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狂鬼恋歌11

 早い夕食を食べ終えて雨の中を強行突破という勢いで自転車を漕いで別荘に戻ったのは5時を少し回った頃だった。
 帰り際に何となく施設内が騒がしい気がしたけれど、それ以上留まる事も、又その気持ちもなく、僕たちはすでに走り慣れてきた道をただひたすらに急いだ。
 結局又半日近い時間をバイト以外のものに費やしてしまった事になる。ここに来て3日。けれど何だかひどく長い時間が経っている様だと僕は思った。
 ずぶ濡れになった身体でしばしの間どちらが先に風呂に入るかという譲り合いをして、何度目かのやりとりで「ほんなら一緒に入るか?」という江神さんの言葉に次の瞬間、僕はおとなしく風呂場に消えた。
 思っていた以上に冷えていた身体に自分自身で驚いて、とにかく湯船に浸かって身体を温めると急いで江神さんと交替をした。そうして今、リビングのソファに腰かけて昼前までのチェックリストをテーブルの上に広げながらぼんやりとそれを目で追いつつ、僕の思考はどうしても先ほどの話に戻っ
て行く。
 もう一度整理してみると、バスが出たのが12時23分。
 榎本美里が篠原かなえを追いかけて、グラウンド裏の遊歩道からグラウンドに帰ってきたのが1時10分。3人でバンガローに戻ってきたのが1時半。再び2時過ぎにそこを出て遊歩道へ向かって、谷崎が上り始めたのが2時20分位として2時50分に2人の所に戻ってくる。そこから3人で上って分岐点で別れ、美里がバンガローを経てロッジの手前に現れたのが4時半前。会田がやはりバンガローを経て童子荘の所で美里と合流したのが5時過ぎ。2人でバンガローに戻り、谷崎が戻ってきたのは6時過ぎ。8時前に管理事務所に届が出され、かなえの遺体が見つかったのは翌朝6時30分。
 ゴチャゴチャにならない様に、チェックリストの裏側に時間を書くと、僕はトントンと鉛筆の後ろでそれを叩いた。
(・・・・篠原かなえがいつ池に行ったのかやな)
 3人がバンガローにいる間なのか、3人が山に入っている間なのか、それとも・・・
「解剖の結果はもう出とるんやろなぁ・・」
 それによって死亡推定時刻が出る。そこでもう少し犯行時間が絞れる、つまり犯行が可能な人間が絞れるのだ。
 パタンと音がしてガシガシと頭を拭きながら江神さんがリビングに戻ってきた。そうして僕の手もとを見て小さく苦い笑みを浮かべた。
「いい推理が浮かんだか?」
「・・・からかわんといて下さい」
「別にからかってるわけやない。何か浮かんだんやったら聞
きたいと純粋に思うただけや」
言いながら江神さんは僕の隣に腰を下ろしかけて、そのま
まフイとキッチンに向かって歩き出してしまった。
「江神さん・・?」
「飲みながらやろう」
驚いたような僕の言葉に返ってきた答え。そうして数瞬後
どこから持ってきたのかスコッチとグラスと製氷器ごとの氷
を器用に抱えて、江神さんは今度こそソファに腰掛けた。
「それで?」
 カランと入れられた氷。
「それでって・・・ただ時間を書き出しただけですよ」
 トクトクと小さな音が響いて琥珀色の液体がグラスの中に注がれて行く。それを見つめながら僕は再び口を開いた。
「ちょっとだけ疑問に思うた事があるんです」
「何や?」
 コトリと目の前に置かれたグラス。それをペコリと頭を下げて受け取りながら僕は言葉を続けた。
「いつ篠原かなえは池に行ったんでしょう?」
「・・・・・・・」
「3人がバンガローに行っている間なのか。3人が山の中にいる間なのか。それとも他の時間なのか。それによって犯行の不可能な人間やて出てくる筈ですよね。もっとも死亡推定時刻は司法解剖でもう判っとるんやろうけど」
 僕の言葉を江神さんは黙って聞いていた。そして。
「アリス」
「はい?」
「いつ行ったかやなくて、何で行ったんやろな」
「はぁ・・?」
「せやから、篠原かなえはどうして池に行ったのか」
「どうしてって・・そら・・・」
 行きたかったから、偶然そこに池があったから、あとは誰かに呼ばれた、もしくは連れて行かれた?
「・・・・時間は考えても無意味や。途中から3人が3人とも一人づつになる。言い換えればほんまにその道を通って行ったのか証拠はない。そうやろ?」
「・・・・・そうです」
 確かに、誰もが彼女を殺す事が出来る。彼女がそこにいる事さえ知っていれば。又は、彼女と一緒にそこを訪れる事が出来れば。
「犯行現場は発見場所と同じなんでしょうか?」
「さぁな、死亡推定時刻とともに今の俺たちには判らんな」
「・・・・3人のうちの誰かが殺したんでしょうか?」
「それもノーコメントや。ただ仮説としては成り立つ。悲しいけどな」
 言いながら江神さんはテーブルの上に置きっぱなしだったキャビンを箱から取り出すとゆっくりと銜えて火を点けた。
 ユラユラと揺れる紫煙。それを見つめながら僕はスコッチを少しだけ口にした。
 訪れた沈黙。ザァーッと激しい雨音が部屋の中に響く。
 いよいよという感じのその音に、僕はデッキに続くガラス戸の向こうの荒れ狂う闇を見つめた。
「警察はもう何かを掴んどるんでしょうか?」
 僕の問いに江神さんは微かに苦い笑いを浮かべた。
「どうやろな。あんまり進展はない気がするけど。そうでなければ警察がここまで訪ねてくる筈がないやろ?」
「・・・動機は何なんでしょう?」
「そいつは犯人に聞いてみんと判らんな」
 馬鹿な事を聞いた。なんだか僕は先ほどから答えようのない質問ばかりをしている気がする。軽い自己嫌悪に陥りながらも、けれど黙っている事が不安になって、僕は再び江神さんに向かって口を開いた。
「・・・・鬼が」
「うん?」
「ほら・・榎本さんが言うてましたよね。何や青い顔して篠原さんは鬼に殺されてしもうたんやて」
「・・・ああ・・」
 溜め息のような短い答え。それに続く言葉を待つように見つめていた僕に、江神さんは吸っていたキャビンを灰皿に押しつけた。そして。
「大江山の酒呑童子の話は知っとるか?」
「・・・え?・・あ・・はい・・・何となくは・・」
 いきなりの問いかけ。しどろもどろの僕の言葉に江神さんは荒れ狂う窓の外の暗闇に視線を移して、やがてゆっくりと口を開いた−−−−−−−。

 酒呑童子は『お伽草子』の説話群の中に出てくる“鬼”である。
 生歴年中(九九○〜九九五)京の都で貴賎男女が暴風・雷雨と共に行方不明になるという事件が多発する。帝はこれが天魔の仕業ではないかと嘆き、貴僧・高僧の験力や霊仏・霊社の加護によってこの災厄を防ごうとするが効果がない。
 そこで帝は陰陽師・安部晴明を召して占わせた。晴明は帝都の西北の方角に大江山という山があり、これはそこに棲む鬼たちの所業である事、又このまま手をこまねいていたならば上下諸国の人民みな危うい事を帝に伝える。これを聞いた公卿たちはただちに四将に鬼の討伐を命ずる。が、しかし四将等は天魔鬼神相手の戦は力及び難しと辞退してしまう。それを聞き、閑院の中納言が摂津守源頼光と丹後守藤原保昌の二人を諸卿に提案し、改めて鬼討伐の任が命じられた。
 これを受け、頼光は八幡三所・日吉山王に、保昌は熊野三所・住吉明神に加護を祈願し、渡辺綱・坂田公時・碓井貞通卜部季武・大宰少監等と共に、長徳元年十一月一日、大江山を目指し、京の都を出陣したのである−−−−−−−。

「・・・・坂田公時って・・あの金太郎ですよね?」
 途切れた話に僕はおずおずと口を挟んだ。その瞬間、グラスの中でカランと氷が鳴る。
「という説もあるな。本当に熊と相撲をとっていたかどうかは判らんけど」
「・・・・・・ほんまやったらその方が驚きですね」
 脱線してしまった話を戻すべく、江神さんは小さく笑って再び口を開いた。
「アリス、物語の続きは?」
「ああ・・えーっと・・」
 確かこうである。僕はグラスを手の中で揺らしながら思い出す様にして話し始めた。
 旅を続ける頼光たちは鬼達を見出す事が出来ず、尚険しい山へと分け入ってゆく。そうして、老翁・老山伏・老僧・若僧等に姿を変えた住吉明神・熊野権現・八幡菩薩・日吉山権現たちから知恵を授かり、山伏姿に身をやつして見事鬼が城へと潜入すると、警戒を解き酔った童子の首を刃ね、都に凱旋するのである。
「−−−−−−−と大雑把にはこうですよね」
「まぁ・・そうやな。けどなアリス、この話は面白い説があるんや」
「面白い説?」
 ザァーッと激しい雨が窓を打つ。ザワザワと木々を揺さぶる風。
「そう。この話を中世の王権説話やていう説がある」
「王権説話ですか?」
「・・“鬼は外、福は内”って言うやろ?内は都で外はそこ以外。つまり鬼は“外”にいる分には構わない。“内”に入ってこなければある意味その存在を認められる・・ああ・・違うな・・そうやない。“外”は“内”と何らかの交渉があるから“外”となりうるんや。“内”があるから“外”がある」
「・・・・・・・」
 話が見えない。一体何の話をしていてこんな話になってしまったのだろう?
「“内”の人間は“外”が存在しとる事をちゃんと知っとるんや。そうして“外”が“内”に接触してくる事でそれを取り込み、改めて“外部”やと認識をする」
「・・・つまり・・鬼は内部に侵入をしてくる事でその存在を認められるって事ですか?でもそれやったら」
 僕の言葉を引き継ぐ様に江神さんはコクリとうなづいた。
「そう。鬼は倒される為に存在するんや。物語の中でも童子自体がこう言うとる。“賢王の時代こそ我等が通力も侍るなり”これは一見矛盾しとるが、鬼を倒すことで賢王としらしめる。賢王でなければ、鬼は倒せない。せやから鬼も又賢王の時代にその力をみなぎらせ、やがて敗走し、その力を失うんや。賢王の為にな」
「だから王権説話?」
「そういう事や」
 ビュウビュウと音を立てて風が吹く。ガタガタと何かが飛ばされる音がする。
 接触する事で“外部”と認識する。つまり・・“排除されるべきもの”として捉える。
「−−−−−−−−−−っ」
 ゾクリと身体が震えた。
 一旦中に取り込んで、改めて排除する。そうして自らを・・守る・・?
 タイミング良く溶けかけた氷がグラスの中でカランと虚ろな音を立てた。
「・・・どうして彼女だったんでしょうか」
 もしも・・・もしも、彼等の中に『犯人』と呼ばれる人間が居るとするならば、排除されるべき“外部”は僕たちの方だ。それとも、彼等とは別の・・全く僕たちが知らない、誰か第三者が居るのだろうか?
“かなえは鬼に殺されたんよ・・・”
 美里の言葉が再び脳裏を掠める。あれは一体どういう意味だったのだろう?
「案外、俺が殺したのかもしれへんよ?」
「−−−−−−−−−−!!」
「近づいてきた彼女を“外部 と認識して・・」
「嫌や!」
「アリス?」
「嫌や!!じ・・冗談でもそないな事言わんといて下さい!江神さんがそんな事言うんやったら、僕かて『動機』は十分にあります・・・彼女は江神さんに近づいた!江神さんと話をして、江神さんの後ろに回って、それから・」
「アリス・・すまなかった。俺が悪かった。堪忍してくれ」
「嫌や・・っ・」
「・・・すまん」
 嵐はやまない。ゴウゴウと荒れ狂うその中で、僕はわけもなく不安になっていた。
 “内 と“外 。
 殺された彼女。
 大江山の鬼たちが闇の中で嗤っている気がする。
「・・・・・ほんまはな、何やちぐはぐな気がするんや」
「・・江神さん・・?」
「案外、カギを握っているんわ榎本さんかもしれへんな」
 江神さんのどこか独白めいた言葉に僕はただ黙って彼を見つめていた。そうして時折ふぅと消えかかる灯りの中に二人だけでいるという現実に僕はクシャリと顔を歪めた。
「アリス?」
「・・・鬼になんか負けへん」
「・・・・・・」
「絶対に・・」
 フワリと背中に回された手のぬくもりに、僕は自分がどうしてそんな事を口にしたのか判らないまま抱き寄せられた腕に縋りついた。
 人が一人死んでいる。
 その現実を忘れたわけではないけれど、今はこのぬくもりをどうしても離したくなくて・・・離れたくなくて、僕は子供の様に彼にしがみついていた。
「・・・・大丈夫や」
「・・・・っ・・」
「大丈夫や、アリス」
 何が大丈夫なのか、けれど、それを聞くよりも、その言葉だけを信じたい。
 そう・・彼が大丈夫だと言うならば、きっと、心配はないのだ。鬼は・・・・ここまでは来られない。
 ポンポンと背中を叩く大きな手。
 何がこれ程不安で、怖いのか。それは僕自身にも判らなかったけれど。
“案外、俺が−−−−−−”
 耳の奥に響く声。そんな事がないのは僕自身が一番良く判っている。
「・・・すまなかった」
 繰り返された謝罪の言葉が切なくて、僕は背中に回した手に力を込める。
 離さないと、決して離れないというように−−−−−−。

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 4日目の朝。雨はまだ降っていた。
 カチャリと開いて閉じたドアにフワリと浮き上がった意識。
 一瞬何が、どうして、どうなったのか、起き上がったソファの上。その途端パラリと床に落ちた毛布に僕は何となく夕べの記憶を甦らせた。
(・・・・サイテー・・)
 夕べ、僕は江神さんと事件の話をしながら飲んでいてあの言葉をきっかけに、あろう事かしがみついたまま眠ってしまったのだ。
「起こそうと思うてたところや」
「・・・え・がみ・・さん?」
 かけられた言葉に赤くなった顔。けれどそれは一瞬でいぶかしげな表情にすり変わった。江神さんの様子がおかしい。誰かの話し声がしたのは錯覚ではなかった?
 そんな僕の思考を読み取ったかのように江神さんは少しだけ苦しげな表情を浮かべて口を開いた。
「昨日の刑事たちがやってきとる」
「−−−−−−−!」
 ドクンと鼓動が跳ねた。
 次の言葉を聞きたくない、という思いがグルグルと頭の中を駆け巡る。
「夕べから行方不明になっとった谷崎航が遺体で発見されたそうや」
 どこか予測されていたその訃報を、僕はただ声もなく聞いていた。


酒呑童子って結構聞くけど詳しい話って良く知らなかった。結構マジで調べました。(笑)