「とにかく手分けをして捜しましょう。海岸の方に行かれているならいいが裏手の林を歩いていて間違って足を滑らせたら」
石原の言葉に全員に緊張が走る。
そう、林はそのまま断崖へと続いている。
「女性陣と長内さんはペンションの周辺を捜して下さい。石原さんは」
「断崖の方へ行きます」
「じゃあ僕も」
間髪入れずに言った僕に江神さんがうなづいた。
「俺と信長は海岸の方に下りてみます」
「俺も一緒に」
「お願いします」
自然に指揮をとる様な形になってしまった江神さんの言葉にバラバラと散らばる人影。
蒼い顔をして広間に入ってきた長内氏の話はこうだった−−…「居ないんです・・・」
「居ないとはどういう事ですか?」
シンとしてしまった広間に江神さんの声が響いた。
「部屋にも・・・ここにも・・あの・・・何だか気持ちが晴れなくて、風呂にでも入ってくると言ったら自分は部屋にいると申しまして・・・」
「それは何時頃ですか?」
「部屋に帰ってしばらくして・・・6時半近くです」
「風呂に入っていた時間はどれ位ですか?」
江神さんの問いに長内氏は少し首をかしげて「30分は経たなかった」と答えた。
「つまり・・6時半から7時位の間に居なくなったと。そんな時間に一人で外に出るのはおかしいな」
「モチ」
小さい、けれどはっきりとした江神さんの声に望月はハッとして「すみません」と頭を下げた。それに長内氏が小さく首を横に振って再び口を開いた。
「・・・はじめは気が変わって風呂に入りに行ったのかと思ったんです。けれど段々心配になりまして。どなたか入って居られるとまずいとは思ったのですが女風呂の方をノックしてみました。けれど応答がなく、手をかけたら鍵もかかっておりませんでしたので・・・」
「入ってみたら誰も居なかった」
この確認は織田。
「はい。慌てて部屋に戻っていない事を確かめて、その時石原さんの声が聞こえて・・」
そうして蒼い顔のまま広間に入って来たわけだ。
「でも・・」
「でも?」
小さな声を聞き返したのは江神さんだった。
「望月さんのおっしゃる通りなんです。つき当りの非常用のドアが開いていて・・。私が風呂に入る時は開いていなかったと思うんです・・・」
「・・・おいおい、本気でこんな時間に散歩に出たって言うんですか!?」
「そんな筈ないじゃない!」
飯塚の言葉に藤本がヒステリックな声を上げた。
生方が声にならない息を飲む。
何かが、確かに、僕たちの周りで動いているのだ。
こうして晩餐前の捜索が開始された−−−−−…そこここで「長内さーん」という声とそれに混じって長内氏の「真知子ー」という声がする。
暗闇の中に揺れる非常用のライトの明かり。
断崖に続く林の道を歩きながら僕は混乱しかける頭を必死で動かしていた。
朝、散歩に行くと出かけたきり戻らなかった堤佐絵子。
昼、車を置きに行くといったまま車ごと消えてしまったカメラマンの前島。
そして夜、部屋に残るといって僅か30分足らずの間に居なくなってしまった長内夫人。
これは偶然なのだろうか?
それとも何か見えない1本の糸で繋がっているのだろうか?
ザザンと波の音が高く響く。
「・・・風が結構ありますね」
ポツリとそう漏らした石原に僕はここからでは見えない海の方を見た。
「私はこの上を見てきます」
「一人じゃ・・」
「この辺りはよく判っていますし、江神さん方が行くよりも危険がありません。この細い道沿いに右に真っ直に行きますと国道につき当りますので、もしかしたらそちらに出られているかも
しれません。宜しくお願いします。何かありましたら声を上げ
て下さい。すぐに戻ってきます」
「判りました。石原さんもお気を付けて」
「はい」
少し硬い笑みを浮かべて石原は林の中を進んでいった。
“この上”と石原が言った通り、ここから先は少し上りになっていて断崖へと続いているらしい。灯りが緩やかなカーブを描いて上がって行く。
「行くか」
「はい」
ライトを握り直した江神さんの声に小さく答えてうなづいて僕たちはゆっくりと歩き始めた。
ジャリジャリと靴の下で砂利が鳴る。
無事でいて欲しい、無事でいて欲しい、無事でいて欲しい・・。頭の中に浮かんでくる特徴のある笑顔に、まるで呪文の様に胸の中でそう呟いて、僕は暗い道を歩いて行く。
「・・・長内さんは自分から外に出たんでしょうか?」
沈黙が耐え切れずそう口にした僕に江神さんはライトを前方に向けたまま振り向きもせずに「判らん」と答えた。
「・・堤さんと前島さんが消えたんもやっぱり関係があるんでしょうか?」
「・・ないとは・・言い切れんやろな」
「・・何で」
「アリス?」
「何でこないな事になったんですか?・・何で・」
遣り切れない気持ちのまま僕は思わず問いかけていた。
誰が、何の為に、こんな事をしているのか。
「・・・・その謎を解くには、とにかく長内夫人を無事に見つけんとな。そうやろ?」
「はい・・」
言いながらポンポンと方を叩く手にコクンとうなづいて僕たちは返る答えのない名前を呼びながら歩く足を早める。
程無くして国道につき当り、まばらに行き交う車の流れを眺めつつバス停の辺りまで歩いて、僕たちは再び林の中から出てきた場所に戻ってきた。
ペンションに帰るのならばバス停からの道の方が近いのだが、石原が待っているだろうと思ったのだ。
進んできた細い道を戻りながら僕は再び小さく口を開いた。
「・・海岸の方で見つかっているとええですね」
「・・・そうやな」
けれど上滑りをするような会話が切なくて、又口を噤む。
ジャリジャリと耳に触る砂利の音。
「・・ここですよね?」
やがて石原と分かれた地点に辿り着き、僕はキョロキョロと周りを見回した。が、人の気配はない。
「・・・まだ戻ってきてへんのでしょうか?」
「・・・・・・」
言いながら胸の中にザワザワと嫌な予感が湧き上がる。
なぜ、慣れているからといって一人にしてしまったのか。
後悔にも似た苦い思いが込み上げて僕は思わず大声を出していた。
「石原さーん!長内さーん!!」
けれど返ってくる声はない。
「先に帰ったんでしょうか?」
頭の中ではそんな事はないと思っている事を口にしながら僕は傍らの江神さんを見た。
瞳に映る、林に差し込む月の光に照らされた硬い横顔。
「・・上に行ってみよう」
「はい」
道にならないような緩い勾配のある道を僕たちは1列に並ぶようにして歩き出した。
次第に大きくなる波の音。木々の間から覗く、半分欠けた月とそれに照らされてうねる黒
い海。
それは一枚の絵の様で、けれどなぜかこの世のものではない様なゾクリとする狂気を感じさせた。
その瞬間・・・。
「・・・・あ・・れ?」
「アリス?」
不思議なものを見た気がして、僕は思わず小さな声を上げていた。それに江神さんがいぶかしげな声を出す。
「どうした?」
「いえ・・それが・・」
それは確かに不思議な光景だった。
目指す断崖のシルエットの下方に、何か人工的な光がチラリと一瞬走って消えたような気がしたのだ。
(・・モチさん達がこっちの方まで来とるんやろか?)
けれどそう思ったそばからその仮定は否定された。
そう・・。カーブを描き、まるで小さな入江の様になって突き出すこの断崖の真下は砂浜ではなく海なのだ。
それは今日、松崎に出かける前に海岸に下りて眺めたのだから間違いはない。
「アリス?どないしたんや?」
何も言わずに立ち止まってしまった僕に再び江神さんが問いかける。
けれどそれにどう答えていいのか判らず、自分の見たものをも
う一度確かめたくて、僕は少しだけ海側の方に足を進めた。
ここはまだ断崖の先端ではない。
その思いが僕に安心感を与えた。・・というよりも好奇心の方が勝ったのだ。
「・・アリス・・一体・・」
「ちょっと待って下さい。今・」
近くの木にトンと手をつき身体を捩る様にしながら僕は断崖の方に向けて身体を乗り出した。
その途端−−−−−。
「うわぁぁぁっ!」
「アリス!」
足元がズルリと滑り落ちた。
ザザァッ!と耳もとで草が鳴る。
重力に従って落ちて行く身体。
それに逆らう様に必死に手を伸ばして手当り次第に触れた草を掴む。
ブチブチとちぎれて舞う葉。
そして・・・。
「・・・・・っ・・」
ガクンと身体が反動をつけて止まった。ズルリと僅かに上がって行く身体にハッとして顔を上げると、掴まれた腕の向こうに怒った様な、けれど、ひどく真剣な表情の江神さんが見えた。
「え・・がみ・さん・・」
「口を聞かんでええ。ゆっくりと俺の手首を持つんや」
「は・・い・・」
言いながら、ズルリと落ちそうなそれを堪えて、僕は言われた通りに掴んでいる彼の手首をギュッと握り締めた。
それにホッとした様に息をついて、今度は江神さんが僕の手首を握り直す。
再びホォ‥と漏れ落ちた息。
「・・そのままどこでもええから足をかけて上って来い」
「・・・っ・・」
言われて僕はゆっくりと切り立った土と石の壁に足をかけた。けれどそれは足をかけたそばからザラザラと崩れ落ちて行く。
「・・無理です。足をつくと崩れて・・」
「どこか崩れん場所を探すんや」
「・・・はい」
言われるままに僕は再び足を脆い壁に突き立てた。ザラザラと地滑りをする音がする。掴まれていない方の手で落ちかけた草を握り締め、必死で足をつける場所を探す。
そうして何度目かのそれでようやく見つけた場所に思い切ってグッと力を込めた瞬間、頭上で小さく息を飲む声が聞こえた。
「江神さん!」
「いいから!そこを足掛りに上って来い!!」
「でも!」
伸びたままの腕がひどく痛む。
けれどそれは江神さんも、否、江神さんの方がきっともっと辛いに違いない。
「引っ張り上げてやりたいが、これ以上はちょっと無理そうなんや。せやからアリス、自分で上って来てくれ」
言いながら微笑むその顔が少し引き吊っているのが判って僕はギュッと唇を噛み締めた。
そうして再びバランスを取りながら足を踏ん張って、握り締めた手に力を込める。
「・・・・っ・・」
「も・う・・少しや・・」
「・は・・い・・」
上がる息と吹き出す汗。
頭上で聞こえた励ますような声に小さく答えたその瞬間。
「−−−−−−−っ!」
僕はギシリともミシリともつかない嫌な音を聞いた。
僕が先ほど手をつき、今は江神さんが掴んでいる木が掴んだその枝から裂けてきたのだ。
「江神さん!」
「ええから!!早う上って来い!」
けれどそれは目の前でギシギシと音を立てながら白っぽい肉を顕にしてゆく。
−−−−このままでは二人とも助からない。
瞬間、頭の中を駆け抜けた思考に、僕はビクリと身体を震わせた。
自分の失敗で江神さんを巻き込んでしまう。
「・・・・っ・・」
それだけは何としても避けたかった。
否、何をどうしてもそんな事は許せなかった。
「・・もうええです」
「アリス・・?」
「もう・・ええです。江神さん。もう十分です。やから・・この手を離して下さい」
耳の奥がシンとした。
ザンと一つ高く波が打つ。
頬を伝って落ちてゆく温もり。
泣いてしまった事を知られたくなくて僕は小さく俯いた。
僅かな沈黙。
「・・お前が手を離したら、その後俺もすぐにそこから飛び降りるからな」
「−−−−−−!!」
けれど次の瞬間聞こえてきたその言葉に、僕は慌てて顔を上げた。その視線の先で江神さんがひどく穏やかな、穏やかな微笑みを浮かべている。
「絶対に離さん。落ちるなら一緒に落ちよう」
「江神・・さ・・」
「好きや・・言うた筈やろ?せやから落ちるなら一緒に手を繋いだまま落ちて行こう。けどな、アリス。最後の最後までは諦めたらあかん。二人して落ちるのと、二人して生きるのとやっ
たらどっちを選ぶ?」
「・・・・・生きる・・生きたい・・!」
「俺もや。気が合うな」
にっこりと笑う顔が再び溢れ出した涙で泌んだ。
「アリス、上って来い」
「・・は・・い・・」
コクンとうなづいて僕は又、足に力を入れた。
途端にメキリ‥と鳴るそれが気にならないと言えば嘘になる。
「・・・っく・・」
ザラザラと崩れる小石。
それでも少しづつ、少しづつ、掴んだ腕を頼りに根がむき出しになっているような草を掴んで、引き寄せて、縋りついて、這い上がる。
「・・・っ・・ふ・・ぅ・・」
泣いたせいと、汗のせいで顔がグチャグチャのドロドロになっているのが判った。
流れたそれが瞳に入ってひどく目にしみる。
けれど・・。
「アリス・・」
離せないのだ。
僕は生きたいと言ったのだから。二人で生きたいと。
「・・うっ・・く・・」
顔と胸をこすりつける様にして僕は地面の上に僅かに身体を乗り上げた。その途端グイッと物凄い勢いで引き寄せられてそのまま待っていた腕の中に抱き込まれる。
「・よぉやったな・・アリス」
耳もとで聞こえた声。
「え・・がみさん・・江神さん・江神さん・・」
ハァハァとまだ息の上がったまま僕は子供の様にその名前を繰り返し呼んでいた。その度に大丈夫だという様にポンポンと背中を叩く大きな手。
「・・傷だらけやな・・」
掴んでいた手を解いて江神さんはポツリと呟いた。
「痛むところは?」
その問いに僕はブンブンと首を横に振った。
傷だらけなのは江神さんも同じだ。その証拠にちぎれる寸前の枝を離した手は血が泌んでいる。
「・・すみませんでした」
クシャリと顔を歪めて頭を下げた僕に江神さんは小さく微笑ってもう一度ポンと僕の背中を叩いた。その瞬間。
「江神さーん!有栖川さーん!!どこですか!?江神さーん!有栖川さーん!」
聞き覚えのある声に僕たちはゆっくりと顔を上げてお互いの身体を離した。
「ここです、石原さん!」
声を上げた江神さんに数瞬遅れてガサガサと石原が林の中から顔を覗かせる。
「良かった。戻って来られないのでどうされたか・・!どうしたんですか!?怪我を!?」
ホッとした顔を一瞬のうちに引き吊った表情に変えて石原は慌てて僕たちのそばに駆け寄ってきた。それに江神さんがゆっくりと立ち上がる。
「私は大丈夫です。けれどアリスの方は少し腕を痛めているかもしれません」
「早くペンションに戻りましょう。簡単な応急処置なら出来ますから。骨が折れているようならすぐに医者に行かないと」
「・・大丈夫です。ご心配おかけしてすみません」
余計な心配をかけてしまった事が申し訳なくて僕は江神さんに支えられる様にしながらゆっくりと立ち上がった。
「まさかそこから落ちたんですか?」
「・・ええ・・その・・落ちかけたんです」
無残な木と引きちぎられた草の後に気付いたのだろう。眉間の皴を深くした石原に僕は更に小声になって答えた。
「戻ってきたら石原さんが居らんかったんで、もしやと思ってこちらへ来て・・」
余分な好奇心で江神さんまでとんでも無い事に巻き込んでしまった。僕の言葉に石原は一瞬だけ目を見開いて、次に申し分けなさそうに顔を歪めた。
「それはすみませんでした。分かれた所まで戻ったら居られなかったので国道の方からペンションの方に戻られたのかと思ったんです。行き違いになってしまったようですね」
一度切った言葉をもう一度「すみません」と繋いで、石原はペコリと頭を下げた。
「そんなつもりで言ったんと違うんです!気を悪くなさらないで下さい!」
「判っています。とにかく帰りましょう」
その言葉に僕たちはゆっくりと歩き出した。
見えてきた明かり。
何人かが心配して入口の所に出ている様だ。
これはかなりのマイナスポイントである。
そのまま有無を言わさぬ勢いで救急箱が置いてあるという石原の部屋に連れて行かれ、とりあえず顔を拭き、消毒と痛む腕のつけねに湿布薬を貼って、みんなが居るだろう広間に出てきた僕はふと妙な事に気付いた。
重い雰囲気と、重い表情。
でも、だけど、それだけではなくて・・。
「・・・江神さん・・」
油の切れ掛けたロボットの様なぎこちない動きで、僕は土埃で汚れた服のまま椅子に座っている江神さんに顔を向けた。
「・・モチさんと・・信長さんは・・?」
喉がヒリヒリと痛む。かすれしまった声。
何故か、返ってくる答えを聞きたくないとさえ思った。
けれど・・・。
「居らんのや」
「−−−−−−!?」
強張った表情の僕に江神さんはやるせない微笑みを浮かべた。
実はこのアリスが落ちるワンシーンが書きたくて考えた話だったのですよ。
こういうのってやっぱりいいよねぇ。江神さん好きや・・・。ところでこのモチさんと信長さんが消えるというのがとても驚かれた方が多かったようで、私としては読者様の反応がとても楽しかった思い出があります。