迷宮 〜ラビリンス〜 9

 遅すぎる夕食を申し訳程度に無理やり胃に納め、僕たちは2階へと上がった。部屋に入る間際まで見つめてしまった“太陽”の部屋のドア。
 やりきれない気持ちと不安に唇を噛み締めると、大丈夫だと言う様にポンポンと大きな手が肩を叩く。
 パタンと閉じたドアの音を聞いた途端、僕はクルリと後ろを振り向いた。
「大丈夫ですよね?」
「アリス?」
「・・モチさんも、信長さんも・・戻ってきますよね?」
 縋る様な言葉と視線に返ってきたのは、ひどく、ひどく優しい微笑みだった。
「当り前やろう?俺たちがそれを信じないで他の誰が信じる言うんや?あの二人の事や、何か見つけて“捜査”しとるに決まっとる」
 “そうやろ?”と覗き込まれた顔に少しだけ笑って僕は思わず目の前の身体にしがみついてしまった。
 大丈夫。絶対に大丈夫。きっと又みんなでバカ騒ぎが出来る。
 呪文の様な、祈りの様な言葉を胸の中で繰り返して。
「・・・大丈夫や・・」
「・・はい・・・」
 ザンッと波の音がする。
 風が出てきているのが判る。
 ふいに浮かんできたあの夏の、あの燃える山の記憶。
 ・・・・そう、大丈夫。
 あの時だってちゃんと僕たちは戻ってきた。
 だからきっと今度も大丈夫。
「・・・アリス」
「大丈夫・・きっと・・」
 しがみついたままの胸から聞こえるトクントクンと同じリズムで刻む鼓動。その音を聞きながら僕はそっと瞳を閉じた。
 夜は・・・・・ひどく長かった−−−−−−−−−−。

 ウトウトとしてはハッと目覚める。
 そんな浅い眠りの中、それでもいくらかは眠ったのだろう。白み始めた窓の外を見てベッドからムクリと身体を起こす。隣のベッドでは江神さんが寝息を立てていた。
 僕が起き上がったり、寝返りを打つと「眠れないんか?」と声を掛けてきたので、おそらく眠りに落ちたのは今さっきなのだろう。
 ベッド脇のサイドテーブルの上には僕の持ってきた伊豆半島のガイドブック。これを4人でワイワイと見ていたのが遥か遠い事の様に思えてしまう。
「・・・・・」
 出来るだけ音を立てない様に僕はそっとベッドを降りた。
 なぜだかひどく喉が渇いていた。
 水が飲みたい。
 そう考えると我慢出来なくてドアを開けて廊下に出る。
 パタンと閉じた音。けれど江神さんが起きた気配はない。ホゥッと息をついてそのままゆっくりと階段を降りる。本当は、こんな事をするのはいけないと判っていたがそれでも何でも飲みたいものは飲みたいのだ。それに。
(・・・・夢の中でドアの開いた音を聞いた気がする・・)
 もしかしたら誰かが帰ってきたのかもしれない。
 又は・・・。
「・・・・・っ」
 その瞬間僕はようやく自分がひどく危険な事をしているのに気が付いた。誰かが戻ってきたのならばいい。けれどそれが犯人だとしたら?
 ゾクリと背中が震える。
 見知った者かもしれない、全く知らない者かもしれない犯人。
 鼓動が早まるのに合わせる様にキシリと階段が小さな音を立てた。これで引き返す事は出来なくなった。その音は多分恐らく階下の人間−−誰かは判らないが−−にも聞こえてしまっただろう。
「・・・・・・」
 腹を決めて、なぜか握ってしまった拳に力を入れながら僕は残りの数段を降りると用心をしながら広間へのドアを開けた。けれど、そこに居たのは・・・。
「・・有栖川さん・・?」
「・・い・・石原さん」
 椅子に腰掛け、テーブルの上に肘をついて憔悴しきった表情を浮かべていたのは石原だった。
「どうしたんですか?こんな所で。まさか一晩中?」
 近づきながらの僕の問いに石原は疲れたような笑みを浮かべて小さく首を横に振った。
「いえ・・明け方近くにドアの開く音が聞こえた気がして・・。でも・・・どなたも戻っていらっしゃいませんでした」
「・・・・・・・・」
 その言葉に僕は情け無くも何も言えなくなってしまった。
 夏にオープンする筈のペンション。
 脱サラをして、奥さんを先に亡くして、それでも諦めずに。
 石原には石原の賭けた夢があったのだろう。だがしかし。

 −−−『一日で5人の人間がいなくなったペンション』

 そのレッテルは宿泊施設にとっては致命傷だ。
「・・・・あの・・」
「・・・有栖川さん、カノープスって言うのはこの辺りでは滅多に見られない星なんです」
 いきなりの石原の言葉に僕は開きかけていた口を思わず閉じてしまった。それに構わず石原はまるで自分自身にでも語る様に言葉を続ける。
「日本国内でも“これ以上南天にある星は見えない”と基準にされている星でしてね。もう少し南に行くか、あるいはよほど南の地平線や水平線の開けた所ならばギリギリで見えるかもし
れない。ひどく明るい星なんですが地平線や水平線に近い位置にしか見えない為赤みがかっているんです。中国ではこの星を見つけられると長生きをするとか、幸せになれるとか・・そん
な言い伝えのある星なんです」
「・・・・・」
「ここではその星は見えませんが、でも見えたらいい・・。そんな思いを込めてその名を妻と一緒につけました」
「・・・石原さん」
「・・・・・・食事の支度をします。その後で話し合いをして誰が警察に行くかを決めましょう」
 カタンと立ち上がって歩いて行く後ろ姿に僕はやはり何も言う事は出来なかった。胸の中に込み上げてくるやりきれない様な思い。何が、どこで、どうなってしまったのか?そして、これ
からどうなってしまうのか・・・。
「−−−−−−っ!?」
 瞬間。ポンと肩を叩かれて僕は慌てて後ろを振り返った。
「江神さん・・いつ!?」
「それはこっちの台詞や。目が覚めたら居らんから焦った」
 言いながら江神さんはカタンと脇の椅子に腰掛けてキャビンを取り出すとパサリと髪をかき上げた。
「・・・すみません。あの水が飲みたくて・・それと音を・」
「ああ、もうええよ。それより何の話をしてたんや?」
「え・・?・・ああ・・カノープスの」
「カノープス?」
 その途端パタンと奥の扉が開いた。
 入ってきたのは一晩で5つ位年をとってしまった様な長内だった。
「・・おはようございます」
「おはようございます」
 ペコリと下げられた頭に同じくペコリと頭を下げる。
 ついで階段側のドアが開いて生方と藤本が顔を覗かせた。
 おそらく階下が騒がしくなってきたのを聞いて降りてきたのだろう。
「・・おはようございます」
「おはようございます。朝食がすぐに出来ますので、それを済ませましたら話し合いをしましょう」
 石原の言葉に藤本は少し疲れた様に「判りました」と答えた。
 そしてその次の瞬間ふと気付いた様に広間を見回した。
「・・・あら・・そう言えば三文ジャーナリストはまだ起きてこないの?」
 早朝からの痛烈な言葉。けれど何故か江神さんがパッと顔を上げた。
「・・ノックでもして起こしてきましょうか?」
「いいわよ。そのうち降りてくるでしょう?わざわざ迎えに行って不快な思いを」
 生方の言葉に相変わらずの様子で藤本が答える。
 それを遮る様に江神さんが口を開いた。
「アリス」
「はい・・?」
「さっき音って言うてたな。何の音や?」
「え・・?・・・あ・・ああ・・何やドアの開いた音を聞いた気がして。石原さんもさっきそう言うてましたよね?」
「ええ・・明け方近くにそんな音を聞いた気がして起き出してきたんです。でも誰も・・」
 広間に再び嫌な緊張が走った。そのまま何も言わずに階段に向かった江神さんの後を僕は慌てて追い駆ける。
「飯塚さん・・飯塚さん!・・・飯塚さん!」
 トントンというノックの音が名前を呼ぶ度に大きくなって、答えがないのを確かめてから江神さんは“鳥”の部屋のドアノブをクルリと回した。
「−−−−−−−−!」
 それは予想に反して、或るいは予想通りに、いとも簡単に回った。開かれたドア。晒された室内。
 そこには−−−−−−誰も居なかった。
 新たなる犠牲者。
 誰もがそう思った。
 けれど他の者たちと違って彼はすぐに見つかった。


 −−−−そう・・。
 夕べの様に、けれど夕べの轍を踏まない様に、全員で捜しに出た海岸で飯塚は変わり果てた姿で倒れていたのだ。



さて・・・もう犯人は判ってしまわれたでしょうか?