Magicalmirror or Kitten!! 6

   

 シトシトと雨が降る。
 そろそろ梅雨明け宣言か、などと騒いでいたらそんな事はまださせないと言わんばかりにやってきた梅雨前線は今日も活発で、昨日の午後久しぶりにお目見えした太陽は又しても分厚い雲に隠されてしまった。。
 教育者たる者、こんな事を言ってはまずいだろうと思うのだが、やはり朝イチからの講義はかったるい、と言うかいただけない、雨が降れば尚いっそうの事、出来れば御免被りたい。
「・・・ったく・・」
 ユラユラと立ち上る紫煙。
 有栖が猫になってから4日。
 だが元に戻る気配はない。昨日も帰ってみれば部屋のど真ん中でこれでもかというほど小さく小さく丸まって眠っていて、その姿になぜか切なくなって思わず足でつついて起こしてしまった。
 今の有栖の言葉は判らないが、なんとなく今回の事は有栖自身も困惑しているように感じる。だが、前回話を聞いた事が事実だとすれば、何かがあって猫になっているのだろう。それは一体何なのか。
「・・・・・っ・・」
 ぼんやりとしていてフィルターまで熱くなってしまったキャメルを慌てて灰皿の上に押し付けて、火村はらしくもない溜め息をついた。そうして懲りもせずに新たなキャメルを取り出して火を点ける。
 ゆっくりと吸い込んで、吐き出した白い煙。
 有栖といわゆる【恋人】と言う関係になって4ヶ月以上が過ぎていた。
 猫になって聞いていたと言う火村の懺悔にも似た告白に有栖が応えるように好きだと返してこうなったのだ。
 よもやまさかこんな感情が受け入れられるとは思ってもいなかったが、火村とて人間である。
 好きな人間から好きだと言われたら嬉しくない筈がない。そうして自分の感情に忠実に、裏を返せば有栖に言ってしまった言葉を思い返す暇も与えずにその身体を抱いたのだ。
 勿論こんな事は有栖本人には言えないが、それは火村の中に己の狡さに対する罪悪感のようなものを植え付けた。 いつまでも消えずに燻り続ける火のようなそれを有栖はどこかで気付いたのだろうか。
 それとも抱き合ううちにその行為に対して何か考えてしまったのだろうか。
 元々有栖は同性の人間を恋愛の対象にするような性癖はなかった筈だ。それは学生時代から見てきてよく知っている。もっとも火村自身も有栖以外の男には当たり前だが興味はない。有栖だから惹かれ、有栖だから手に入れたかったのだ。話が逸れた。
 ともかくそう言う人間に対して、今の行為はどういうものなのだろうか。
 もう長い事“有栖”という人間を、いわゆるそう言った対象として見てきて、しかも抱くという立場の自分と、好きだと(これも言ったら怒るに違いないが)まるで騙すように丸め込んで言わせて、抱かれるという立場の有栖。
 もしも有栖が自分の気持ちを振り返ったら、自分の感情を落ち着いて考え直してみたら、抱かれると言う行為に疑問を感じ始めていたとしたら、自分が思った『好きだ』と言う言葉はこの行為に繋がるものだったのだろうかと思ったとしたら・・・。
「・・・・・・・」
 キリもなく溢れ始める負の感情。
 情けないと自分自身でも思うけれど、好きだと言われ、手に入れてしまったからこそそれを失ってしまうのが怖い。こんな女々しすぎるような感情を、けれどそれでもまだこの上有栖に気付かれたくないと思うのだ。
「・・・・・浅ましい限りだな・・」
 長くなった灰をすでに一杯になっているような灰皿の上の落として、火村は今日、もとい有栖が猫になってしまってから何度目だか判らない溜め息を落とした。
 その途端コンコンとノックされたドア。
「はい」
「失礼します」
 声と同時に開いたドア。
 入ってきたのはゼミ生のメンバーだった。この曜日が辛い理由の二つ目である。
「うわ!煙・・!!先生いつにもまして凄いですよ」
「マジでスプリンクラー作動するんちゃう?」
「窓ちょっと開けますよー」
 ワイワイと入ってきた学生たちに、まだ時間よりは少し早いだろうとは勿論言えず、火村は取り出しかけていた新たなキャメルを箱の中に戻して、もう一度溜め息をつくと
「先週の課題の続きだ。質問があったら言ってくれ」と言って広げたまま先刻まで全くと言っていい程進まなかった資料に目を落とした。
 学生たちの方もそれに慣れているようで、テーブルの上にそれぞれの資料を出すと、再来週に行われる筈のゼミ内グループ発表に向けて話し合いやまとめに入る。
 静か・・とは言えないが、雑音にはならない程度のそれが破られたのはそれから暫くしてからの事だった。
「!!あ・田中センセや」
「ほんまや、なんややっぱり疲れ切っとる感じやね」
「じゃあ、やっぱりあの噂本当なん?」
 ボソボソとした声ほど耳につく。
「ああ、婚約者に逃げられたって噂やろ?あの様子やほんまみたいやねぇ」
 時として学生たちは一体どこからと思うほどの情報を仕入れてくるものなのだ。
「え・・俺それ知らんわ」
「遅れとるで、三上。何でもようやく恋人になれて、婚約まで漕ぎ着けた彼女からやっぱり別れましょうの一言で逃げられたんやて。結納の前日だか前々日って聞いたけど」
「えーあたしは当日の朝電話だけやったって聞いたで?」
 しかもそれはリアリティーに溢れ、脚色も勿論怠らない。
「どっちにしたって悲惨やな、聞いとるだけで泣けてくるわ」
 確かにそれが事実だとしたら、泣けてくる事に違いない。だがしかし、今はゼミの時間である。三流のワイドショーのような話題はそれ位にして貰おう。そう思って口を開きかけた火村の耳に新たな話題が飛び込んだ。
「ねぇ、田中ッチの彼女って確か学生時代からの彼女なんやろ?」
「ちゃうちゃう。田中センセはともかく、向こうは全くその気はなくて、飲み友達の一人位にしか思うてへんかったらしいで。前にそんな事漏らしてたって先輩言うてたもん。せやからもう落とした時はもうほんまに宙に浮いてるような勢いで、去年のゼミ生たちに焼肉奢ったって有名な話」
「落としたって・・あんたなぁ・・」
「まあええやん。・・で、その彼女がドタキャンしたと」
「ほらようあるやろ。マリッジブルー言うの?あれやないの?」
「って言うか、勢いに押されてそうかなー、ってOKしたけど、日にちが経って色々が具体化してきたら我に返ちゃったとかさ」
「ようするに思いが実ったのは最近でも、一応付き合いはずーっとあったわけやから、ある意味『長すぎた春』ってヤツやない?」
 何やらひどく身に覚えのあるような、ないようなその話題に、ついつい学生たちの話を切る事が出来ず、火村は新たなキャメルに手を伸ばした。
「実ってすぐに長すぎって・・それはさ、やっぱり愛がなかったんだよ。田中センセの一方的な愛でしかなかった」
「好きだ好きだ好きだーって言われて、なまじ知っとる人間だけに相手が暗示にかかったようなもんなのかもね」
「そんなに思うててくれたのかって?」
「それである日突然気付くのよ。私はほんまにこの人が好きなんやろか?この人といる事がほんまに幸せなん?今ならまだ間に合う。チャラに出来る」
「逃げるなら今だ!」
「・・うえー・・厳しい〜」
 そうして、ハタと自分はこんなゴシップ記事のような話を聞いて何を考えているのだろうと火村は先ほど開きかけた口をようやく開いた。
「・・雑談は外でするように」
「すみません!!」
 再び元に、否、先刻よりずっと静かになった室内。
 その中でまたしても頭の中に入ってこなくなった資料から視線を剥がして、火村は取り出して銜えたキャメルに火を点けた。
 ユラリと立ち上る紫煙。
『って言うか、勢いに押されてそうかなー、ってOKしたけど、日にちが経って色々が具体化してきたら我に返ちゃったとかさ』
 たった今聞いたばかりの台詞が、頭の中に浮かぶ。
「・・・・チッ・・」
 思わず落ちた舌打ちに学生たちの方から「火村センセ機嫌悪・・」と言う声が聞こえてくる。
『君が好きだって言うてくれたからやっと気付けた気持ちなんやけど・・。好きやで、火村。これは信じてくれるか?』
 あの日、有栖から聞いた言葉。それを疑うつもりはない。
 だがしかし、人の気持ちは変わるのだ。もとい、変わらなくても、その時には気付く事の出来なかった本当の気持ちが判ってしまう事もある。
 もしも有栖が今の関係に疑問や不満を抱いていてそれが今更火村には言えないなどと思っていたら、そしてそれが原因でそれこそ『逃げたい』と思って再び猫になってしまったのだとしたら・・・。
「・・・・・・」
 火村がこんな事を考えたと知ったら有栖はどう思うだろうか。「人の事を見くびるな」とか「馬鹿にするな!」と火村がよく知っている調子で怒るだろうか。それとも実はと口を開くだろうか。
 そしてもしも、もしも後者だとして、有栖にそれを告げられた時自分はどうするのだろう。
 判ったと言われるままに引き下がるだろうか。元の友人と言う関係に戻れるだろうか。それとも、今更元には戻れないしそんな事は認めないと、いずれ他の人間のものになってしまうのならばと有栖を殺してしまうだろうか。
「・・・馬鹿か・・」
「先生?」
 小さな呟きに帰ってきた声。それに「質問か?」と何事もなかったかのように返して、火村は慌てて「いいえ」と言う学生からもう一度資料へと視線を移した。
 けれどその日、火村の頭の中にその内容が入る事はなかった。


煮詰まってくる〜煮詰まってくる〜〜