迷宮 〜ラビリンス〜 12

 ライターの灯りを掲げ、僕の手を掴んで歩きながら江神さんは「一つ前の別れ道を間違えたんや」と言った。
 そうしてその言葉の通りに石の積まれていない道を進むとやがて眩しい光が見えた。
 その穴は僕が落ちたものと同じように草に覆われていた。
 けれどその周囲は明らかに人間が手を加えた跡が残っていた。
(誰かがこの洞窟を使っていた・・・?)
「・・・・っ・・」
 久しぶりの外に僕は思わず目を眇る。
 頬を、髪を、風が嬲る。
 眩しいと思ったけれど、実際には空は白い雲に覆われていた。
「・・・江神さん・・言うてたのは確認出来たんですか?」
 僕のその問いかけに江神さんは一瞬だけ瞳を見開いて次にやるせなくそれを歪めた。
「江神さん?」
「ああ・・出来たよ」
「!そしたら・・犯人が判ったんですか!?」
「・・・・ああ・・多分・・」
「誰が!!モチさんや、信長さん達は・・みんなは・・!」
「アリス・・」
 勢い込んだ僕に江神さんは小さく僕の名を呼んだ。
 トクンと鼓動が鳴る。
 何だか答えを聞きたくない。
 でも・・だけど・・・。
 ザンと波が音を立てた。
 地下の迷路から出てきた所は驚いた事に断崖の先に近い場所だった。木々と草の中にある窪みのような穴。
「・・・・・誰が・・?」
 僕はもうその答えを知っている気がした。
 先ほど僕が覗いた崖の途中の穴は夕べ僕が光を見た場所ではなかったか。
 そして、夕べその場所に行けたのは。
 そこから戻ってこれたのは。
「・・・・・もう終わりにしませんか?石原さん」
 江神さんの言葉にカサリと草が音を立てた。
 そして少し離れた木の向こう。
 彼は疲れた様な、けれどどこかホッとした様な微笑みを浮かべて僕たちの前に現れた。


 クルクルと回る赤いランプ。
 パトカーのサイレンと救急車のサイレンが入り混じって交差する中「後ほど詳しい事情を」と言われた僕たちはコクリとうなづいてそのまま海を眺めていた。
 親切なワゴン車の運転手は電話では埒があかなくて、わざわざ警察署まで行ってくれたのだそうだ。
 “有栖川有栖”等というふざけた名前の学生証は警官たちに悪戯ではないかという疑惑を持たせたがそれでも死体などという言葉が出ていては行かないわけにはいかない。とりあえず『カノープス』に電話を入れるが通じない。そこで近くの派出所から様子を見に行かせるとペンションの中で3人の人間が眠っている。睡眠薬を飲んでいるらしい。
 直ちに本部に通報が入る。
 ようやく動き出した公的機関。
 その時僕たちは断崖の上に居た−−−−−−−−・・・。

***********************


「・・何で・・何でこんな事・・!」
絞り出した様な僕の言葉に石原はクスリと小さく笑ってゆっく
りと口を開いた。
「・・・ペンションをやりたいというのは私の妻の夢でした。色々とあって会社を辞めて・・その夢は私の夢にもなった。幸い設計関係の仕事をしていたので輸入住宅を見たり、計画を立てたり・・あの頃が一番楽しかった」
 遠い目をして石原は呟く様にそう言った。
「・・子供がね・・居たんです。4つになる。愛海という女の子。家を建て始め、色々な計画を進めて、お互いに忙しくて。ある日内装の事で業者が来て相談をしていて・・・気付いたら愛海の姿が見えない。捜しましたよ。勿論警察にも届けた。海に落ちたのかもしれないと捜索隊も出た。けれど見つかりませんでした。私達の夢を叶えるその犠牲として愛海が連れて行かれてしまったのだとも思いました。美砂子も・・妻も・・自分を責めて、ペンションは諦めようと思った。でも・・それならばなぜ愛海は消えたのか。そう考える事自体おかしいのだけれど私達にはそうとしか考えられなかったのです。まるで償いの様にこのペンションを成功させようと」
「・・・・・・・・」
「再び、半年遅れでペンションの工事が再会されました。美砂子は今まで以上にこれにのめり込んで行きました。家が出来て色々な物が揃っていって・・・。貯蔵庫のような物が欲しいと言い出したのはそんな時でした。簡単な組立て式のログハウスの様なものでいいからと。それ位なら私でも出来る。裏の林に建てよう。その時に見つかったんです。この地下への入口が」  僕はただ黙って石原の話を聞いていた。
 消えた女の子。償う様にペンションにのめり込んで行く妻。
 そして何かを象徴するかの様に見つかった迷宮の入口。
「中を確かめてみる事にしました。危険な物ならばペンションをオープンさせる事が出来なくなる。もしも、堂ケ島の天窓洞のような物ならば・・・・浅ましい考えが私の中に浮かびました。それは緩やかに下ってゆく道でした。横に伸びているものもありましたが先が見えず恐くてとりあえず下へ下へと下って行きました。程無く地底の・・多分海に繋がっているのだろう小さな入江に様になっているそこで私はあれほど捜して、捜して見つからなかった娘を見つけたのです」
「・・・干潮の時だけ現れる海岸の入り口ですね?」
  江神さんの言葉に石原は少しだけ驚いて、やがて小さく笑った。
「妻には勿論言えませんでした。地下への入り口はその上に納屋を建てて封鎖してしまいました。けれど私が何かを隠していると美砂子は勘づいていたのでしょう。納屋の床を壊して地下に降りて・・・繰り返される満ち引きで洗われた小さな白骨を見つけた彼女は私を責め、自分を責めて・・。その後です、あの洞窟の横穴がこの崖へと通じている事が判ったのは。もしもその時それが判っていたなら・・。妻を殺したのは私です。私が殺したのも同然です。崖から飛び降りる彼女を助ける事が出来なかった。子供を奪って、妻を奪ったこのペンションが憎かった。愛しくて、憎かった。それでもここから離れる事の出来ない自分がおかしくて、やるせなくて・・」
 石原の頬を透明の滴が流れて落ちる。
 けれど男は微笑うのだ。涙を流しているのに微笑って・・。
「だから一度だけ妻の夢の通り客を呼んでペンションとしての息吹を入れてやろう。そうして・・その後で、まだこの地底の小さな入江で眠っているあの子が一人で淋しくない様に・・」
「・・殺したんですか?」
 僕の声は小さく震えていたかもしれない。それに場違いな程鮮やかな笑みを浮かべて石原が小さく首を横に振る。
「・・・・満潮になると海から納屋の地下まで小さな船が通れる程の水路が出来るんですね?」
 やがて江神さんが確認をする様にそう言った。
「そうです。それで3人の方を・・。前島さんと長内さんは納屋の方から娘の所に運びました」
 全てを話し終えたというような石原の顔は疲れている様にも重すぎる肩の荷を下ろして安心した様にも見えた。
「・・・アリスが・・落ちかけたのを見て助けに来なければ」
 判らなかったのだと繋げ様とした江神さんに、石原はクスリと笑って再び首を横に振った。
「美砂子を助ける事は出来なかったけれど、有栖川さんが助かって良かったと思っていますよ」
 “結局何の役にも立てませんでしたけれどね”と男は又笑う。
 風が強い。波がうねる。
 遠くにサイレンの音が聞こえた。
 フィナーレを告げる音。
「・・飯塚さんは・・何故・・?」
 その問いに初めて石原はクシャリとその顔を歪ませた。
 サイレンの音が近くなる。
「・・どこで嗅ぎつけたのか話があると呼び出されたんです。子供の事を持ち出されて・・子供が消えて、妻も自殺しているのはおかしい・・本当はあんたが殺したんじゃないのかと・・。気付いたら転がっていた流木で殴りつけていました」
 言いながら石原はジリジリと僕たちから遠ざかって行く。
「!・石原さん・・!?」
 フワリと穏やかな笑みが浮かんだ。
 そうしてその次の瞬間、白い雲に覆われた空に、まるでスローモーションの様に石原の身体が飛び出した。
「石原さん!!!」
「アリス!」
 慌てて駆け出し、手を伸ばした途端後ろからグイッと腕を掴まれる。
「何で!・江神さん!!嫌やこんなん!!何で!!!」
 叫んだ途端、喉が痛んでヒュッと鳴った。
 抱き込まれたまま見上げた瞳の中には何かを堪えている様な江神さんの顔。
 多分江神さんには判っていたのだ。
 こうなる事が、判ってしまったのだ−−−−−−−−・・・。

********************

 石原の部屋から自白めいた遺書が見つかった。
 僕たちが出た後石原に勧められて睡眠薬の入ったコーヒーを飲んだらしい3人はそのまま病院に輸送された。
 遺書の中に書かれていた納屋の床下から海へと通じる洞窟の中で小さな白骨体と消えた5人の人間が見つかり、石原の遺体は荒れた海に飲み込まれ、今日の捜索は無理だと言う。
「アリス・・行こう」
 海を見つめたまま動かない僕に江神さんの声がかかる。
「・・・どうして・・潮の満ち干きが関係するって判ったんですか?」
 静かな問いに江神さんはカサリとキャビンを取り出した。
「・・お前のな、持ってきたガイドブックに“海食洞窟”言うのがあった。よぅ見て見ると色々な所にあるんや。堂ケ島、田牛、石廊崎、白浜・・・小さいものなら数知れない位ある。しかも潮の満ち干きで道が現れたり、入江が現れたり・・洞窟の入口が現れるのもあるそうや。俺が一番判らなかったのが短時間にモチ達をどこにどうやって隠したかだ。そして・・」
「僕が見た光」
 銜えたキャビンにカチリと火をつけて江神さんはゆっくりと白い煙を吐き出した。
「・・分かれた所で名前を呼んだやろ?それがペンションに帰り掛けていた石原に聞こえない筈がないんや。何よりペンションに帰り掛けていたなら現れる方向が違う」
 そう・・ペンションは崖の右手奥。けれど石原が僕たちの名前を呼びながら現れたのは・・・。
瞬間−−−−−ここにきた始めての朝に、この海を見て浮かんだあの詩が頭に甦った。


海にゐるのは、あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、あれは浪ばかり・・・。


 涙が頬を伝って流れる。
 風が吹いて、穏やかな筈の海を波立たせる。
 人魚の様に美しくて、綺麗なものは居なかった。
 雲が覆い、波立つその海には、悲しくて、切ない呪いがあったのだ。
「・・アリス・・」
 涙が止まらない。
 肩に置かれた手が暖かくて、やるせない。
 もっともっと南に行けば、水平線ギリギリの所に赤く、明るく輝くカノープスが見えるという。
 大きな船の星座の一部。
 男はたった一人で、幸せの星とも言われるその星の舟に乗って海に向かって漕ぎ出したのだ。

 
 海にゐるのは、あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは・・・・


「行くぞ・・」
「・・はい・・・」
 ザンッと音を立てた波。
 それにクルリと背を向けて、僕たちはゆっくりと歩き出した。