Magicalmirror or Kitten!! 9

   

「園田が自白しました」
 事件本部の置かれた所轄の一室。
 船曳班の一人である鮫山警部補はそう切り出した。
 解剖の結果、被害者の死亡推定時刻は午前1時から2時の間で、やはり抗うつ剤を服用していた。
 だがそれは日本ではまだ、認可されていない種類のものだったのだ。
 入手方法は色々考えられたが、そこに浮かんできたのが今回の容疑者だった。
 被害者の交友関係を洗っているうちに出てきた女性は同じマンションに住むOLで、この女性と内縁関係にあったのが様々な個人輸入を手がけている園田と言う男である。 園田は女から梶本の躁うつ病の事を聞くと、女に知り合いの医者にいい薬があると言わせ、医者を装い梶本とコンタクトをとった後、法外な薬代を請求。更に女性との関係を家族や会社にばらすと美人局(つつもたせ)まがいの脅迫をした。
 が、しかし、反対に薬を盾に医者を騙(かた)った事や、脅迫をしてきた事を訴えると口論となり、居間にあったゴルフクラブを取り出し凶行に至ったという。
 当初、園田にはアリバイがあり、薬に関しても梶本本人からネットで見つけたのだが手に入らないだろうかと相談されて注文をしたと証言をしていた。
 だが今日の朝、再び船曳に呼ばれた火村は、その足で鮫山と合流し直接園田と話をし、その午後にはコンビニでの買い物やネットを使った海外との取引など、彼がアリバイとしてあげていたものをことごとく崩してしまったのである。有限会社といっても園田の個人経営のようなものであるそれは、アルバイトに毛が生えたような社員が一人いるだけのものだ。しかも海外との取引が多く、どこかの作家のように昼夜逆転している生活となっている。
 一人きりの社員にまとめておいてほしいと直接時間に関わらない仕事を任せ、飲み物に眠気を誘う薬を混ぜ込み時計に細工をして部屋を出る。オフィス用に借りている部屋から梶本のマンションまでは車を使えば15分。そこで凶行に及び、その足で同じマンションの彼女の部屋のパソコンで一つ取引をして、オフィスに帰り、案の定眠りこけていた社員に気付け剤を打ち、「どうした?珍しいな」などと笑って起こす。慌てる社員にはほんの10分程度の事だと時計を指しながら時間をアピールして、先ほどの取引の内容をあたかもそこで行ったのだと思わせ、とどめに何か買ってこようとコンビニに行く。
 子供騙しのような小細工だが1時間位の誤差を稼ぐには十分なものだ。
「有難うございました。またよろしくお願いします」
 深々と頭を下げた鮫山に「警部にもよろしくお伝えください」と言って火村は警察を出た。
 傾き始めた日。
 とりあえず1限の講義だけはこなしてきたが、3限の講義は休講にしてしまった。
 『何度も言いますが、当日の休講は出来る限り止めてください』と目を三角にして言う教務課の女性が天敵のようになってきたなと埒もない事を考えながら、火村は駐車場に停めてあったアートなベンツのドアを開けた。
 途端に車の中から押し寄せてくるムッとした空気。
 それに微かに眉を寄せて運転席に乗り込むと、火村はキャメルを取り出して火を点けた。
 フロントガラスにあたるひどく眩しい西日。
 思わず目を眇めつつエンジンをかけてゆっくりと車を発進させ、左へとウインカーを出す。
 車内に響くカチカチと言う音。
 曲がった途端、差し込む西日が正面から右手に変わったのに少しだけホッとして、火村は片手で灰皿を開けると灰を落として再び口に銜えた。
 立ち上る白い煙。それと同じようにゆらゆらと記憶の中から浮かび上がってくるような自分の声。
『お前の声を忘れちまいそうだぜ?』
 夕べは本当に馬鹿な事を言ってしまった。
 聞いたわけではないが、今回の事は前回以上に有栖自身も訳が分からず不安になっているようだったので出来る限り急かしたり、自分から原因を追求するような真似だけはしないようにしようと思っていたのにこの始末だ。
 有栖もその辺りの事は何か感じたのだろう。何しろ猫になっているのではっきりとはしないのだが、火村の言葉に何かを感じて傷ついていた。そんな印象を受けた。
「・・・・・・」
 赤になった信号。
 横断歩道の手前で車を停めて、火村は短くなったキャメルを灰皿に押し込めて白い煙を吐き出した。
 そうしてふと考える。
 おそらく有栖本人も何度も考えただろうそれ。
 なぜ、猫になってしまったのか。
 原因は何なのか。
 前回の時と同じように火村に関わっている事なのか。
 だとすれば何だったのか。
 別に無理矢理何かをしてしまった覚えはない。あくまでもその手の行為は同意の上の事だったし、しかもそれだとて半月近くも前の事なのだ。
『って言うか、勢いに押されてそうかなー、ってOKしたけど、日にちが経って色々が具体化してきたら我に返ちゃったとかさ』
 その途端甦る昨日の学生達の言葉。
『好きだ好きだ好きだーって言われて、なまじ知っとる人間だけに相手が暗示にかかったようなもんなのかもね』
「・・・・・・」
 勿論、自分たちには【結婚】などと言う男女のようなある意味での終着はない。(それを終着と考えるか始まりと考えるかはまた別の論議として)だがしかし、どこかで危惧していた火村自身の気持ちを言い当てられてしまったような気にさせられたのもまた事実だった。
 それぞれの思いを告白し、勢いにのせて身体を手に入れた。だが、有栖は火村とは違いそれまでに火村をいわゆるそう言った対象とは見てはいなかったのだ。
 キスをされ、考えているうちにあまりにも非現実的ではあるが猫になり、パニックをしているような状態で火村から本当は好きだったのだと言われればもしかしたら自分もそうだったのかもしれないと思ってしまう事だってあるかもしれない。
 勿論自分は有栖本人ではないから、その気持ちまでは分からないが、キスをされたと言う事である意味パニック状態になっていた筈だ。そこに追い討ちをかけるように猫になった。
 思い出してみれば有栖自身言ったではないか。
『キスをされた事を【こんな事くらいで】と思うくらい君が好きやって言ったら信じてくれるか?』
 そう、こんな事くらいでと思う自分の気持ちが何なのか分からなかったのだ。
 そして・・・・。
『君が好きだって言うてくれたからやっと気付けた気持ちなんやけど・・。好きやで、火村。これは信じてくれるか?』
 ギリギリに追い詰められた気持ちのところで、その原因である友人から好きだったのだと聞かされた。そこでふと自分もそうだったのかもしれないと思ったとしたら。
 そうして抱き合ううちに、あの噂話の女性のように本当に自分はこの男が好きなんだろうかと思ったとしたら。
 否、好きだからいいのだと思い込もうとした反動が無意識に出たのだとしたら・・・・。
 後ろからパッパーッとクラクションが鳴らされて火村は慌てて愛車を発進させた。
 そうしてブンと頭を振ってハンドルを握り直す。
 眉間に寄せられた皺。
 全ては火村の想像でしかない。多分有栖本人に言ったら火を噴いたように怒り出す事は間違いないだろう。
 それでも・・・・。
「じゃあなんでお前はその姿なんだ?」
 有栖には問えない言葉を口に乗せて。 
 そうして6時過ぎ。いつもよりは幾分早い火村の帰りを出迎えたのは右足に包帯を巻き、ひどく慌てた様子の家主だった。
「ああ、お帰りなさい!」
「・・・足をどうしたんですか?」
「ただの捻挫です。そんな事よりもどないしましょう・・」
「そんな事って・・」
「私のせいです」
「婆ちゃん?」
「私が鍵を締めて行ってしもうたから・・」
 気持ちが高ぶってうっすらと涙の浮かんだ顔。
 火村は玄関先で立ったままオロオロとする時絵を落ち着けるように上がり框に座らせた。
「落ち着いてください。どうしたんです?何があったんですか?」
「居なくなってしもうたんです」
「・・・・・は?」
「ここで転んで、隣の高野さんの車で病院に行ってる間に。うっかり他の子たちと同じように外に出たまま鍵をかけてしもうて・・。帰ってきたらどこにも」
「他の子たちと・・」
 一瞬の沈黙。やがて思い当たった最悪の予想に火村は顔を引き攣らせて口を開いた。
「・・・・・・・あの・・子猫ですか?」
「ごめんなさい。どないしましょう。庭もこの辺りも探したんやけど。誰かに連れていかれてしもうたんかしら。もう一度探しに・・」
 言いながら遂に泣き出してしまった時絵を宥めて部屋に上げると火村は「その辺を探してきます」と外に出た。
 日が伸びたとはいえ、夕闇に辺りが沈むまでそう時間はない筈だった。暮れてしまえばあの小さな存在を探し出すのは辛い。しかも夕焼け色の空には不穏な黒い雲がかかってきて、そう言えば車の中で流れていた天気予報では夕立に注意して下さい等と言っていた。
「・・・・・っ・・あの馬鹿・・!」
 とにかく早く見つけ出さなければならない。
 昨日の今日である。有栖自身元に戻ってしまうとどうなるのか、まして外であればそれがどういう事態を巻き起こしてしまう可能性があるのか十分分かっている筈だ。
 今の状態で有栖が頼れるのは火村しかいないのである。「・・・・・・」
 その事がなぜか切ないような、また一つ追い詰めてしまっているような気さえして、火村は小さく舌打ちをした。
 その間にも黒い雲はどんどん広がっていく。
「一雨きそうやねぇ」
「いよいよ梅雨明けやないか?」
 小さな商店の続く道で交わされる会話。
 それが正解だとでもいうように遠くで聞こえてきたゴロゴロという微かな音。
「ほんまにきそうやわ。早よ帰らな!」
 そう言って足早に家路を急ぐ主婦を横目に、火村は角を曲がり、その先の植え込みに向かって声を上げた。
「アリス!」
 けれど答える声はない。
 痛む足をおして時絵も見たという家の周囲ももう一度探した。
 商店街(というほどのものでもないのだが)の方まで来てみたけれどいなかった。
 このまま闇雲に探していても無駄だと火村は足を止めて道の端に寄り、一つ息を吐いた。
 そうしてもう一度落ち着いて考えてみる事にする。
「・・・・・・・」
 そう、たとえ何かを考えて、或いは最悪本人の無意識の中で思っていたとしても、今の状態で有栖が自分から火村の元を出て、どこかに行く事は考えられなかった。
 一瞬頭の中に『逃げられた』と言う学生達の声が頭をよぎったが、あえてそれを無視して唇に指を寄せる。
 だとしたら・・・。
 病院に出掛けた時絵を見送って、その後で有栖は自分が戸締めにされてしまった事を気付いたのだろう。
 それは何となく想像が出来た。
 それからどうするか。
 今の自分が小腹が空いてしまう事を有栖はよく判っている。鍵が締められてしまった以上、時絵が帰ってくるまでは餌は食べられない。ならば・・・・。
「・・体力温存だな」
 ボソリとそう呟いた途端、ついに落ちてきた雨粒。
 多分有栖は玄関先で丸くなって眠っていたに違いない。
 そうして・・・おそらく連れていかれてしまったのだ。
 他人の玄関先で寝ている猫を連れて行く・・・普通ならばあまり考えられないが、それが無類の猫好きの・・女性・・老人・・・確率が高いのは子供。そう・・子供ならばそうありえない話ではない。
「猫になって誘拐されるなんてぇのはお前くらいだ、馬鹿アリス!」
 振り出した雨は、見る間に大粒で激しいものになった。
 ゴロゴロと鳴る雷。
 音を立てて降る雨に小さく舌打ちをして、火村はパッと雨の中に飛び出した。
 あっという間に濡れて張りついて行くシャツ。
「あら先生!大変!今お帰り?ほら、入って!入って!あんた!そこにあるタオル投げて!」
 家主は元より火村自身も時々野菜を買う八百屋のおかみに声をかけられて、火村は言われるままにその店先に飛び込んだ。妻の怒鳴るような声に人の好い店主も「先生派手にやられたなぁ」と乾いたタオルを渡してくれた。
「すみません」
「かめへんよ。水も滴るいい男もええけど、風邪をひいたら元も子もあれへんもんねぇ。傘も貸すから持ってって」
 そう言って恰幅の好いおかみは笑いながら店の奥から男物の傘を持ってきた。
「いつでもええからね」
「お借りします」
 そう言って有難くそれを受け取って火村は頭を下げて店を出ようとして・・・。
「先生?」
 振り返ると思いついたように口を開いた。
「この辺で、子猫を抱いた・・・お年寄りか、子供を見かけませんでしたか?昼頃の事なんですけど」
「子猫を抱いた子か、お年寄り?さあねぇ・・猫がどないしはったん?」
「いえ・・・預かった飼い猫がどうやら迷い猫か捨て猫に間違われて拾われたらしくて」
「あらまぁ!鈴とかつけてなかったん?子猫ねぇ・・・あんた見た?」
「いや」
「そうですか。すみません、お借りします」
「気をつけて、私等も何か判ったらお知らせします」
「有難うございます」
 ペコリと頭を下げて、火村は激しい雨の中に再び飛び出した。ボボボボ……とおよそ水が当たっているとは思えないような、傘の上で弾ける雨の音。
「・・・確かこの先に小さな公園があったな」
 先刻の夕焼けは一体どこに行ってしまったのか。
 いくら夕立とはいえ、限度があるのではなどと馬鹿な事を考えながら火村は行き先を定めてバシャバシャと雨の中を走る。
「アリス!」
 この雨の中どうしているのだろう。
 どこかの家に連れて行かれてしまったのだろうか。
 脳裏に浮かぶ小さな猫の顔が十数年間見なれた男の、大切な、大切な恋人の顔に重なる。
「アリス!」
 繰り返した名前。
 雨の音に消されぬように先ほどよりも大きな声で呼んで火村はまた少し足を速めた。
 そうしてバシャバシャと止まない雨の中を走りながら多分・・・・と火村は思う。
 そう、多分、連れて行かれてしまった有栖は隙を見て逃げ出したに違いない。
 そうしてきっと必死で帰ってこようとしているのだ。
 それが有栖川有栖という男だ。
「・・・・・・」
 そう思った瞬間、昨日から色々と考えていた事がなぜかスーと消えていく様な気がした。
 つい先ほどまで胸の中にあった不安までもが不思議と雨に流されていくような感覚。
 有栖が実際にいなくなってしまった今、なぜそんな事を感じるのか、ひどくおかしな事のようにも思えたが、それでも有栖が火村の所に戻ろうと思っているのは多分間違いなく本当の事で、たったそれだけでと思えるのだが、不安に感じていた事が薄れて消えていく気がする。
 もしかして端から見ている人間がいたとしたら単純だとか、いい加減だとか、ご都合主義だとか、それくらいで解決してしまうくらいのものだったのだ等と、言われてしまうだろうが、それでも今の火村にとってはそれが何よりも一番の事で、有栖が猫になったのは自分との事を疑問に思ったり嫌だと思ったり、まして逃げ出したいと思ったわけではない。もしもそんな風に思ったとしたら、有栖はそれを火村にぶつけてくる筈だ。
『君が好きだって言うてくれたからやっと気付けた気持ちなんやけど・・。好きやで、火村。これは信じてくれるか?』
 そう、あの時と同じように真っ直ぐな瞳を向けて、自分の思いを正直に口にするだろう。
 では、それならばなぜ猫になったのか。
 それは勿論判らない。判らないけれど。今はとにかく有栖がこの手に戻ってくればそれでいい。
 そうして再び会えた時には、自分の方から、こんな事を考えてしまったと前回に倣って懺悔(こくはく)でもしてみようか。
 そうしたら有栖は怒るだろうか。
 馬鹿にするなと噛みつくだろうか。
「・・帰って来い、アリス」
 そう呟いて火村は見え始めた公園に目を眇めた。
 雨は幾分弱くなったものの、止む気配はなく空は夜のそれになってきている。
 全てが深いグレーの中に沈み込んで行く、そんな錯覚さえ起こしそうなその時、鳴り出した携帯。
「・・はい」
『ああ、火村さん。今八百源さんの奥さんから電話があって、捨て猫を飼いたいと言ってた子が居たって。ただその子のうちでは飼えないから諦めさせた言うてはったって』
「・・・・その子供の家か電話番号は判りますか?」
『いえ。もう一度八百源さんに連絡を』
 見えてきた児童公園。
「お願いします」
 そう言って一度電話を切り、火村はブランコやシーソーの並ぶその中で大声を上げた。
「アリス!居たら返事をしろ!アリス!!」
 そうして耳を澄ますが大きすぎる雨音で何も聞き取れず火村は舌打ちをして傘をたたみ、植え込みに近づきながらもう一度その名を呼ぶ。
「アリス!アリス!居ないのか?アリス!」
 けれどやはり返答はない。
 ここではないのか。
 違ったのか。
 諦め切れずにもしかして気を失っているのかもしれないと植え込みの掻き分けて探しているともう一度携帯がなった。出ると家主からで子供の家が判ったという。
 自分が行ってみると言う彼女を押しとどめて、火村は場所を聞くと携帯を切った。
 零れ落ちた溜め息。
 どうやら【子供】というキーワードは掠ったようだが、一つ目の読みは外れてしまったらしい。
 止まない雨。
 夕立は本降りに変わってしまったようだ。まだ梅雨はその雨を降らせ足りないらしい。
 せめてこの雨を避けていてくれればいい。
 そんな気持ちで再び傘をさして、火村はクルリと踵を返すと公園を後にした。


走る火村