Magicalmirror or Kitten!! 7

   

“お帰り!”
 廊下の向こうからタターッと走ってきた小さな影。
「・・・お前、何でここにいるんだ?」
“・・あー・・えっと・・”
「あらあら、ちゃんとお出迎えしたん?」
 玄関先で靴を脱ぎかけたまま思わず猫に向かって凄んでしまった途端、奥から顔を覗かせた家主に火村は慌ててペコリと頭を下げ、急いで靴を脱いで口を開いた。
「あの、何でこいつここにいるんでしょう?何かやらかしましたか?」
 そう、これも前回の事を踏まえてなのだが、有栖が人間に戻った時は真っ裸なのである。万が一昼間に戻ってしまったらと家主には小さい事を理由にし、有栖本人にも部屋の中に居るように言ってあった筈なのだ。それなのにどうして1階で暢気に出迎えなどしているのか。
「いいえぇ。何も悪さなんかしていませんえ。ただやんちゃ言うか、ほら前に連れて来はった子もそうやったけど、階段が気に入ったらしくて、見るといつも途中まで下りてますの。けど下りる言うより、落ちてる感じで危のうて、つい下に連れてきてしもうたんよ。堪忍え」
「・・・・いえ、とんでもないです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑やなんてそれこそとんでもあらしまへん。ほんまに可愛らしい。さっきもよう食べとるなぁ思うたら次の瞬間には餌入れの横でコテッと眠っていて、思わず笑うてしまいましたがな。ねぇ、いい子やったよねぇ?」
 目を細めるようにして笑いながらそういう家主に、とりあえず「お世話になりました」と言って(勿論彼らにはニャーとしか聞こえていないが)有栖は火村のスラックスの裾をカリカリと引っ掻いた。
 その様子に小さな溜め息をついて火村は有栖の身体を抱き上げる。
「本当に有難うございました。あいつが帰ってきたら婆ちゃんにも世話になったとしっかり伝えておきます」
「まあ、そないな事言うて」
 そう言いながらコロコロと笑う彼女にもう一度礼を言って、火村は2階に上がると、フウと溜め息をつきながら有栖の身体を畳の上に下ろした。
 カチリと点けられた電気。
 かなり小雨になってきた為、閉めていた窓をカラリと開けて、火村はもう一度小さな溜め息を落とした。
 その様子を見ながら、有栖はおずおずと口を開く。
“・・・なぁ、怒っとるんか?”
「・・・ああ?」
 振り返った顔は、ひどく不機嫌にも疲れたようにも見えた。緩んだネクタイを更に緩めて、窓枠のところに腰を下ろしたままどうやらそこで一服をする事を決めたらしい火村に有栖はそっと近づきながら、再び口を開く。
“・・火村、なんかあったんか?”
「なんだよ」
“だから・・その・・下に行ってたのは悪かった。明日は部屋の中で大人しくしとるから”
「もしかして、謝っているとか?」
 言葉は判らないものの神妙な様子にそんな事を感じたのか、火村はそう言うとキャメルを銜えたまま有栖を膝の上に抱き上げた。そうして再び黙ったままタバコをふかしだす。二度目の沈黙。けれどそれを破ったのは又しても有栖だった。
“・・・・なぁ・・ほんまに何かあったんか?もしかしてまたフィールドワークに呼ばれたとか?そう言えばこの前の事件は結局どうなったんや?”
「判ったよ。反省してるなら許してやる」
“ちゃうわ、何が許すや、それはもう終いや。そうやなくて俺は何かあったんか聞いとるんや!”
 膝の上でニャーニャーと鳴き始めた有栖に火村は小さく眉を寄せた。
「何だよ、1階に行っている間に元に戻ったらまずいのはお前にだって判るだろう?だから部屋で大人しくしてろって。お前も納得してたんじゃないのか?」
“せやからそれは判った!今日のは俺が悪かったって、判らんかもしれんけど言うとるやないか!”
「・・判らねぇよ」
 呟くようにそう言って、火村はグルグルと唸る有栖を片手で抱いて窓を離れた。
 そこでは声が外に響いてしまう。自分の言葉の後にニャーニャーと言う鳴き声が入るのだから下手をすれば『猫と話をする可哀相な男』のレッテルを貼られてしまうかもしれない。
 長くなった灰をトンと灰皿の上に落とす火村の手の中から有栖はスルリと抜け出して畳の上に飛び降りた。けれどやはり本物の猫のようにはいかず、ベシャリと転げてそのまま小さく蹲ってしまう。
「・・・・・何をやってんだよ、お前は」
 頭上から漏れ落ちた溜め息。
「おい、怪我でもしたのか?アリス?」
 座り込んで吸いかけのキャメルを灰皿に押し付けると火村は再び有栖の身体を抱き上げた。けれどその途端有栖はカプリと火村の指に噛み付いた。
「!・・い・いたたた・おい、馬鹿噛むな!」
“やかましい!噛んでやる!!”
 アグアグアグアグ…
「アリス!」
 だが、そんな抵抗も片手でヒョイと持ち上げられれば終わりだ。
「一体何なんだ!」
“・・・・・”
 苛立つ声に伝わらないもどかしさを改めて感じて有栖は押し黙った。
「何が気に入らないってぇんだ?」
“・・・・・・・”
 気に入らないのは自分自身だ。一体どうしてまたこんな事になってしまったのか。考えても考えても判らない。
 そのたびに襲ってくる、もう元には戻れないのではないかと言う不安感。
 疲れたような彼にどうしたのかと尋ねる事さえ出来ない。その上、ここで火村に勝手にしろと言われたら困るのは間違いなく有栖自身なのだ。
 訪れた三度目の沈黙。
 今度のそれを破ったのは火村だった。
「・・おい、アリス。怒るなよ」
“怒っとるのは君の方やろ”
 置かれた膝の上で、有栖は身体を縮こませた。
「お前が反省していたのは何となく判った」
“・・・・・もうええねん”
「何か他に気になる事があったのか?それとも猫に変身しちまった理由にでも思い当たったとか?」
 小さな背中を撫でる大きな手。
“・・変身って、人の事仮面○イダーみたいに言うな。アホ。こっちはほんまに・・”
 イジイジと小さく小さく丸まりながら、ウニャウニャと鳴く子猫に火村は再びクスリと笑ってその身体を目線の所まで抱き上げた。
「明日、ひらがなカードでも買ってくるか?」
“・・・へ・・?”
「それを1字1字手でさして、会話をするなんてぇのはどうだ?」
“・・・・・・・”
 一瞬頭の中で必死にカードを叩きまくる自分を想像して有栖は思わず耳を垂れてしまった。
 それはそれで伝わるものもあるけれど、果てしない作業のようにも思える。
「何だよ、乗り気じゃないのか?・・まぁ、確かに地味な作業だよな」
 自分の考えが通らなかった割に、特に気にした風でもなくそう言って、火村は有栖の身体を又膝の上に戻した。
“・・・・・!”
 その途端瞳に入った、先刻噛みついてしまった跡。
 自分でやってしまった事なのに赤くなっているその跡が申し訳なくて有栖は一瞬だけ戸惑って、けれど他にどうする事も出来ずペロリと舐めた。
「アリス?」
 途端にあがった火村の声。
“・・・・ごめん、跡になってしもうた”
「・・おい」
“話しかけると照れくさいから喋るんやない!”
 この前もそうだったが、いくら猫になっているとはいえ精神的には人間のままなのだ。やはり他に手段がないとは言え、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 そんな事を思いながら手の甲を舐めていた有栖は、またしてもヒョイと身体を持ち上げられた。
“火村?”
 重なる視線。
 そして次の瞬間・・・。
“!!”
 チュッという音を立てて触れた唇に有栖は思わず固まって、そうしてすぐに抱えあげられた手の中でジタバタと暴れ始めた。
“ななな・・何すんねん!”
 奇跡的にも意味が通じたのか、それしかないだろうと彼の優秀な頭で推理されたのかは定かではないが、火村は間髪入れずに答えた。
「ほら、よくあるだろう?キスをしたら元に戻るっていう話が。今の状況だって十分非現実的なんだ、もしかしたらと試してみたのさ。戻らなかったな。どうやら王子にはなり損ねたらしい」
“・・・・・・・・アホ”
「お、今のは何て言ったのか判った気がするな。『アホ』だろう?」
“・・・・・・”
 ニヤリと笑って火村はそっと有栖の身体を膝に乗せた。
 どうやらこの男は自分が考えているよりずっとロマンチストなのかもしれない。
 4度目の沈黙。
 先刻感じていた怒りも、不安も、罪悪感も消えて小さな溜め息を落としてしまった有栖の耳にやがてポツリと呟くような声が聞こえてきた。
「・・早く戻れるといいな」
“・・・火村?”
 背中をゆっくりと撫でる手は変わらない。けれどそれは有栖が初めて聞く言葉だった。今までの3日間、火村は決して有栖を急かす様な言葉は口にしなかった。恐らくこの男なりに有栖自身の不安感を考えてくれていたのだろう。
「お前の声を忘れちまいそうだぜ?」
“・・・・・・・・”
 言いながらもう一度ニヤリと笑ってテーブルの上のキャメルに伸ばされた指。
 ふざけたような口調で告げられた言葉は、しかし、有栖の中に消えない痼(しこり)のように残った。


残念。王子のキスじゃ戻らなかったね〜(^_^;)