迷宮 〜ラビリンス〜 5

 断崖が続く海岸線と次々に現れる小さな港。
 そんな荒削りで素朴な風景からか、西伊豆は<男性的>という形容詞が使われる事が多い。
 しかし松崎はそのイメージとは大きく変わる。
 土蔵造りになまこ壁の町並みとその中でも一際目を引く純白の美術館。『長八美術館』の作品を生んだ入江長八は、ここ松崎出身の江戸時代の左官職人だ。その左官の技術を生かし漆喰鏝絵という独自の壁画を生み出した名人である。
 モダンな建物の中に飾られた彼の作品郡を、これが鏝で描かれた物なのかとその細かさと美しさに舌を巻き、風変わりな時計台や(なんと文字盤が13時まである)橋を見て、なまこ壁を堪能した僕たちがペンション『カノープス』に戻ってきたのは、予定通り1時少し前の事だった。
「お帰りなさい」
 食事をする広間からガラス戸を隔てて外へ広がるオープンデッキ。その上でペコリと石原が頭を下げた。夕べは暗くてよく見えなかったのだが、このペンションは木の素材を生かしたログハウス風の洒落た作りをしている。
 天然ムク材の板張りをしてあるという深い茶色の外壁にブルーがかったグレーの三角屋根。
 その屋根の中程におそらく部屋数と同じだけあるのだろう白っぽい窓枠のアクセントが効いた天窓。
 国道沿いのバス停からは少し入った分だけ海に近く、雑木林の中に建っている為避暑地の別荘というイメージもある。
 もっともその雑木林は海岸線の断崖に続いているのだが・・。
 他の宿泊施設と少し離れているというのも私有地めいた静けさがあっていいと思ったが、それを石原に言うと「観光地と観光地のエアポケットみたいな所で、ようするに便が悪いんですよね」と苦笑をしていた。
「もう少しで始めますよ」
 そう言って笑った石原の声に重なる様に飯塚の「オーナーここでいいですかね?」という声が聞こえてきた。どうやら僕たちが一番乗りというわけではなかったらしい。
 石原と入れ替わる様に材料の入ったトレーを持ってオープンデッキに現れた彼は、僕たちを見て「やぁ」と機嫌良く声をかけてきた。
「松崎の方に出掛けたんだってね。どうだった?」
「良かったですよ。鏝絵も素晴らしかったですし」
 気安い問いに望月が笑って答える。
「ああ、あれは一見の勝ちがあるよねぇ」
 うなづきながらデッキに出されたテーブルの上にトレーを置き、飯塚は胸ポケットの中から煙草を取り出して火を付けた。
「・・僕等は恋人岬に行って来たんだ」
 “どちらへ行かれたんですか?”という言葉を諦めたのか男は自らそう話し出した。
「いやー・・浮いた浮いた。回り中当り前だけどカップルだらけだろ?野郎同士なんて好奇心の的。あまりの居心地の悪さに思わず真面目に取材をしちまいました」
 ヒラヒラと手帳を取り出して振るその姿に望月たちが小さく吹き出した。
「しかも、カップルは若いのばかりとは限らない。いい年した連中が上機嫌でカンカン“愛の鐘”を叩くんだから、あれは違った意味で見物だね」
 吐き出される紫煙。
 最初の印象が悪すぎたのだろうか、どうしてもその言葉の中に皮肉気な刺を感じて僕は男から視線を外した。
 そうしてキョロキョロと周りを見回す。
 どうやら朝の通りこのバーベキュー大会に参加をするのは僕たちと飯塚たちだけらしい。
「・・ねぇ、モチさん。佐々木さんはどないしたんでしょうね」
「なんやアリス、今頃気付いたんか?佐々木コックは夜しか来いひんのやて」
「夜だけ?」
「そう。石原氏曰く“まだ本格的に営業をしていないペンションに一日中居てもらうのは申し訳なくて”という事で夕食だけお願いしとるんだそうや。因みに今日の夕食は新鮮な魚介類のフランス料理や。疑問に思うたら確かめる、ミステリーの鉄則やぞ」
 ・・・・・そうですか。
 思わず口を結んでしまった僕にやがて裏手の納屋がある方から何本かのビールを抱えて噂の石原氏が戻ってきた。
「そろそろ始めましょうか」
 その言葉を待っていましたとばかりに僕たちはセッティングされたデッキに上がった。
 起こされた火。並べられた食材。
 それ程時を置かずにジュージューと聞こえ始めた野菜と肉の焼ける音が食欲を刺激する。
「そういえば朝戻ってこなかった彼女はどうされましたか?」
 つがれたビールのコップを持ったまま江神さんが石原を見た。その途端小さく寄せられた眉。
「結局10時過ぎまで待っていたんですが戻っていらっしゃらなくて。お二方は予定していた堂ケ島の方に行きながら遊歩道などを捜してみると出掛けられました。ここに居て待っているというのもどうかと思いまして私がお勧めしたんです」
「警察の方には?」
 僕の言葉に織田が首を横に振った。
「アリス、言うだけ無駄や。立派な大人がたかが4.5時間戻
らんだけで相手をしてくれる程警察は暇やない。捜索願いは少なくとも24時間以上経過してからや」
「・・・・あまり大事にしてもと思いまして」
 言いながら「どうぞ」と差し出された焼き上がったそれを乗せた紙皿を受け取って僕は胸の中で溜め息をついた。
 人騒がせであるならあってほしいと思う。と、その途端。
「・・あれ?飯塚さん、前島さんは?姿が見えんけど」
「ああ・・車を置いてカメラを持ってくるからじきに来るよ」
 アツアツのバーベキューをハフハフとしながらの望月の言葉に同じくハフハフと頬張りながら飯塚が答える。
「・・・・にしてもちょっと遅いかなぁ?」
 続けられた尋ねるような口調に石原はそういえばと小さく首をかしげた。
「そうですねぇ・・・駐車場が判らなかったのかなぁ」
「どういう事ですか?」
 すでに串の半分を制覇していた江神さんがその言葉にいぶかしげに口を開いた。
「実はうちの駐車スペースに誰の物か判らない車が止めてありまして。レッカー移動でもしてもらおうかと思ったんですが前島さんがそこまでしなくてもとおっしゃって下さったんで少し
先にある駐車場への道をお教えしたんです」
「そこまではどれ位なんですか?」
「車なら2分。歩いても10分か・・・ちょっと見てきましょうか」言いながら掛けていたエプロンを外そうとした石原に飯塚が大げさに手を振った。
「いいよ、いいよ。そんな子供じゃあるまいし。いい大人が迷子でもないでしょ?大方いい風景があってシャッターをきり始めたって所かな。飽きるか腹が空けば帰ってきますよ。ほら食
べましょ、食べましょ!」
「・・そうですか?・・じゃあ・・」
 少し困惑した様な表情浮かべながら外し掛けたエプロンを直して石原は再び火に向かった。
“いい大人が迷子でもないでしょ?”
 耳に残った飯塚の言葉。
 それは聞き覚えのある言葉ではなかったか?
“散歩に行ったまま2時間も帰ってきませんなんていい大人が捜索願いなんて出せませんものね ”
「・・・・・・っ・・」
 胸の中にじわりと広がる黒い染みのような何か。
 思わず向けた視線の先では、江神さんが何かを考え込む様に中空を見つめていた。
 胸が騒ぐ。
 何か嫌な予感がする。
「アリス?」
 視線に気付いて掛けられた声に僕は小さく笑って首を横に振った。それにフワリと返された微笑み。
「食っとるか?」
「はい」
 短いやりとりの後、コクンと飲んだビールはひどく、ひどく苦かった。



元々アガサクリスティの「そして誰もいなくなった」が好きなのです。なんかこう・・・ドキドキしませんか?さて次は?