迷宮 〜ラビリンス〜 4

ザザン・・ザン・・・・
 聞き慣れない音にフワリと意識が上昇する。
(・・何や・・?)
 繰り返すそれが判らなくて、いつもとは違う位置から差し込む、眩しくはないけれど、確かに朝のものであろう光に思わず低く唸って抗議をする。
「・・起きたんか?」
「・・!!」
 途端に聞こえてきた声に弾ける意識。
 ガバッと顔を上げると隣のベッドの上で、文庫を開いている江神さんと目が合った。
「お・・おはようございます!」
「おはよう」
 フワリと笑ってそう言うと江神さんは再び本に目を落とした。
 その横顔をぼんやりと見つめながら僕は脳裏を駆け巡り始めた記憶に思わずバフッと枕に顔を埋めた。
『・・え・がみ・さ・・ぁ・あぁ・・!』
 耳に残る自分のものとは到底思えない−−思いたくない−−甘ったるい声。
 夕べの様な行為は初めてではないが、かといってそんなに経験があるわけでも勿論ない。
 こんな風になってからまだ3ケ月程しか経っていないのだ。
 慣れる筈がない。
 それに・・・・。
(う〜・・恥ずかしすぎる!)
 そう、まだ夜はいいのだ。半分流される様にして抱き込まれて後は恥ずかしくても、何でも、意識自体がメロメロのボロボロでわけが判らなくなってしまうのだから。
 けれど、問題は朝だ。
 すっかりクリアーな意識の中、隣で「おはよう」なんて挨拶されたり、身体のあちこちに残る夕べの記憶(どんな記憶かは聞かないでほしい )をよせばいいのに寄せ集めてしまったり。
 身の置き所がないというか、まともに顔を合わせられないというか・・・。
 別にそうする事が嫌だという訳ではないないのだけれど−−嫌だったらこんな所で赤い顔をして枕を握り締めていない−−どうする事も出来ない羞恥心との戦いがあるのだ。
「曇ってしもうたな」
「・・・えっ?」
 いきなりの言葉に伏せていた顔を上げると、ベッドの上に座り込んだまま身体を捻る様に手を伸ばして後手のカーテンをめくる江神さんが見えた。
「降りそうなんですか?」
 僕の問いに一瞬だけ瞳を向けてパッとカーテンを引く。
「予報では晴れるって言うてたんやけどなぁ」
 雨は降っていなかった。けれど確かに引かれたカーテンの向こうの空は白っぽい雲に覆われていた。そのせいか木々の向こうに見える海もどこか精彩が欠けて見える。
「これから晴れてくるんですかね」
「そうだとええんやけどな。雨も風情があるけど、やっぱり旅は天気がええ方が気分もええやろ?」
「そうですね」
 もっともあまり気分が良すぎてはしゃぎ過ぎてしまう人間もいるという難点もある様が・・・。
「午後は黄金崎に行くんですもんね。せっかくの夕日が拝めんかったら話にならんし」
 言いながら僕はもう少しよく海が見たくて、肌掛けを肩から羽織るとベッドを降りてそのままペタリと窓にはりついた。
 白く、少し重い雲。
 けれど遠くの空はそれが切れ、眩しげな光が差している所もある。どうやら天気予報通り雨が降るような事はないらしい。
 思わずホゥッとついた息。そうしてそのまま僕はふと天井を見上げた。視界に入る天窓。
 起こされた光が眩しくなかったのはこの雲のお陰だったのだ。
 これが快晴だったら半強制的に早起きをする事になっていただろう。
「・・・・これはこれでツイてたんか・・」
 思わずポツリと漏らした呟き。
「アリス?」
 聞こえてくる不思議そうな江神さんの声。
 それに慌てて「なんでもないです」と答えると江神さんは何故かクスリと小さく笑いを漏らした。
「江神さん?」
「何でもないんやったらええけど、そろそろ何か着てくれんとそれはそれで結構目の毒や」
「!!!」
 ニヤリと笑いながらのその言葉に僕はハッと我に返った。そう・・・今の僕は素肌の上にブランケットを肩から巻いただけという、てるてる坊主の様な格好なのだ。しかも適当に巻き付けただけだから丈はバラバラで引きずる様な所もあれば足が
すっかり見えている所もある。
「え・・江神さんのスケベ!」
「そんな格好をしとるアリスが悪いんやろ?」
「せやって・・!」
 “誰がさせたんですか!”という言葉を僕は慌てて飲み込んだ。
 このままでは掘らなくていい墓穴を勢いよく掘ってしまいそうだ。
「き・・着替えますから向こう向いててて下さい」
「遠慮せんでどんどん着替え」
「江神さん・・!」
 クスクスと零れる笑い。こういう所は意地が悪いというか、子供と一緒だ。
「・・・・・・」
 仕方なく“てるてる坊主もどき”のまま、バッグの所に行きしゃがみ込んで服を取り出すと僕はコソコソと着替えを始めた。
 何だかちょっと・・否、かなり情け無い。
 やがて後ろから微かな物音が聞こえてきた。
 本を置く音。ベッドの端に座り直してサイドテーブルの上の煙草を取る音。それを取り出す音・・・。
 見なくても判るその動作が何となく気恥ずかしくて、けれど嬉しいような気持ちになる。
(・・アホやな・・・ほんま・・)
 カチリ、とライターの音がした。
 ついでカクンという音ともにいきなり大きくなる潮騒の音。
 風が部屋の中に吹き込んでくる。
「・・・風があるから雲の流れが早い」
 ザザンという音に混じって聞こえてくる独り言のような江神さんの言葉を聞きながら僕は、太平洋側の海は穏やかだと言われるがそれでも結構大きな波の音がするものなのだと埒もない事を思っていた。
 身支度を整えて振り向くと江神さんは思った通りベッドの端に腰かけたまま風に長い髪を嬲らせてじっと外を眺めていた。
 その視線の先に見える海と空。
「・・・・・っ・・」
 不意に頭の中に詩の一文が浮かんでくる。

  −−−−−海にゐるのは、
  あれは人魚ではないのです。
  海にゐるのは、
  あれは、浪ばかり。

 それは寒くて冷たい北の海を詩った短い詩だった筈だ。
 波が白い泡を立てている様も書かれていた気がする。
(・・・高校の時、現国か何かの授業で出てきたんや・・)
 そう・・確かその続きはこうだ。

  −−−−−曇った北海の空の下、
  浪はところどころ歯をむいて、
  空を呪ってゐるのです。
  いつはてるとも知れない呪。

(何でそんな詩を思い出したんやろ?)
「着替え終わったんか?」
「あ、はい」
「よし、ほんなら隣を起こして朝食に行くか」
「はい」
 パタンと閉じた窓。
 途端に小さくなる波の音。
(・・そうや。夕べ“海の国 とか“人魚”がどうとかからかわれたからやな・・)
 その“人魚”という単語がふとこの詩にひっかかったのだろう。
 自分の中でそう納得した僕を半分開き掛けたドアのノブを掴んだまま江神さんが振り返った。
「天窓洞の遊覧船の代わりを申し立てないとな」
 フワリと微笑う顔。それに「よろしくお願いします」と深々と頭を下げて、僕たちは二人して吹き出す様に笑い出した。
 2日目の朝−−−−−−。
 ドアを閉じる前に、一瞬だけ振り返った窓の外はもう眩しい日が差し始めていた。


「松崎ですか?」
「ああ、入江長八の漆喰絵の美術館があるんやて。他にも近くの寺の天井に“八方眈みの竜”が描かれてたり、灯台や時計台があったり、なまこ壁の町並みもええって言うしな」
「まぁ・・確かに堂ケ島の遊覧船はかなり観光化されている代物ですからねぇ」
 朝食を食べながら「今日の予定なんやけどな」と話し出した江神さんに経済学部コンビは一瞬「えっ?」という顔をした。
「堂ケ島からも近いし、遊覧船に乗りたいんやったら午前中は別行動にするか?」
 ワカメと豆腐の味噌汁をコクリと飲んでそう口にした江神さんに織田がハァッとわざとらしい溜め息を落とした。
「全く、江神さんはアリスに甘いんやからなぁ」
「ちょっ・!信長さん。それどういう事ですか?」
 思わず焦って口を開いた僕に望月が小さく笑って口を開く。
「何ムキになっとるんや。・・・確かに昨日の今日やし、2日続けて吐きたくなるような状況は酷やもんな。江神さんのアリスを庇ってやろうという気持ちも判らなくはない」
「せやな・・」
 望月の言葉に織田がうなづく。勝手にやっていてくれと思った途端江神さんまでもが「判るやろ?」などと笑った。
「ほな、夕べ食事の後に怒鳴り出さなかった褒美として遊覧船は諦めよう」
「その代わり帰りも船に乗るんやぞ?」
「・・・・・判りました」
 焼き魚を口に入れながらの望月の言葉と、御飯を口に放り込みながらの織田の言葉に“譲歩”という文字を頭に浮かべつつチラリと横を見ると江神さんが「良かったな」と笑った。
 何か釈然としないのは僕の気のせいだろうか?
「ほんなら午前中は松崎の散策して、午後は黄金崎で夕日を見るやろ?時間的にはどうなんや?」
「うーん・・散策って言うてもなぁ・・。せや、ここの少し手前に恋人岬ってあったやろ?」
「・・ああ・・けったいな名前な。行かんで」
 うんざりとした様な顔をして織田はにべもなくそう言った。
「アホ。俺かて野郎同士で行く気はないわ。やなくて・・そこな、恋人同士で行って岬の先にある“愛の鐘”っちゅうのを3度鳴らすんやて」
「何やそれ!?」
 思わず箸を止めた織田に望月はニヤリと笑った。
「昨日アリスが持っていたガイドブックに書いてあったんや。一度目の鐘で心を清らかにして、二度目の鐘で相手の名前を呼び、更に三度目の鐘で目の前に広がる海に二人の愛を誓うそうや。そんなん考える方も考える方やけど、行く方も行く方やて思わんか?しかも・・!」
 言葉を切って望月は行儀悪くもピッと箸を立てた。
「その脇にある事務局で“恋人宣言証明書”を発行して貰えるんや!」
「・・・・・・・・」
 さすがにシンとしてしまった食卓。
 夕べ熱心にガイドブックを読んでいたのはこれだったのか。
 “うんざり”を通り越して“げっそり”とした様な織田に習って箸を止めて、僕は思わず誰が本気でそんなものが欲しいのだろうかと考えてしまった。
「・・・考えんのも嫌やけど、そんなんを貰いに行く物好きも多いんやろなぁ・・」
 ・・・そういうものなのだろうか。
 疲れた様に言いながら織田は再び箸を動かし始めた。
「まぁな。せやけどどうせやったら夕日が売り物の場所なんやからそれが終わったら、今度は星に願いを込めて1回鐘を叩くと恋人が出来るとか言うのも作ればええのにな。片手落ちや」
 明らかに面白がっている口調で望月はズズッと味噌汁をすすった。それにようやく織田がニヤリと笑う。
「夜中にこっそり叩きに行って姿を見られなければ叶うとか」
「そうそう。足元暗いからローソクは必需品で」
「・・あのですねぇ・・」
 そんな丑三参りやあるまいし・・
 自分たちの言った事に自分たちでうけて笑う二人に江神さんがニヤリと笑って口を開いた。
「1回って言うところが哀愁を誘うな」
「ですよねー!!」
「・・・・・・ 」
 どこに行ってもEMCはEMCという事だろうか・・・。
 その途端。
「おはようございます。楽しそうですね」
 かけられた声に振り向くと長内夫妻が立っていた。
「おはようございます」
 4人揃って頭を下げると長内氏がニコニコと笑って口を開く。
「今日の予定のご相談ですか?」
「ええ。松崎の方に行こうかと思いまして」
「松崎ですか。独特の町並みがいい所だそうですね」
「長内さんはどちらへ?」
 如才無く口を開いた織田に夫婦は顔を見合わせてにっこりと笑った。
「堂ケ島の方に行って見ようと思います。家内もランセンターを見てみたいと申しますので」
「石原さんからそちらで家庭での栽培法を教えて貰えると聞いたものですから。戴いた鉢を枯らしてしまいそうで心配だったんですよ」
 言いながら再びにっこりと笑う少しふくよかな顔立ちが何だかひどく可愛らしくて−−年上の女性にこの表現も失礼だが−−僕たちは愛想の良い笑みを浮かべながら「楽しんでいらして下さい」とペコリと頭を下げた。
 再び他合いのない会話の混じった食事が始まる。
 石原の「お替わりはいかがですか?」という言葉に思わず4人揃って茶碗を出した途端、バンとドアが開いた。
「何考えているのかしら!」
「ちょっと直子やめなよ。聞こえるよ」
「いいわよ、聞こえたって。朝食は10時までにとってほしいって言われてたじゃない。それなのに!」
 ショートヘヤーの直子と呼ばれた女−−多分、藤本−−はイライラとした表情で椅子に腰を降ろした。ついで溜め息をつきつつロングヘヤーの−−きっと夕べはポニーテールだっただろう生方−−がオズオズとその前の椅子に腰かける。
 よく判らないが今ここには居ない緩いソバージュの彼女−−確か堤−−に対して怒っているらしい。
 どう声をかけたらいいのか、広間が一瞬戸惑ったような空気に包まれたその時、それを見計らっていたかの様に最後の宿泊メンバーである飯塚・前島コンビが姿を現した。
「おはようございます。ああ、やっぱりドン尻だ。オーナー朝食をお願いします」
 鈍感なのか何なのか飯塚は昨夜にも増して愛想のいい調子でそう言うと藤本たちのテーブルに視線を向けた。
「あれ?藤本さんたちもまだ?起きたら9時過ぎてたんで焦って降りてきたんだけど仲間がいたんだな。・・ところでえーっと・・堤さんはまだ寝てるの?」
 相変わらずよく口の動く男だ。しかも名前もしっかりと覚えている。
「朝の散歩に行ったまま帰ってこないのよ、2時間も」
「2時間!?そいつは又・・・酔狂な」
「しかも8時半には朝食を食べに行くからって言ってあったにもかかわらずよ」
 怒った様な飽きれた様な声でそういう藤本に生方が困惑した表情で口を挟む。
「7時ちょっとに海の方を見てくるって言うから、じゃあ8時半位には食事に行こうねって。私達はもう少し横になっていたかったから。そうしたらそんなに遠くまで行かないわよって笑っていたんだけど・・・」
「一応海岸の方も見に行ったんだけど姿はないし、結構気分屋の所もあるしね、彼女」
「直子!」
「石原さん、こっちにも朝食2つお願いします」
 生方の声を無視する様に声を上げた藤本にさすがの飯塚も小さく肩を竦めて前島の方に向き直ってしまった。
 どうやら『君子危うきに近寄らず』とでも思っているらしい。
「・・でも2時間って言うのが気になりますね。もっともこの辺りは少し行くと遊歩道や散策路のようなものが色々ありますからそちらに行かれたのかもしれませんが・・」
 そう言いながら朝食を運んできた石原に藤本はフゥッと一つ息をついて見せた。
「まさか散歩に行ったまま2時間も帰って来ませんなんていい大人が捜索願いなんて出せませんものね」
 第一印象の通りのさばさばしたというよりもキツイと言った方がいいその口調と言葉に、石原は困った様な笑みを浮かべた。
 何となく重苦しくなってしまった食事の場。
 やがてそれを吹き払う様に石原が口を開いた。
「えー・・・それぞれご予定があると思いますが、昼食にバーベキューをやろうと思います。朝食がこの時間ですので1時近くからになると思いますがご希望される方はおっしゃって下さい。ちなみにこれは私の趣味ですので、サービスです」
 現金な事に沈み掛けていた場がワッと盛り上がった。
「江神さん昼はここに戻って来ましょう!どうせ乗り降り自由のフリーパスなんやし。松崎散策してバーベキュー食べて黄金崎の日没を見る。完璧ですよ!」
 織田の言葉に勿論他の3人に異論がある筈がない。
 情け無いと言うなかれ、何たって“サービス”でバーベキューなのだ。
「はい!希望します!」と手を上げた僕達に笑い声が起こる。
 それに連られる様に手を上げた飯塚・前島コンビ。
 その他の2組は少し迷っている様だった。
「ではご出発までで構いませんのでご希望される場合は一声かけて下さい」
 にこやかにそう言って石原はセルフサービスらしいコーヒーメーカーが置かれたテーブルの上にカチャリとカップのセットを置いた。


有栖川先生も中也を使われていましたが、私も中也の詩は好きです。
この海にいるのは・・というのは高校の時の教科書で使われていたんじゃなかったなぁ。
インパクトがありますよね。「人魚」と言うのは何なのか。そんな話を授業でしていたと思う。