Magical!Miracle!days5

  

火村の家、もとい、火村の下宿先、篠宮家での飼い猫生活は快適なものだった。
 火村が言っていたように子猫は小腹が空くらしく、ほんの少しで満腹になってしまい、その辺をうらうらとしているうちにすぐに眠たくなってしまう。そうして起きればまた空腹になっている。そんなひどく単純な事の繰り返しだった。
 大家である『婆ちゃん』こと篠宮時江はそんな有栖を見て、マメに餌を与えてくれた。
 ミルク、おかかの入った柔らかめの御飯、そして有栖はここで生まれて初めてキャットフードという代物を食べた。
 コーヒーの時で実証済みなのだが味覚も猫になっているらしく、キャットフードは美味しかった。
(キャットフードをうまいと思って食べたのなんて、それを作っている業界人と俺くらいなんやろなぁ・・)
 窓から差し込む日差しでポカポカになっている机の下の座布団の上で丸まって有栖はぼんやりとそんな事を考
えていた。
 ここに来て6日が過ぎようとしている。もっとも初日は連れてこられたのが夜だったので実質的にはまだ少し足りないのだが、もうそんな時間が経ってしまったのだ。
 そう・・・・猫になってしまって一週間という時間が経過しようとしていた。
 けれど元に戻れる手がかりは何一つないと有栖はふぅと小さく溜め息を落とした。
 夕べ、火村がこの部屋に戻ってきたのは11時位だった。その前は10時近く。その前はそれよりももう少し前で、更にその前は・・・。
 日ごとに遅くなってゆく火村の帰り。今日はもしかすると日付が変わってしまうかもしれない。朝もずいぶんと早くから出ていった。
 判っている。仕事とまだやり残されている事のある先日のフィールドワークの合間に火村は有栖を探しているのだ。
 その証拠に3日前、火村からは病院の匂いがした。
 彼自身がどこか怪我をしているわけではない。おそらくここに連れてこられて日のようにどこかの病院を訪れたのだろう。
 毎日火村がどこをどのように探しているのか今の有栖には全く判らなかった。
 けれど遅くなって行く帰宅時間と同じように日ごとに
その顔に刻まれてゆく憔悴感。
 それを見るたびにこんな顔をさせているのは自分なのだと有栖は胸が痛むような気持ちになる。
 けれどそれと同時に頭のどこかで『どうして火村はこんなにも一生懸命探してくれるのだろう』と思う自分がいる事を有栖は気付き始めていた。
 確かに学生時代からの友人で、親友と呼ばれる間柄だと思う。有栖自身、これが反対の立場で火村が突然居なくなってしまえば彼の消息を探すだろう。
 もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのではないか。そんな心配だってするに違いない。
 けれど、うまく言葉では表せないのだけれど、何かに追いつめられたような、切羽詰まったような、まるで・・
そう、こんな風に言うとひどく自惚れているとか自意識過剰とか言われてしまうかもしれないと言う自覚はあるのだが、まるでかけがえのないものを失って探しているようなそんな気がしてしまうのは何故なのだろう。
 火村は己の懐にいれたものに関してはひどく優しいし面倒見がいいが、時として驚くほどクールで、彼自身が見る夢の話のように容赦なく人を寄せ付けない所もあるのだ。
 だから今回のこれで火村がこれ程までに必死になっているのが有栖には有り難くもあり、同時に奇妙な違和感を感じさせた。
 今までにだって一週間くらい会わない事も、連絡を取らない事はざらで、へたをすれば一ヶ月、それ以上なしのつぶてで「よぉ、生きてたか先生」等と飄々と有栖のマンションにやってくる事だってあったのだ。
 勿論有栖自身はあの日火村がやってきてくれてとてもとても助かったのだけれど、今の火村の状況をどう受け止めればいいのだろう。
 たまたま自分がやってきた時に、長年の友人がどう考えてもおかしな状況で姿を消し、その後の消息が掴めなくなっていると言う事に何かの事件性を感じているのだろうか。それとも他に何かが有るのだろうか・・・?
“他って・・なんや・・”
 日の当たる座布団の上で有栖は唸るようにそう呟いた。そしてたった今浮かんできた疑問以外にも色々と考えるべき事をしっかりと思い出して有栖は眉間の辺りに小さく皺を寄せる。
 考えるべき事。
 それは一度火村が変わらずそのままなら・・・と答えを出した事だったが、有栖は改めてそれを考えていた。
 否、考えなければいけないと思ったのだ。
 あの日なぜ火村は有栖に口づけたのか。
 無防備すぎだという台詞はどういう意味なのか。
 そして今までにもそんな事があったのかもしれないという可能性。
 けれどそんな事を微塵も感じさせなかった火村の意図は何なのか。
“・・・・俺が鈍いだけか?”
 何となく当たらずとも遠からじと言った事を呟いて有
栖は更に思考を進める。
 考えなくてはならない事はそれだけではないのだ。
 考えると怖いと思っていた自分自身の事も、この際きちんと考えなければならない。多分これはどこかで繋がっている。
 なぜ口づけをされた事を【こんな事】としか思えなかったのか。
 どうしてそれを【こんな事】にしてまで自分は火村との関係を壊したくないと思ったのか。
 そして、どうしてあの日自分が気付いていた事を火村に知られたくないと思い、酔っていたとか、覚えていないとか、「悪かった」と謝られる事を嫌だと思ったのか。
 自分は一体どうして欲しいと思ったのか。
“・・・・・・ほんまに・・考える事だらけや”
 一度放り出してしまったそれは考え直してみればこんなにも判らない事がたくさんあった。
 思わず漏れ落ちた溜め息。
 とその瞬間、ふと視線を感じて振り向くと、ふいと視線を逸らして歩いて行くこの家の飼い猫、瓜太郎の姿が見えた。
“ウリ・・”
 けれど彼は声をかけると逃げるようにしてどこかに行ってしまった。
 クスリと零れる小さな苦笑。
 落ち込んでばかりはいられないとここに来た翌日、有栖は訝しげに様子をうかがっている3匹の猫たちに思い切って声をかけてみた。
 けれど結果は惨敗で彼等の言葉も有栖には「ニャーニャー」としか聞こえなかったし、おそらく有栖の言葉も彼等には伝わらなかったのだろう。それどころか、3匹は何かを感じているらしく、有栖の事を遠巻きに見るだけで決してそばに寄ってこようとはしなかった。
 猫にもなれず、人間にも戻れない。自分はなんて中途半端な存在なのだろう。
“・・・・・今頃講義でもしとるんかなぁ・・”
 雑多な机の上に置かれた時計は2時を少し回っている。
 今日は何時に帰ってくるのだろう。「ニャー」としか聞こえなくても「お帰り」と言ってやりたい。
“・・・ほんまにどないしたらええんやろ・・”
 自分はどうしたいのか。
 そして火村はあの口づけで眠っている有栖に何を伝えたかったのか。
“・・・・どうにか俺がここにいるって事だけでも君に伝わったええのに・・・”
 そうすれば少なくともあんな風に疲れ切った彼を見なくてすむ。
 そうして・・・それから・・・。
(・・・いっそちゃんと起きている時にキスでもかましてみたらはっきりするかもしれへんな)
 見え始めているようで見えない答えはひどくまどろっこしくて苛々とする。
“人の寝込みを襲ってキスする位なら、今の俺の言葉くらいテレパシーでも使って理解しろ、アホ火村!”
 今の自分にとってはひどく高い位置にある窓から冬晴れの空を眺めてそう言うと有栖はポカポカの座布団から下りて、未だ成功を見ていない階段下りを練習するべく歩き出した。
 
 
 
 
************************ 
 
 
 
 
 
『じゃあ、やっぱりまだ帰られてないんですね・・』
 受話器から聞こえてくる落胆を滲ませた言葉。
 それに「ええ」と短く返事をすると電話の相手、有栖の担当である珀友社の編集者片桐光男は「僕ももう一度他を当たってみます」と言って電話を切った。
 切れてしまった電話を戻して火村はふぅと息をつく。 有栖の予想を外して火村は大阪府警を経由して有栖のマンションに来ていた。
 先日のフィールドワークがほぼ片が付き、容疑者が決まった。すでに自白も始まったのであとは証拠を一つ一つ固めて行くだけだ。火村の出番はない。
『有栖川さんはまだ見つからんのですか?』
 府警を後にする際、眉間に皺を寄せた船曳からそう言われ火村は「これで温泉に行ってたとか現れたら容赦なく2.3発は殴らせて貰いますよ。勿論その後であいつの奢りでフルコースでもご馳走になってね」と言ったが船曳の心配げな表情を消す事は出来なかった。
 それ程自分はひどい顔をしていたのか。
 苦い思いを噛み締めて火村は胸ポケットの中からキャメルを一本取り出した。
 そうして思い出したように留守電を解除して全てのメッセージを聞くと、すでにいっぱいになっていたテープを取り出し、新しいものに入れ替える。
 入ってきたと同時にかかってきた片桐からの電話で忘れていたが今日はこれをする事が目的の一つだったのだ。
 火村自身日に2度、朝と夜にメッセージを入れていた。 おそらく片桐も、そしてその他の人間からも何度か同じようなメッセージが入っていた。
 朝の時点でメッセージが入れられなくなっている事に気付いて火村は新しいテープを購入してきたのだ。
「・・・・・」
 銜えた煙草に火を点けて火村はふぅと白い煙を吐き出した。
 6日前と変わりない室内。
 何か忘れている事がないかと記憶を辿るようにしながら火村はゆっくりとリビングを歩き始める。
 そう、一週間前ここに来た時、玄関のドアは鍵が掛けられていなかった。だから又かと思い怒鳴りながらここに入ってきたのだ。そうしたらドアを開けた途端子猫に飛びつかれた。
「・・・・・・」
 思いながら床に目を落として火村は更に記憶を探る。
 フローリングの上には脱ぎ捨てられた洋服。
 しかも下着まであって、これがまた無精極まりなく一枚一枚脱いだわけではなく子供並にずるりとまとめて脱いだという状態だったので呆れかえった記憶がある。
 無論それは今は脱衣所の洗濯用の籠の中に入っている。火村がそこに入れたのだ。
 それから・・・
 ユラユラと紫煙を揺らしながら火村は今は何もないソファ前のテーブルの上を見た。
 そう・・。そこにはコーヒーを飲んだ後のカップがそのままあった。
 そしてその下にはその日に届けられた段ボール箱があり、そこに入っていた本がテーブルの上に重ねられていたのだ。
 それらの本を片桐が送ってきた事はすでに確認済みだた。更にその荷物を午後1時頃確かに有栖自身が受け取った事もすでに調べて判っている。
 有栖は1時までは、確かにここにいた。
 そして火村が電話をかけてくる1時10分くらいまでは・・・。
 そこまで考えて火村はふと自分が電話を掛けた時、有栖が居たかもしれないと思った。有栖は鍵の閉め忘れと同様に留守電を解除し忘れる事も多い。
 もしもその時がそうだとしたら、有栖はなぜ火村からの電話を取らなかったのだろう。
 荷物の受け取りと重なって留守電になってしまったとしても、なぜその後で電話をかけてくるなり、現場に来るなりしなかったのか。
 有栖が居たというのはあくまでも火村の中の仮定だったが、それはひどく苦い何かを胸の中に湧き上がらせた。
 もしかして、有栖は火村を避けたかったのではないだろうか。
 わけもなくそんな事をする人間ではないのはよく分かっているが、有栖がそうしたくなってしまうような訳があれば別だ。
 あの夜。研究会で色々と叩かれて無性に顔が見たくなって訪れた日。火村は床の上で眠り込んでしまった有栖に掠めるようにキスをした。
 有栖の事を好きだという自覚はあった。
 そう言う風に好きなのだと言う事も判っていた。
 無論それを言うつもりも、自分の感情を押しつける気も火村にはなかったのだ。
 けれど・・・。
『無防備すぎだ、馬鹿』
 初めて触れた唇。
 まるで有栖自身が悪いのだというようにそう言って自己嫌悪を抱えながら急いで離れた。
 気付いていないと判っても翌朝顔を合わせる事が嫌でそれ以上に妙なところで聡い有栖に何か伝わってしまうのではないかとメモを残して出てくるような真似をした。
 けれど、もしかすると有栖はそれを判っていたのではないか。
 火村がしてしまった事に驚いて、嫌悪感を抱いて、情けなくもフィールドワークにかこつけて様子を探りに電話をした自分から逃げてしまったのではないか。
「・・・・・馬鹿か・・」
 妄想にも似た考えに火村は薄く嗤って長くなった灰をテーブルの上の灰皿にトンと落とした。
 もしそうだとしたら脱ぎっぱなしの服は何を意味するのか。開け放したままの玄関は何なのか。第一有栖の車は地下駐車場にある。それに・・・。
「・・・・・」
 煙草を銜えたまま火村はリビングボードの棚をガサガサと漁った。
 4日前に部屋の鍵を取り出した時の記憶の通り、そこには有栖の財布と免許証と、車のキィが入っている。
 更に荷物の受け取りに使ったらしい印鑑はボードの上に転がっているし、もっとよく調べれば通帳だの保険証だのの類も出てくるに違いない。
 それに有栖のワードロープを全て把握しているわけではないが、この所気に入って着ていたダッフルコートは寝室の壁に掛けられていた。
 こんな状況を見ればこれもまたかなり異常だが〈身元が分からないように裸に向かれてどこかに連れ去られてしまった〉と言う方がまだ現実味がある。
「・・・・っ・・」
 思った瞬間胸の中に広がる苦い思いと押し潰されそうな不安感。
「・・・俺に身元不明の死体を確認して回らせるつもりか、アリス・・・」
 短くなったキャメルを灰皿に押しつけて火村は呻くようにそう言った。
 正直言ってこれ以上どうする事も出来ないのだ。
 友人に協力をして貰い有栖の実家にも電話を入れてみた。
 病院ももう一度調べて、もしかしたら身元不明ではなく名前は判っているのかもしれないと探してみた。
 取材旅行とか原稿の締切とか、或いは作家の仲間うちで何かが有るのかもしれないと思い片桐経由で珀友社以外で有栖が過去に関わっている他社や知り合いにも問い合わせをした。
 けれど有栖の手がかりはどこにもない。
 以前廃線を回っていてとんでもない事に巻き込まれている経験もあるので或いは誰も知らずにどこかをフラフラとしているのかとも考えたが、それならばそれで、何かの資料が有るだろうと勝手に覗いたフロッピーにも、机の引き出しの中にもそんなものはなかった。
「・・・・・・・」
 取り出した2本目のキャメルに火を点けて火村はドカリとソファに腰を下ろした。 
 居なくなってその人間に価値が判るとはよく言ったものだと思う。
 隣にいる時でさえ『好きだ』という感情を持て余す程大事な存在だったのだけれど、こんな風に突然かき消すように姿を消されてどうしていいのか判らない。
 あの存在に自分はどれほど救われ、助けられ、そして甘えてきたのだろう。
「・・・・生きていてくれ・・」
 もしも先刻の妄想の通り、有栖が火村に会いたくないと言うのならば二度と会えなくてもいい。
 けれどどこかにいると、生きているのだと判ればもう何も望まないとさえ思うから。
 白っぽい午後の光が主のいない室内を照らす。
 そのひどく無機質に感じる空間の中で火村はただ黙ってキャメルを燻らせていた。


何か火村がシリアスに・・・・・・