Magicalmirror or Kitten!!

   

 ある日、目が覚めたら、猫になっていた事がある。
 薄茶色の小さな子猫。
 物を食べればすぐに眠くなってしまい、階段さえ満足に下りる事の出来ないちっぽけな存在。
 先祖に猫に化けられた者が居たなどと聞いた事はなかったし、よもやまさか自分がそんなものになってしまうなんて当たり前だが思ってもみなかった。
 だが、しかし、けれど・・。
 それは夢ではなく現実で、寝ても起きても、必死によじ登ったテーブルから飛び降りて頭から床に激突してみても本当に、本当に、本当に!紛れもなく「ニャー」としか喋れない小さな小さな薄茶色の猫でしかなくなってしまったのだ。
 一体どうしてそんな事になってしまったのか。
 それは、その日から遡る事3日。
 1ヶ月ぶりくらいにやってきた十数年来の親友が発端となる。
 彼、英都大学社会学部助教授の火村英生は、フィールドワークと称して、警察から声のかけられた事件現場に足を運び、その捜査に協力をしていた。
 暦の上では春になったと言ってもまだまだ寒さの厳しい2月の半ば。
 火村は今までとなんら変わりのない様子でマンションにやってきた。そしてこれまた何の変わりもなく何だかんだと話をしながらビールを空けて。そうして、何の変わりもなく簡易宿泊施設よろしくリビングのソファーで寝る・・筈だった。だがしかし、そうはならなかったのだ。
“アリス?眠っちまったのか?”
 酔って床の上に寝転んでしまう事など今までにも何度もあった事だった。
“おい、起きろよ。アリス”
 呼ばれた名前に返事をするのも目を開けるのも億劫だった。
“・・・アリス”
 繰り返された名前。次いで微かに触れた、少しだけ冷たい唇。
“無防備すぎだ、馬鹿・・”
 聞こえてきた声は、初めて聞くようなどこか切なくて、苦しげな声だった。
 だから、と言っていいものなのかは判らないが、けれどその時はどうしてそんな事をするのだと尋ねる事も、それ以前に目を開ける事さえ出来なかったのだ。
 そうして3日後。
 かかってきた電話に一瞬逃亡を企てたバツか、はたまたその時手にしていた本の影響で猫になってしまいたいなどと思ったせいなのか。
 考えながらいつの間にか眠ってしまい、目が覚めた時には何の冗談なのか本当に猫になってしまっていたのだ。
 はじめはどうすればいいのか判らなくて泣いた。
 これから一体どうすればいいのか。人間に戻る事が出来るのか。不安で、怖くて、悲しくて涙が出た。
 そうして次には、やってきた火村に置いて行かれてしまう心細さに泣いた。
 けれど、子猫になったお陰で気付いた事もあったのだ。
“来るか?チビすけ。俺の所であいつを待つか?”
 そう言って抱き上げられた身体。
 連れて行かれた火村の下宿で、見つからない自分を捜している男を見て、なぜそこまでしてくれるのか。日に日に悪くなっていく顔色に、けれどどうする事も出来ずひどく胸が痛んだ。
 多分自分も彼が突然いなくなったらきっとこんな風に探しただろう。
 それでも初めて見る彼の余裕の無さに浮かぶ疑問。
 何故火村はこんなに必死になって探してくれるのだろう。こんな風に追いつめられたような、切羽詰まったような、まるで・・・自分で言うのもおかしいが、かけがえのないものを失ってしまったような彼の様子に、猫になってしまう前も、勿論猫になってからも何度も考えたあの『口付け』の理由がひどく気になった。
 そして何よりずっと目を逸らし続けていた自分自身の気持ち。
 なぜ自分はその『口付け』を気持ちが悪いとか、付き合いを切ろうとか、責める様な気持ちではなく【こんな事】位でと思っていたのだろうか。
 答えはひどく疲れ切った火村の言葉の中にあった。
“・・・なぁ、本当にあいつはどこに行っちまったんだろうな。どこを探してもいないんだ。あいつの仕事関係の方も、もしかして事故でもと思って当たった病院も、実家も、どこにもあいつの痕跡がない。俺のフィールド関係の何かに巻き込まれたのかもしれないと資料を漁り始めているのだけどそっちもあまり成果はないし・・”
 苦しげな言葉にそっと顔を上げると見た事のないような不安気な火村が居た。
“俺はお前にお前の飼い主を見つけてやれるのかな・・”
 切ない響きを持つ言葉だった。
“俺は・・・・”
 途切れた言葉。
“・・・あいつに嫌われちまったのかもしれない”
 浮かんでいる弱い笑み。
“・・・俺はな、あいつが好きだったんだ。ずっと・・もうずっとアリスが好きだった。でもそれを言うつもりはなかった。今のまま、このままの関係でいいと思っていたんだ”
 判らないと思っていた答えの一つが火村の告白という形で飛び込んできて有栖はただ茫然と目の前の顔を見つめていた。そんな子猫を見つめながら火村はまるで懺悔のように言葉を続ける。
“それなのに俺は酔い潰れて眠っちまったあいつにキスをした。あんまり人を信じ切って、無防備で、腹が立って、抑えきれなかった。最低だろう?罪悪感と後味の悪さに耐えかねて翌朝は顔も見ずに帰ってきちまった。それがあいつを見た最後なんだ”
 一つずつ火村自身によって解き明かされてゆく疑問。
 なぜ火村はキスをしたのか。
 無防備だという言葉の意味は何なのか。
 どうしてそんなに必死になって火村が有栖を探すのか。
 答えはただ一つの事を差していた。
“でも眠っていたと思っていたあいつはもしかしたら気がついていたのかもしれない。俺がした事を知っていたのかもしれない。あいつがいなくなった日、電話をした時もあいつは居たのかもしれない。そうして俺から逃げたのかもしれない”
 語られる、仮定ばかりの言葉が切ない。
“・・・なぁ、チビすけ。あいつは生きているよな?”
 ひどく、ひどく切なくて、辛い。
“・・・・・俺に会いたくないならそれでもいいんだ”
 思ってもいない事を口にする男が憎らしくて、悲しくて。
“それでいいんだ・・・だから・・アリス・・”
 猫になって3度目の涙が零れた。
 どうしても、どうしても、どうしても元に戻りたいと頭が痛くなるほど真剣に願って泣いた涙だった。
 猫になった自分を悲しんで途方にくれた涙でなく、置き去りにされて不安で零れた涙でもなく、ただ純粋に、自分のために、何よりも目の前に居る男の隣に帰りたくて溢れた涙。
 ようやく気付いた気持ちを伝えたいと心から思った。
 キスをされた事を【こんな事】と思うくらい自分も君が好きなのだと、彼が判る言葉で伝えたくて泣いて泣いて泣いた翌日。
 アリス・・こと、大阪在住の推理小説作家、有栖川有栖はようやく人間に戻る事が出来たのだった。
 それから約4ヶ月。
 『恋人』と呼ばれる関係にようやく慣れてきた梅雨明け間近…
「・・・・てめぇ・・」
 バンと開いたドア。
 と同時に低く唸るような声が玄関先に響く。
“・・・・・火村〜〜”
 しかし、そう呼んだ筈の声はあの冬の時と同じように「ニャー」としか聞こえなかった。
 一瞬の沈黙。そして・・・。
「今度は一体何をしやがったんだ!」
 梅雨の最後の意地とばかりにシトシトと細かい雨の降る中をやってきた恋人は、額の辺りに『怒りんぼマーク』を浮かべながら、玄関先で薄茶色の子猫に向かって怒鳴り声を上げた。
 


かなり前に出したMagical Miracle daysの続編です。
とっくにアップしたとばかり思っていたらアップしてなかった・・・・
という事でアリス猫話です(*^。^*)