迷宮 〜ラビリンス〜 11

 ピチャンと水の落ちる音がする。
 ついでふわりと覚醒する意識。
(・・・どこや?)
 ゆっくりと顔を上げるとそこは暗闇だった。
 けれど完全な暗闇ではない。見上げると上の方に草に覆われながらも光の穴が見える。どうやらあそこから滑り落ちてきたらしい。
「・・・・・つぅ・・」
 結構な高さがある。よくもまぁ無事でいられたものだ。
 立ち上がって手足を回したり、首を回したりしながら大きな怪我がない事を確かめて僕は一つ溜め息をついた。
「さて・・どうやって上ったもんかな・・」
 ポツリと漏れ落ちた声。その途端。
「・・・え・・?」
 暗がりに目が慣れてきた僕はその穴がただの落とし穴の大型判でない事にようやく気が付いた。
 穴は縦だけではなく横にも伸びているのだ。しかも多少の高低はあるものの立って歩く事が出来る高さがある事が判る。
(・・・・何だここは・・)
 ドキンドキンと早くなる鼓動。
 早く外に出た方がいいという思いと、この不思議な穴を確かめた方がいいという思いが僕の中で交差する。
「・・・外に出る言うてもなぁ・・」
 もう一度見上げたそこには到底辿りつけそうもなかった。
 それに先ほどまで感じていた気配が何なのかが判らない。
 穴を出てきた所でポカリとやられたらおしまいである。
 それならば。
「・・・・・ここにも穴があったんやから他にもどこかあるかもしれへんし」
 自分に言い聞かせる様にそう言って僕はペロリと指を舐めるとそのままそれをかざした。こういう時には五感と運を頼りにするしかない。
「・・・風はこっちから流れとる・・」
 パンパンと埃を払って僕はゆっくりと歩き出した。
 微かに潮の香りがする。
 縦穴の明かりが届かなくなると辺りは真っ暗闇となった。
 喫煙者だったらライター位持っていたのにと埒もない事を考えながらゴツゴツとする岩の壁に手を這わせながら足を出す。
 歩くうちにいくらか目が慣れてきたけれど、それでも暗闇の中をスイスイと進める訳がない。
 多分距離としては始めの場所からそれ程進んでいないだろうと薄れてゆく時間の感覚の中で僕はホォッと息をついた。
 ピチャン・・と又水の滴る音が響く。
 どういう構造になっているのか、行った事はないが堂ケ島にある天窓洞という−−天井の一部が崩れ落ち、天然の明かり窓の様になっている為そう呼ばれている−−洞窟の様なものなのかあるいは鍾乳洞に近いものなのか、又は富士山の辺りにある風穴の様なものなのか、いずれにしても人工的に作られたものではないらしいこの洞窟は、僕が落ちた程大きな穴はないがそれでも時折その内を細い光の筋が照らしていた。
 そんな洞窟内で2度ほどあった分かれ道(本当はもっとあったのかもしれないが気付いたのはそれだけだった)その度に最初の時の様に五感を頼りに道を選び、僕は申し訳程度に決めた方の道の端に幾つかの小石を積み上げてきた。
(・・・・まるで地底の迷路やな・・)
 差し込まれる淡い光の先に再び分かれ道が見えた。
 その前で立ち止まって僕は儀式の様なそれを繰り返す。
 右手から風が吹いてくる・・・気がする。それを信じて積み上げた小石。
「・・・・もしかして信長さんたちもここに迷い込んだのかもしれへんな」
 そう考えると少しだけ気が軽くなるような気がした。
 もしそうならばこの迷路の中で再会が出来るという可能性も出てくる。
「・・・・・っ・」
 自分の考えにクスリと笑いを漏らして僕は右の道に足を踏み出した。
 彼等は驚くだろう。そして笑うかもしれない。
『何やアリス、お前も迷っとるんか!?』
 そうならいい・・・・そうなればいい・・。
「・・!つうっ!」
 その途端、突き出ていたらしい石に膝の辺りをぶつけて僕は思わず小さく呻いてしまった。 ジンジンとする痛みを堪えてズルズルとそこに座り込む。
「・・・・ってぇ・・」
 前に広がる闇と、後ろに広がる闇。その暗がりの中、膝を抱えてうずくまっている自分が何だかおかしくて、情け無くなる。
「・・・・・痛い・・」
 本当は・・・。
 −−−−−出口ナンカ無イノカモシレナイ。
 考えない様にしていたそれが僕の胸の中に一気に込み上げた。
 誰もこんな地底の迷路に気付く筈がない。
 きっとこの迷路の中で彷って、力尽きてしまうのだ。
「・・・・っ・・」
 そしてその瞬間、僕は何故かあのペンションに居た人達の事を思い出した。
 脱サラをしてペンションオープンに漕ぎ着けながら、その途中で奥さんを亡くしていた石原。
 前島にモーションをかけていたらしい生方。
 上司との不倫が表沙汰になりそうな藤本。
 会社の経営が危うく、仲が良さげに見えた奥さんとの間にも何かがあったらしい長内。
 そして、人の弱みを書き立てるゴシップ誌の記者である飯塚は殺されてしまった。
 もしかしたら居なくなった堤にも、出身地が近いという前島にも何かがあるのかもしれない。
(・・・ほんまに・・迷路みたいや・・)
 そう・・人の心も出口の見えないこの迷路と同じ様だ。
 複雑に入り組んで、けれどもしかしたらどこかでグルグルと同
じ所を回っているのかもしれなくて、でもそれすらも判らなくて、迷って・・。
 次いで頭の中に浮かんだ“ミノタウルス”という文字。
 それは押し込められた迷宮の中で生贄を喰らう伝説の怪物。
 人の心の様に絡んでしまったこの中で、もしかしたら僕も闇の中に棲む怪物に喰われてしまうのだろうか?
「・・・あかん・・アホになっとる・・」
 あまりにもバラバラのマイナス的な思考をストップさせて僕はゆっくりと立ち上がった。
 そうしてそれを払う様に僕は優しい微笑みの記憶を手繰り寄せた。彼はきっと心配しているだろう。どれ位時間が経っているのかは判らないけれど、きっと捜している。
 ここから出られないという事は、彼にもう2度と会えないという事なのだ。顔を見る事も、声を聞く事も出来ない。
「そんなん嫌や・・」
“アリス・・”
「絶対に嫌や・・」
 呟く様にそう口にして僕は再び岩の壁を伝って歩き出した。
 諦めるのは早過ぎる。
 風が流れているのだ。いつかはどこかに辿り着ける筈である。
 ピチャン・・と又水音が聞こえる。
 ハァと自分の吐く息の音が響く。
 出口はある。きっとある。ここは化け物のいる迷宮ではない。
 又見えてきた分かれ道。幾度繰り返したか判らないそれをして僕は何かに憑かれた様に歩き出した。早く、早く、早く・・・。
「−−−−−−−−−!」
 自分の考えに怯える様に前に進む僕の目の前に、突然今までとは違う光が飛び込んできた。
 それは明らかに大きくて、はっきりとした光だった。
 −−−−−−出口だ。
 そう思った瞬間走り出した足。
 カーブをしながら微かに上ってゆくような道に期待が高まる。
 風が吹いてくる。
 潮の香りがする。
 外に出られる。
「−−−−−−−−−!!!」
 けれど。
 希望が絶望に変わるのは一瞬の事だった。
 確かに、そこは外だった。
 眩しい光の差し込む出口。
 その向こうにある水平線と空。
「・・・・・は・・はは・・」
 辛うじて人が通れるだろう大きさのある穴から見えたその風景は僕に僕の居場所を教えてくれた。
 ここはおそらく断崖の途中だ。その穴から下を覗けば青い海が見えるだろう。つまり・・ここからは出られないという訳だ。新しい出口を捜さなければいけない。
「・・・・とりあえず・・さっきの分かれ道に戻って・・」
 震えるような膝を叱りつけて僕は再び闇の中に戻った。
 足が重い。先ほど打った膝が思い出した様に痛み始める。
「・・・・っ・・江神さん・・」
 声に出すとそれはひどく切ない気持ちに変わった。
「・・江神さん・・江神さん・・」
 迷子になった子供の様だと思った。
 けれど止める事も出来ずに何かのまじないの様に僕はその名前を繰り返す。
 大丈夫。又会える。きっと会える。
 積み上げた小石を見逃さない様に足元を見つめて僕はゆっくりと岩の壁を伝って歩いた。
 生きたいと願ったのは夕べの事。だから絶対に諦めない。
 カランと足元に当った小石の山。
 それを拾って反対側の道に積み直す。
 コクンと一つ喉が鳴った。
“又違ったらどうしよう・・”けれどそう思う側から又やり直せばいいと何かが答える。そう、何度でも会えるまで。
 新たな闇の中にゆっくりと足を踏み出して僕は一つ息を吐いた
 その瞬間−−−−−−−。
 ジャリと聞こえた自分のものではない足音にビクリと身体が震えた。振り向いた視線の先にユラリと揺れる灯り。
「・・・・・・・っ・」
 臼明かりの中見えてきた陰が信じられなくて首を振る。
 熱くなる瞳と溢れ出す涙。
「そっちやない。こっちや、アリス」
「・・え・がみ・・さん・・」
「あの石は迎えに来いっていう印やろ?」
 言いながら小さく笑うその顔が涙でユラユラと揺れる。
 そんな僕を見て江神さんはゆっくりと両手を広げて。
「アリス、帰ろう」
「−−−−−−!」
 僕は迷う事なくその腕の中に飛び込んだ。



実は地底で迷っていて、江神さんが迎えに来るというシーンね書きたかったんですよー。
如何だったでしょう?だからこの話は結構事件が起こる場所を探して探して探しました。
ええ・・地図とガイドブックを広げて(笑)