアクションしていいのか判らない僕の目の前で江神さんはゆっくりとキャビンを取り出すと静かに火をつけた。
 ユラリと立ち上る紫煙。
「・・・・せやってほんまにそう思うたんですもん」
「誰も悪いとは言うてないやろ?」
「笑うたやないですか」
「あんまり素直で可愛いと思うただけや」
「!・江神さん!!」
 ニヤリと笑う顔に、ついムキになって上げた声と多分赤くなっているだろう顔。
 いわゆる日常茶飯事のスキンシップもどき。
 気付けばそれすらが恥ずかしくて、僕は再びポスンとベッドに転がった。
「・・・知りません・・もう」
「アリス?」
「・・・・・・」
 呼ばれた名前に口を閉じたままでいると急に部屋の中がシンとする。
 微かに耳を打つ波の音。
 そう、ここは慣れ親しんだあの部屋ではない。
 天井も、壁も、空気も・・・何もかもが知らない初めての場所なのだ。
「・・・・っ・・」
 −−−−−瞬間。
 何故かゾクリと身体が震えた。
「・・・アリス?」
 そしてその途端、まるでタイミングを計った様に掛けられた声に慌てて顔を向けた僕を見て、江神さんが微かに眉間に皴を寄せる。
「どうした?」
「・・・何でも・・」
 言いながら、けれど何か、そう・・言葉では言いようのない何かが襲ってくるような気がして僕は持っていた煙草を灰皿に押しつけながら近づいてきた身体に縋る様に手を伸ばした。
「アリス!?」
「・・・・何か・・波の音が聞こえてきたら急に・・・」
「ホームシックにでもかかったか?」
 耳元で聞こえた声はひどく優しい声だった。
「そんなんと違います・・けど・・・」
「ここは船の上やないから酔う心配もあらへんよ」
「・・・・そう・・ですね・・」
 ポンポンとまるで子供をあやす様に背中を叩く大きな手。
 答えながら少しだけ軽くなった気持ちにゆっくりと瞳を閉じて甘えてしまう。
 トクントクンと聞こえてくる鼓動。
 繰り返すそのリズムに安心してゆく自分が判る。
「・・・・・判っとるんやけどな」
「江神さん?」
 いきなり聞こえてきた言葉は少しだけ苦い色を含んでいた。
 驚いて顔を上げると限りなく苦笑に近い瞳と交差する。
「ギリギリまでバイトに明け暮れて、今日は早起きして、苦手な船で酔うて・」
「え・江神さん!?」
「その上散々歩き回って、トドメにからかわれて腹を立てて。ゆっくり寝かしてやらなあかんのは判っとるんや」
「あ・・あの・・」
 誰の事を、どういう意味で言っているのか勿論判らない筈はなかった。
「判っとるんやけど」
「・・・・・けど?」
 一度途切れた言葉に多分赤くなりつつあるだろう顔でその語尾を繰り返した僕に、江神さんがクスリと微笑う。
「“本音”と“建前”の間に大きな溝がある」
「・・っ・・」
 瞬間、僕は思わず吹き出してしまった。
 全くどうしてこの人はこういう事をサラリと言ってしまうのだろう。
「笑い過ぎや」
 自身も微かに笑いを含んでそう言う江神さんに「すみません」と言いながらそれでもまだクスクスと笑い声を漏らす僕を見つめて江神さんは少しだけ抱き締めている手に力を込めた。
 途端にトクンと鼓動が鳴る。
「・・・・っ・・」
 再び聞こえてきた波の音。
 けれどそれは先ほど感じた様な得体の知れない不安めいたものはカケラもなくて、すでにこの状況を煽る小道具の一つになっていた。
 トクン、トクン・・と鼓動が波の音に重なって溶けてゆく。
 ふと逸らした視線の先には屋根の傾斜の中間部に切り取られた
 四角い星空。
 灯り取りの窓から見える宇宙にクラリとする感覚。
(・・・あかん・・完璧ムードに酔うとる・・・ )
 そう・・このところ本当にバイトで忙しかったのだ。
 そしてその前は試験期間だった。
「・・・・・っ・・」
 熱くなる顔。
 それが恥ずかしくて、ムードに流されているような自分を悟られたくなくて、僕はトンと肩口に額を寄せると背中に回した手にギュッと力を込めた。そして。
「・・・あの・・」
「うん?」
「・・・明日・・堂ケ島の天窓洞の・・」
「アリス・・?」
「・・遊覧船乗るの一緒に阻止してくれはります?」
「・・・・・・」
 チラリと上げた顔にぶつかる視線。
 そうして次の瞬間、フワリと微笑って「・・裏取引やな」と囁いた江神さんの声を聞きながら、僕は重なってきた唇にそっと瞳を閉じた。

−−−−−−こうして旅行1日目は静かに、ゆっくりと、幕を降ろした。



3話です。ちよっと事件物っぽくなってきましたでしょうか?