Magical!Miracle!days6

  

「・・・ただいま」
“!!”
 カラカラと開いた玄関の音。
 聞こえてくる他の猫たちの「ニャーニャー」という出迎えの声と「お帰りなさい」という大家の声を聞きながら有栖はワタワタと階段に行きコクンと喉を鳴らして一段一段が驚くほど高い階段を怖々と降り始めた。
 今日はもっと遅くなると思っていたが火村は珍しく9時過ぎには帰ってきた。
 それならば玄関まで行って声をかけてやるのが礼儀だろう。
 わけの判らない使命感に燃えて、下りるというより一段ずつ飛び落ちると言うように有栖が木製の階段と格闘しているとトントンと足音が聞こえて火村の方が先に登ってきてしまった。
「・・・・何をしているんだ、チビすけ」
 下から睨まれるようにして声をかけられたその瞬間ヒョイと身体を持ち上げられて有栖の挑戦は昼間と同様3段で終わった。
 ちなみに昼間は餌を運んできてくれた婆ちゃんに見つかって連れ戻されたのだ。
「こんな所に居たら踏みつけるぞ、全く」
“だって・・・お帰りって言いたかったんや”
 情けなくそう言った途端そっと部屋の中に下ろされて有栖はトボトボと本の山と本の山の間に入り込み悲しい気持ちでそこにしゃがみ込んだ。
 その途端聞こえてくる溜め息の音。
 それは火村が疲れている証拠であり、バサリと荷物を置き、ドカリとテーブルの前に座ると火村は子猫の事など全く玉にないようで、眉間に皺を寄せたまま胸ポケットの中からキャメルを取り出して吸い始めた。
 立ち上る紫煙。
 息苦しいような沈黙が支配している室内に、火村の後をついて2階に登ってきたらしいウリはピクンと耳を動かすと部屋に入らずそのまま階下に下りて行ってしまった。けれど今の火村はウリが来た事さえ判らなかったに違いない。それ程ピリピリとした何かをまといつかせている火村に有栖はたまらず本の間から顔を覗かせて小さく口を開いた。
“・・火村”
「・・・・・・」
 けれど火村は小さな声など気付かない。
“なぁ、火村、なんでそんなに俺の事を探してくれるんや?”
「・・・・・・」
 それでも振り向かない厳しい横顔。
“そりゃ俺かて君が居なくなったら絶対に探すけど、なんでそんな顔してるんや?”
 切なく聞こえる鳴き声に火村はハッと我に返ったような表情をして次にらしくない微かな笑いを浮かべた。
「何だよ、お前、そんなところで。婆ちゃんから餌を貰ったんじゃないのか?」
“・・・・・”
「腹が減っているんじゃないのか?」
“・・・・・”
「おい・・何とか言えよ、チビすけ」
“・・・ちびすけやないわ、アホ・・”
 それは確かに有栖の知っている火村ではなかった。
 火村はこんな風に弱った顔を有栖には決して見せなかった。
 では今、目の前に居るのは誰なんだろう。
「そんなところに居ないでこっちに来いよ。怯えてるのか?さっきいきなり叱ったのは悪かったよ」
 小さく揺らされた指に、有栖はそっと本の山の間からから出てきた。
「・・・いい子だな」
 途端に止まった足。
 この一週間で猫扱いされる事に馴れつつあるが、それでもやっぱりこう言われると背中がムズムズする気がする。けれど勿論そんな有栖の気持ちが理解出来る筈もなく、足を止めてしまった有栖に火村はもう一度「おいで」と指を動かした。
「さっきはあんなに鳴いてたくせに。まだ煙草に馴れないのか?」
 そう言って火村は最初の日と同じように吸いかけのキャメルを灰皿の上で揉み消して「ほら」と何もない両手を有栖に向かって広げて見せた。
 これは知っている。
 今居るのは確かに有栖の知っている火村英生だった。
「よしよし・・・」
 言葉と同時に抱き上げられて、膝の上に乗せられて、次いでワシャワシャと頭を撫でられて有栖はジタバタと手足を動かした。
“何すんねん!痛いって、死ぬやろ!身体の大きさの違いを考えろ!アホんだら!!!”
「いてて、噛むなよ、チビすけ。判ったから引っ掻くなって・・」
“何が判ったんや!アホ!!俺は全然、何にも、これっぽっちも判らんわ!!”
 ゼイゼイと身体で息をして有栖はふぅーと小さな唸り声を上げた。それに小さく笑いながら、火村はひどく優しく小さな背中を撫でる。
「・・いい子だな・・」
“やかましい。いい子になんてなってられるか・・ほんまにもう判らん事だらけや”
 言葉は低い唸りに聞こえた。
「・・・・何だよ、まだ怒ってるのか?」
“そうや。大体君がキスなんかするからこんな事になったんやで。どないしてくれるんや!”
「もう怒るなよ。ほら・・。ああ・・お前ひどいな、毛繕いも出来ないのか?口の回りなんかバリバリのベタベタじゃねぇか」
“当たり前や、そんなん出来るか!こっちはまだ猫歴1週間なんや・・しかもこんな何にも・・・階段もまともに下りれない子猫やなんて。しかも色々考えようとしているうちに腹が空いたり眠くなったりするんやで?最悪や・・”
「拭いてやるから大人しくしてろよ」
“いやや、噛んでやる!”
「おい、だから噛むなよ」
 アグアグと口を動かしながら有栖は自分が本当にちっぽけな存在になってしまった様な気がしてひどく悲しくなってきた。
 色々考えた事をまとめる事も出来ない。
 火村と話し合う事も出来ない。
 自分が有栖川有栖なのだと知らせる事も出来ないし、自分のせいで疲れている火村に何一つしてやれないどころか世話をしてもらう存在でしかない。
 彼に言葉が通じないのが判っていてキスをしたからこうなったのだと喚いている。それは聞き分けのない子供と一緒だ。
 判っている。
 判っているのだ。
 この姿でももしかしたら出来る事が有るかもしれないと考えるべきなのかもしれないと、それは判っているけれど、でも、だけど、有栖は有栖として火村の隣に居たいのだ。
 こんな小さな身体では何かがあった時に彼の枷になる事も支えになる事も出来やしないではないか。
「・・・チビすけ?」
 シュンと耳を垂れて膝の上で蹲るようにして丸くなってしまった有栖に火村は訝しげな声を出した。
“・・・・・・”
「何だよ、怒った次は拗ねるのか?本当に飼い主にそっくりだな」
“・・・・・・”
 落ちた沈黙。
 やがて火村は小さな溜め息を落とした。
「・・・なぁ、本当にあいつはどこに行っちまったんだろうな」
 言いながら火村は再び有栖の背中を撫で始めた。
「どこを探してもいないんだ。あいつの仕事関係の方も
もしかして事故でもと思って当たった病院も、実家も、どこにもあいつの痕跡がない。俺のフィールド関係の何かに巻き込まれたのかもしれないと資料を漁り始めているのだけどそっちもあまり成果はないし・・」
 苦しげな言葉にそっと顔を上げると先刻と同じ、有栖の知らない火村が居た。
「俺はお前にお前の飼い主を見つけてやれるのかな・・」
 切ない響きを持つ言葉が火村の口から零れ落ちる。
“・・・・・・”
「俺は・・・・」
 途切れた言葉。
 けれど次にゆっくりと続けられた言葉は有栖が思ってもいなかった言葉だった。
「・・・あいつに嫌われちまったのかもしれない」
“火村!?”
 有栖は慌てて身体を起こして火村を見上げた。
 重なる視線。
 その視界の中で火村は有栖が見た事のない弱い笑みを浮かべて見せた。
「・・・俺はな、あいつが好きだったんだ」
“!!”
「ずっと・・もうずっとアリスが好きだった。でもそれを言うつもりはなかった。今のまま、このままの関係でいいと思っていたんだ」
“・・・・”
 判らないと思っていた答えの一つが火村の告白という形で飛び込んできて有栖はただ茫然と目の前の顔を見つめていた。
 そんな子猫を見つめながら火村はまるで懺悔のように言葉を続ける。
「それなのに俺は酔い潰れて眠っちまったあいつにキスをした。あんまり人を信じ切って、無防備で、腹が立って、抑えきれなかった。最低だろう?罪悪感と後味の悪さに耐えかねて翌朝は顔も見ずに帰ってきちまった。それがあいつを見た最後なんだ」
 一つずつ火村自身によって解き明かされてゆく疑問に有栖は言葉を失ってしまった。
 なぜ火村はキスをしたのか。
 無防備だという言葉の意味は何なのか。
 今までにそんな事があったのか。
 どうしてそんなに必死になって火村が有栖を探すのか。
 答えはただ一つの事を差していた。
「でも眠っていたと思っていたあいつはもしかしたら気がついていたのかもしれない。俺がした事を知っていたのかもしれない。あいつがいなくなった日、電話をした時もあいつは居たのかもしれない。そうして俺から逃げたのかもしれない」 “違う!!”
 段々独白めいてきた火村の言葉に有栖は引きつるような声を上げた。
「・・・・なんだよ、チビすけ。慰めてくれるのか?」
“・・・アホ・・慰めるのとちゃうわ。君があんまり勝手な想像するから止めただけや”
 けれどその言葉も火村には猫の声にしか聞こえないのだ。
 再び落ちた沈黙。
 そしてそれも又火村が破った。
「・・・なぁ、チビすけ。あいつは生きているよな?」
 それは本当にひどく弱くて、ひどく切ない声だった。
“・・・当たり前や、アホ。勝手に殺すんやないわ”
「・・・・・俺に会いたくないならそれでもいいんだ」
“本当はそんな事、思っていないくせに・・”
「それでいいんだ・・・だから・・」
“・・・・”
「アリス・・」
 呼ばれた名前に有栖はついに涙を零した。
 猫になって3度目の涙だった。
 そして猫になって初めて、どうしてもどうしてもどうしても元に戻りたいと頭が痛くなるほど真剣に願って泣いた涙だった。
 猫になってしまった自分を悲しむ訳ではなく、理解できない現象を受け止めきれない訳でもなく、途方に暮れて泣いた一度目の涙とも、置いて行かれて不安で泣いた二度目の涙とも違って、ただ純粋に、自分の為に、そして何よりも『アリス』を思う火村の為に元に戻りたくて有栖は思い切り、泣いて、泣いて、本当に目が溶けてしまうのではないかと思うほど泣いた。
「お・・おい・・チビすけ!?嘘だろ?何泣いてんだって・・マジかよ・・うわっ鼻水も・・」
 「猫の泣き顔なんて初めてだ」と慌てながら火村は有栖の顔を濡れたタオルで綺麗に拭いてくれた。
 それでも綺麗にして貰ったそばから泣いて、有栖のうす茶色の毛は顔の所だけが濡れてペッタリとして間抜けな事になってしまった。
 そうして泣きながら有栖はようやくようやく気付いたのだ。
 なぜ火村に自分が気付いていた事を知られたくなかったのか。
 なぜ覚えていないと言われる事も、酔っていたのだと言われる事も、そして悪かったと謝られる事も嫌だったのか。
 そして、キスをされた事をなぜ【こんな事】と思えたのか。 
 火村の告白(ざんげ)を聞いてやっと自分の気持ちが判るなんてやっぱり鈍いのかもしれないけれど、それは寝込みを襲われた事で帳消しになるだろうと有栖はようやく涙が止まり、泣きすぎてシパシパとする瞳で火村を見た。
「・・・何だよ」
 腕の中から見上げる火村はやはりどこか少しだけ有栖の知っている火村とは違って見えた。
 自分の知っている火村と知らなかった火村。
 それがどうという訳ではないけれどこれからは両方の彼が見たいと有栖は思った。
 とりあえずはとにかく人間に戻らなければならない。
 何としても、どうしても、有栖川有栖に戻らなければならない。
 そして言うのだ。
『キスをされた事を【こんな事】と思う位、俺も君が好きだ』と。
 そうしたらこの男はどうするだろう。
 驚くのだろうか。
 それとも少しだけバツが悪いような表情を浮かべた後にどこか皮肉気な笑いを浮かべて「そりゃどうも」位は言うだろうか。
 そんな事を考えていると微かに眉を寄せた火村が有栖をじっと見つめながら小さく口を開いた。
「・・・なぁ、チビすけ。お前もしかしたら人間の言葉が判るのか?」
 膝の上に抱きかかえた子猫に向かってこんな事を真面目に言う助教授を見たらきっと学生達は驚くに違いないと有栖は思った。
「・・・・・まさかな・・」
 けれどすぐさまそう言って火村はキャメルを取り出した。
 カチリと点けられた火。
 室内に香り始める独特の匂い。
 そして・・・
「・・でも、もしも・・・」
 ポツリと漏れ落ちた言葉。
「もしも判っているならさっきの話はあいつにだけは内緒にしておいてくれ」
 ニヤリとした笑いと共に告げられたその言葉に有栖は吹き出したいような気持ちで「ニャー」と猫の鳴き真似で返事を返した。


ヒヤヒヤしていた火村ファンの皆様。これで少しは報われましたでしょうか?
ええ、結構この連載中にも火村先生が可哀相という感想いただきました(笑)
さあ、あとはハッピーエンドに一直線!!!