迷宮 〜ラビリンス〜 10

 広間は重い、重い空気に包まれていた。
 疲れ切ってしまった、そんな表情を誰もが浮かべている。
「・・・・とにかく・・警察に知らせましょう」
 堅い声の長内の言葉にイライラとした様に藤本が口を開く。
「誰が?・・・外には殺人犯がいるかもしれないのよ?そいつが警察に知らせる人間をそのままにすると思う?」
「でも、このままにしておくわけにもいきません。これは単なる失踪事件だけではなく、紛れもない殺人事件です」
 江神さんの言葉に藤本はギュッと唇を噛み締めた。
「私が・・私が行きます」
「冗談じゃないわ!こんな訳のわからない所で、訳のわからない人たちと一緒に待っていろって言うの!?殺人鬼が襲ってきたらどう逃げればいいのか判らない人間を置いて行くなんて!そんなのって!!」
 苦しげに声を絞り出した様な石原の言葉を半ばパニックを起こしかけた生方が遮る。
 再び落ちた沈黙。
「あの・・こんな言い方は亡くなった方に失礼なんですが、夕べの時点で唯一事件を起こす理由というか、こじつけがあったのは飯塚さんですよね?もしも本当に飯塚さんが犯人なら」
「・・・もう、事件は起こらない?」
「はい・・・」
 オズオズとした長内に生方が縋る様な視線を向けた。けれどその次の瞬間、隣にいた藤本が肩を竦める。
「じゃあ、彼が犯人だとしたら消えた人間は何処にいるのかしら?それに何故彼は死んだの?もう逃げられないと自殺でもしたって言うのかしら?その辺の何かで自分の頭を殴りつけて」
「いや!やめてよ!!そんな」
「だって本当の事でしょう!?」
 ヒステリックな言葉の応酬。そこに江神さんが割り込んで口を開く。
「私も藤本さんと同意見です。飯塚さんの遺体の状況から見て自殺は考えられないと思います」
 それは静かだけれどはっきりとした声だった。
 江神さんの言う通り、自殺をする人間が自分の後頭部を殴るのは無理がある。ましてその殴った物がどこにも落ちていないのだ。しかも彼はうつ伏せてこと切れていた。
「仮に彼がこの失踪事件の犯人だとしたら、彼は誰かに復讐されたとも考えられる」
「・・つまり、私達の中に飯塚さんを殺した犯人がいるかもしれないって事ね。確かに夕べの今日じゃそれぞれ叩けば他人にとっては馬鹿みたいな動機が出てくるかもしれないわね」
「直子!」
 江神さんを睨む様にして暗い笑みを浮かべた藤本を僕は黙って見つめてしまった。
 何度目かの沈黙。
 やがて江神さんがゆっくりと口を開いた。
「私が行きます」
「−−−−−−!」
 集まった視線。それに江神さんはフワリと微笑む。
「大丈夫。国道まで出れば連絡はすぐに取れますよ」
「一人じゃ危険です!僕も・・僕も一緒に行きます!」
「逃げ出すつもり!?」
「!!仲間を置き去りにするような真似はしない!!」
 皮肉めいた生方の言葉に僕は思わずそう怒鳴り返していた。
 瞬間大きく見開かれた瞳とついでクシャリと歪められた顔。
「・・・・ごめんなさい・・」
「・・いえ・・こっちこそ・・。でも必ず連絡をして警察を連れてきます。絶対に約束します。せやから・」
「信じます」
 口を開いたのは石原だった。
 ついでコクリと首を縦に振って長内が「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「・・・頼むわ」
 気の強い女が呟く様にそう口にした。そして・・・
 ポツリと漏れ落ちた「・・・もう・・早く終わらせて・・・」という細い声が僕の胸に響く。
 3日目の朝。
「行こう」
「はい」
 短い言葉を口にして、僕達はカタンと椅子から立ち上がった。
 僅か3日足らずの間に(正確に言えば2日にもならない)幾度通ったか判らない雑木林。一昨日の夜この道をペンションに向かって歩いていた時はまさかこんな事になるとは夢にも思わなかった。
 昨日の夜更けから出てきた風がその木々の枝を揺らし、穏やかな海を波立たせている。
 白い、少し重たげな雲に覆われた空。何も言わない江神さんの隣を歩きながら僕の頭の中に幾つもの疑問が浮かんでまとまらないまま消えてゆく。
 なぜ始めに堤が消えたのか?
 彼女でなければならなかったのか?
 前島の失踪は彼女と関係があるのか?
 長内夫人はなぜ外に出たのか?又はどうやって外に連れ出されたのか。
 織田と望月という二人の男を一度にどういう方法で連れ去ったのか?
 飯塚だけが遺体で見つかったのはなぜか?
 あとの人間は無事なのか?
 何人もの大人たちを何処にどうやって隠しているのか?
 そして・・・誰が何の為にこんな事をしているのか・・・。
「アリス・・」
「はい!?」
 突然呼ばれた名前に僕は慌てて俯きかけていた顔を上げた。
 それに江神さんがピタリと足を止める。スッと伸ばされた手。
「そこがもう国道や。判るな?」
「・・・・江神さん?」
「一人で行って通報してくれるか?」
「何で!?何でですか?どうしてそないな事言うんですか?江神さんはどないするんです!?一人で何をするんですか!」
 たて続けの僕の質問に微かに眉が寄せられた。
「・・気になる事があるんや。確かめてみたい」
「一緒に行きます!」
「早う通報せなあかんやろ?」
「そしたら通報してから一緒に確かめに行きましょう」
 僕の言葉に江神さん今度こそ苦笑に近い笑みを浮かべた。
 そして・・・。
「時間が・・多分・・関係していると思うんや」
「なら先に確かめに行ってそれから通報します」
「アリス」
 もう一度呼ばれた名前。けれど、でも、それはどうしても譲れないと思う。
「絶対に一緒に行きます。何を確かめに行くんですか?もしかして犯人の見当がついとるんですか?それなら尚更」
「アリス・・」
「嫌や!これで江神さんまでも消えてしもうたら!」
「・・・アホ言いなや。消える筈ないやろ?」
「でも嫌や!絶対に・・」
 訪れた沈黙。やがて江神さんの小さな溜め息が聞こえてきた。
「・・・・確かめたいのは夕べお前が見た光の位置と海岸の状態や」
「光と・・海岸・・?」
「潮の満ち干きがあるやろ?」
 言われても良く判らない。そんな僕に江神さんはもう一度小さく笑った。
「お前はみんなに言うた筈や。必ず連絡して警察を連れてくると。絶対に約束すると言うた。そうやな?」
「・・・・・・・・」
 こんな時にそんな風に言うのは狡いと思う。けれど江神さんはひどくひどく優しい微笑みを浮かべたまま言うのだ。それは守らなくてはいけないと。
「通報したら夕べの場所まで来てくれ。覚えとるな?」
 顔を覗き込む様に言われて僕は渋々と首を縦に振った。勿論忘れる筈がない。そんな僕に江神さんは「落ちるのはなしやで」と小さく笑った。
 再び歩き出した足。けれど僕は前方に、江神さんは後方に。国道に出る前にクルリと振り返った視界の中に小さくなった背中が見えた。
「・・・・・っ・」
 早く約束の場所に行かなければ。一刻も早く。
 クルリと前方を向き直って国道に出る。キョロキョロと左右を見ると右手から走ってくる車が見える。白のワゴン車。そのまま何のためらいもなく道路に躍り出て両手を振った。
 急ブレーキの音と同時に窓から出された顔。
「!!!馬鹿野郎!危ねぇだろう!!」
「すみません!電話のある所まで乗せていって下さい!さもなければ警察に通報していただけませんか!?」
「・・・はぁ・・っ・?」
 

 2分後、僕は再び林の中を走っていた。
 まくしたてる様に死体だの、失踪だの、電話線が切られているだの物騒な言葉を羅列し警察に連絡をしてほしいと訴える僕を同乗させるのは恐かったのか親切な男は必ず通報すると言ってくれた。その男にポケットの財布に入っていた学生証とテレフォンカードを渡して、念を押して、信じて、僕はただひたすら夕べの場所に急ぐ。
 ガサガサと草が鳴る。次第に大きくなってくる波の音。
“潮の満ち干きがあるやろ?”
 頭の中に甦る意味の判らない言葉。けれど江神さんはもう何かを掴んでいるのだ。
「・・・っ・」
 張り出ていた小枝を頬に引っ掛けて僕は小さく舌うちをした。
 木々の間から見え始めた海。この先が夕べの・・
「−−−−−−・・?」
 その瞬間、僕は奇妙な感覚に捕らわれた。
 何となく、人の気配がするのだ。
「・・江神さん?」
 思い当る人の名前を舌に乗せてみる。けれど応答はない。
 ゾクリと背中に冷たいものが走った。
 まさか・・・
「江神さん!?居るんでしょ?江神さん!どこですか!江神さん!!」
 歩調を早めて僕は呼び声を大きくした。声は確実に僕の居場所を相手に伝えるだろう。その気配が江神さんならばすぐに来てくれる。万が一そうでなくても声が聞こえれば来てくれる。
「江神さん!返事をして下さい!!」
 そう信じて叫びながら、僕は海岸線の方から林側に方向を変えた。夕べの様に足元が崩れたり、何よりいきなり現れるかもしれないそれに突き落とされるのを警戒したのだ。
 ハァハァと息が上がる。緩い勾配のある膝丈ほどの草だらけのそこを何かに追い詰められる様に僕はただ上ってゆく。
 そうして・・・。
「江神さん!!江神・さ・・!!!」
 ガクンと崩したバランス。
 崖の方ばかりを気を付けていた僕はよもやこんな草むらの中に穴が開いているとは思ってもいなかったのだ。しかもその穴は。
(・・深い・・!?)
 ズルズルと滑り落ちて行く身体。草の匂いと土の匂いが交差する。何だか昨日から落ちてばかりだと思った。
 脳裏をよぎる優しい微笑み。
 無事に確かめる事が出来ただろうか?
 自分の状況を棚上げしてそんな事を考えながら底に辿り着いたらしい衝撃の後で、僕は意識の糸を手放した。



うぉー、いよいよホントの佳境ザンス。次回のシーンも書きたかったシーンなんですよー。お楽しみにー。