Magicalmirror or Kitten!! 8

   

 猫、5日目は気持ちの良い晴天だった。
 このまま今度こそ梅雨明けかもしれないと通りで話す人の声を2階の部屋で聞きながら有栖は必死でよじ登った窓枠の所からぼんやりと庭を眺めていた。
 雨が降っていなかったので、今日は窓が開けられたままだ。朝出て行く時くれぐれも2階から落ちるような事はするなと耳が痛くなるほど言い聞かされ、しかも過保護極まりないと有栖でさえ思うのだが、鉄枠部分に転落防止と称して座布団を干していったのだ。おかげで見える景色は半減してしまったが、勿論文句を言える筈もなく、結局その座布団の上で昼寝ならぬ、朝食後の睡眠をとってしまった。
 優雅と言えば優雅な生活だ。だが、しかし・・。
(・・・今ごろ片桐さんから電話入ってるやろな・・)
『来週末辺りに一度連絡します』
 先週の頭にそんな事を言われて電話を切ったのを思い出す。普段うっかり忘れてしまうような事もなぜかひどくクリアーに思い出せるのにどうして肝心の事は思いつかないのか。
 漏れ落ちた溜め息。
 その瞬間ふと、夕べの火村の言葉を思い出して有栖は(よっているかは定かではないが)眉間に皺を寄せた。
『・・早く戻れるといいな』
 それは一体どんな気持ちで言った言葉なのか。勿論言葉の通りに思っているのは事実なんだろう。けれど今まで口にしなかった言葉を口にするにはそれなりわけがある。
『お前の声を忘れちまいそうだぜ?』
 なぜそんな事を言ったのか。何があったのか。本当にどうして元に戻れないのか。
“・・・さすがに落ち込んでくるな・・・”
 そう言って有栖は居心地の良い座布団の上からピョンと飛び降りた。
 まだ怖い気持ちはあるものの(言うなれば自分の身長よりも高いところから飛び降りているようなものなのだ)どうにかこけずに着地が出来るようになってきた。これならば階段も案外うまく降りられるようになるかもしれない。家主の目を盗んで再び挑戦をしてみよう。
 そんな事を考えながら、ホテホテと部屋の隅に置かれた餌入れに近づいた途端ガタンと大きな音がした。
“!!何や!?”
 思わずピンとたった耳。
 慌てて廊下に出ると聞き慣れた声がひどく辛そうに「いたたた・・」と言っているのが聞こえる。
“婆ちゃんや!”
 声は玄関の辺りから聞こえている。彼女に何かがあったのだ。
“・・・・・”
 一瞬の間を置いて、有栖は未だに成功をしていない階段を下り始めた。
 古い日本家屋特有の幅の狭い急傾斜。次の段がほとんど見えていないそこに下りるのはやはり勇気がいる以外のなにものでもない。だがしかし、転げても身体が小さいので、そのままゴロゴロと転がり落ちていく事はなく、わずか十数段の階段を半分くらいは転げつつ、有栖はヨロヨロとしながら階下に到着すると、思った通り玄関の上がり框で座り込んでしまっている家主を見つけた。
“婆ちゃん!どないしたんや!”
 ニャーとあげられた声に振り向いた彼女は有栖の姿を見つけて小さく笑ったが、すぐにその顔を顰めてしまう。
「・・・驚かしてしもうたん?堪忍え。ちょっと滑ってしもうて・・たたた・・」
 どうにか板の間に手をついて、身体を起こし玄関に座ったがそれ以上は動く事が辛いらしく、家主、時絵ははぁと息をついた。そうしてその脇でどうする事も出来ずにオロオロするばかりの有栖を振り返る。
「心配してくれとるん?いい子やねぇ。ほんまにあんたはおりこうさんやわ」
 言いながら頭を撫でる手に有栖は小さく“婆ちゃん”と呟いた。
 もしも、もしも今自分が猫でなければ簡単に彼女の身体を支えて起こす事が出来た筈だ。それなのに階段を転がり落ちるようにしてそばに来るのが、精一杯で手を貸す事すら出来やしない。
 情けなさでいっぱいになる胸。
 その途端、掃除をするために開け放したままの玄関から見えた人影に、有栖は思わず玄関の段差を飛び降りて、そのまま外へと飛び出した。
「あ、ちょっと・・」
 背中にかかった時絵の声。
 それを振りきるように走って。
「!!まぁ!何やの!?どこのうちの猫ちゃんやの」
 必死の覚悟で飛びついてしがみついたのは、有栖もよく見かける隣の家の住人だった。
“頼むから来てくれ!!”
 スカートの裾にどうにかぶら下がっている状態で一鳴きして、有栖はタンと地面に下りて、下宿の方に向きを変える。
“こっちや!”
「野良にしたら、ずいぶん小奇麗な子やねぇ。バイバイ」
“!!ちゃうねん!来てほしいんや!”
 そう言って再び家の方に歩き出してしまった夫人に舌打ちをしたい気分で、有栖はもう一度向き直ると彼女のスカート(その位が精一杯なのだ)に向かって飛びついた。
「!!危ない!何やのほんまに」
 寄せられた眉。
 可愛いだけでは通じない状況に入りつつある事を感じながら、有栖はしがみついたままもう一度分かる筈のない言葉を叫んだ。
“来てくれ!”
「・・・・お腹が空いとるん?」
 いつぞやと同じく腹具合の方に取られるのは自分の食い意地のせいだろうか。それとも人間の発想が貧困なのか。 それは分からないがとりあえず再び向けられた眼差しに有栖はスカートを離れ、彼女の視線が向けられているうちにと必死で下宿に戻りその入口から出来る限りの声を出して、訝しげな表情を浮かべている女性に向かって叫んだ。
“こっちや!!”
「・・・・あら・・時絵さんの所の子やったの?」
 向けられた関心。
 もう少しだと思い三度彼女の元に走ると有栖はピタリとその目の前に止まって鳴いた。
“早く!”
 さすがに彼女の顔つきが変わる。
「・・・・何や知らせたい事でもあるん?」
 半信半疑。まさにその言葉がピッタリの表情を浮かべて彼女は道を戻り始めた。それを誘(いざな)うように有栖は少し前を歩いては後ろを振り返り、振り返り、やがて見事に下宿まで連れてきて、パッと玄関に飛び込んだ。
「おチビちゃん、あんた急に出てどこ行っとったん?」
「時絵さん?」
「あら・・」
 開いていた玄関から覗いた顔に時絵は驚いたような表情を浮かべた。
「やっぱりその猫ちゃん、時絵さんのとこの子ぉやったん?いきなりしがみついてきてニャーニャー鳴いて、まるでこちに来いって言われとる気がして・・。あら、どないしたん?怪我?腫れとるやないの!」
「ここで転んでしもうたんよ」
 苦い笑みを浮かべた時絵に隣の夫人はすぐさま「病院に行きましょう」と言った。
「そない大袈裟なこと・・」
「何言うとるん?捻挫かて大事にしないとえらい事になるってこの前佐伯さんの奥さんが言うてたやないの。それにもしもひびでも入ってたらそれこそ大変やわ。すぐにうちの呼びつけるから動かんようにな」
 そう言ってクルリと踵を返した途端、夫人は有栖を見つめて笑いを浮かべた。
「あんた、ほんまに助けを呼びに来たんやね。小さいのに利口な子やわ」
“いえ・・こちらこそ何度もスカートに飛びついてすみませんでした”
 ニャーと鳴いた有栖に夫人はもう一度笑って、今度こそ自分の家に帰っていった。
 シンと静まり返った玄関先。
「おおきに、有難う」
 小さな子猫に向けられた言葉だった。
“・・・婆ちゃん”
「あんたがいてくれて助かったわ。火村さんにもよぉ誉めてもらわな」
 撫でれた頭。
 やがて先ほどの夫人が亭主らしい男を連れてやってきて時絵は慌ただしく病院に向かった。
 ただ一つ・・・・。
“・・・・婆ちゃん”
 恐らくバタバタとして彼女も他の飼い猫たちと同じ感覚になってしまったのだろう。家の戸締りをしたはいいが、有栖を家に入れずに出かけてしまったのだ。
 もっともそれに有栖自身が気付いたのも3人が乗った車をしっかりと見送ってからの事だった。
“・・まぁ・・火村よりはずっと早く帰ってくるし・・”
 ポツリとそう呟いて有栖は玄関前の石の上に丸くなった。だが、そこはすぐに日が当たり始め、餌どころか水も飲めない現在それはまずいだろうと思いながら、日陰へ日陰へと移動する。
 そうして辿り着いた生垣の下。
 その葉陰で出来る限り無駄な消費をしないように寝ていたのがまずかったのか。せめて庭の方に行っていれば良かったのか。
 とにもかくにもそのわずか1時間後。
「うわー!可愛い!!」
“!・・何や?”
 聞こえてきた子供特有の甲高い声に有栖ははっと目を覚ました。
「あ・起きた」
「可愛い!ここのうちの猫なんかなぁ?」
「えー、首輪してへんよ。それにこんな木の下に隠れとるなんて捨て猫やないの?」
“!!”
「あ・暴れてる。ダメだよ。怖くないからね」
 よしよしと小学生くらいの女の子の手の中であやされながら有栖は半分パニックを起こしかけていた。
 とにかく彼女の腕の中から抜け出さなければならない。
“離せ!ちょぉ、ほんまに止めてくれ”
「鳴いてるよ。びっくりしたんかなぁ」
「お腹が空いとるんやない?」
“!!”
 またか!またなのか!!
 思わずそう叫びたくなってしまいたくなりながらも有栖は必死でもがいた。そう、このままではとてもまずい事になってしまう気がするのだ。
「餌あげようよ」
“!放っておいてくれー”
「しがみついてるよ」
“ちゃうねん!抜け出そうとしとるんや!!”
「すぐミルクあげるからね。公園行こ」
「うん、なぁ、他の子達も呼ばない?もしかしたら、この子飼ってくれるうちが見つかるかもよ」
「そうしよ。もう大丈夫だよー」
“ちーっとも大丈夫やないわ!ちょっとほんまに離せ!離してくれ〜〜〜〜!!!”
 有栖の叫びも空しく少女達は子猫を胸に、楽しげに歩き始めた。
 


アリス誘拐事件発生!(笑)