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狂鬼恋歌13

「ほんまにこう言うたらなんですけど、お粗末な話ですわ」
 昨日までの嵐と引き続きの雨、そしてバタバタと行き来する警察に、その他の仕事は機能停止と言わんばかりに小出は部屋の外で茫然と立ち尽くしていた僕らを事務室に招き入れた。そうして時折かかってくる宿泊予約の電話の対応をしながら、淹れたばかりの熱いお茶をすする。
「夕べ4時過ぎでしたか、谷崎さんがバンガローの方に落とし物をしたみたいやから取りに行きたい言うたんです。これから嵐もひどぉなるし、大事なものやから無くしたくない言いはって。警察の方が見張ってるのは知ってはったみたいで幾分嫌な顔をしとったんですが、相合い傘やのうて後をついてくる分には構わん言うて。鍵を貸したんわ私とは別の職員やったんですけど」
 ズズッと小出はお茶をすすった。どうやら幾分猫舌らしく顔を顰めている。
「そしたら30分位でえらい形相で戻ってきはって。まかれたらしいんです。ここに居ったんわ2人の刑事さんやったからもう一人の所に行って慌てて連絡取って、もう一度その刑事さんがバンガローの方まで行って。他の刑事さんたちが来はって何やかんや手配して」
「・・もしかしてその間、他の二人は」
 僕の言葉に小出はまるでそれが自分がやってしまった事の
様に情け無い顔をして口を開いた。「はぁ、そうです。その間二人ともほったらかしですわ。気付いて部屋に行ったら二人とも居らんて今度も又蜂の巣をつついた様な騒ぎで」
「それで、どこに?」
「はぁ、温泉です」
「・・・・・・」
「騒ぎがあったのは何となく判っていたけど、これ以上巻き込まれるのは嫌やて思うて部屋に閉じこもっていて、そのうち風呂にでも入るか言うて、温泉に入ってた言うんです」
「二人でですか?」
「そら違いますわ。男湯と女湯は別々ですから」
「ああ・・・すみません・・」
 どうしてだか思わず謝ってしまった僕に小出は小さく笑ってガサガサと煎餅を取り出した。
「どうぞ」
「どうも。それで?」
 差し出された煎餅を受け取りつつ江神さんが先を促す。
「それだけですわ。結局谷崎さんは見つかれへんし、二人とも騒ぎの正体は自分たちやったんかて驚くやら。責められて女の子の方が泣き出しましてなぁ。それを見て男の方が警察に「そっちの手落ちを他人のせいにするな」言うて食ってかかって」
「谷崎さんはどこで発見されたんですか?」
「テニスコートの後ろの植え込みの中です」
「ここからだと?」
「10分もかからんでしょう」
「因みに二人が温泉に入っていたのが確認されたのは?」
「えーと・・谷崎さんが見つからんようになってからゆうに1時間以上は経っていたんやないかと」
 小出の言葉に江神さんは黙りこんでしまった。
 それを見計らった様に電話のベルが鳴る。又誰かが、この鬼の里を訪れるのだ。
 あの時にバスの中で感じた思いが僕の中に甦る。
 かつて鬼の棲んでいたという山はひどく綺麗で、便利になって、色々な人間たちが訪れるようになった。 けれど、でも追われた鬼たちはどこに行ってしまったのだろう。本当に全ての鬼を退治出来たのだろうか?それとも新たな“外”へと追いやって人は安心してしまったのだろうか?それならば・・・
 その瞬間、ドクンと鼓動が鳴った。
「アリス?」
 その様子に気付いた江神さんがいぶかしげな声を出す。
「・・お・・思い出した」
「何をや?」
「あの時・・彼女の後ろで、彼女を睨みつけるようにして見ていたんや」
 それは一瞬の事だった。バスから彼女−−篠原かなえが歩き出すのを見たその時、一瞬だけ見えた睨むという言葉よリもっと深い、もっと昏い、まるで飢えた鬼のような眼差しで彼女の背中を見つめていたのは死んだ谷崎航だった。
「・・・・・俺も、篠原かなえを殺したんわ谷崎やと思う」
 低い江神さんの言葉に僕はビクリと身体を震わせた。上げた瞳の中で江神さんが顔を歪める。
「多分、山の中で榎本さんと篠原さんの間で何かがあったんだろう。榎本さんは一人で山を降りてきた。勿論その時点で篠原さんは死んではいない。生きている篠原さんに次に会うたのは谷崎や」
「・・・・・・・・」
「谷崎は篠原さんと話をする。俺は榎本さんを驚かす事が目的やったんだと思う」

“私を置いて行ったのよ。勿論あの位の斜面自分で登れるけど悔しいから創一を連れてきてって言ったのに”
“会田を?”
“そう。本気で取られるとでも思ったのかしら。ねぇ、あの子を連れて来て?あの子、私がここに居なかったらどんな顔をするかしら。もう少し先の所で様子を見てるわ”

「山の中でどんなやりとりがあったのかは判れへん。どんなに考えてもそれは推測にしかならん。だから俺の言う事は全てが仮説や。山に自分を置き去りにした榎本さんを驚かそうと篠原かなえは谷崎に彼女を連れてくる様に言った。多分自分がいない事で彼女が驚いたり、ショックを受ける様子が見たかったんだろう。そうして、3人が分かれ、谷崎一人が登って行った道を降りてくる。

“面白かった。これで少しは怒りが冷めた言う感じね。さてと、私、帰るわ”
“かなえ?”
“もうここに居ても仕方がないし。今までありがと、楽しかったわ”
“どういう意味や?”
“判らないの?鈍感な男は嫌いよ。別れる言うてるの”

「山を下りながら恐らくかなえは谷崎に別れ話でも持ちかけたんだろう。どちらが池に行くと言うたのかそれは判らん。話をしようと言い出したのはおそらく谷崎やと思う」

“向こうに向かうバスは一日に数本や。話をしたら、駅まで送って行ってやる”
“いいわ。一応1年近くも付き合うたんやもんね。別れ話が歩きながらいうのも納得いかんってわけでしょ?・・あら、あっちに池があるって書いてあるわ。道端もなんやし行ってみない?”

 二人の間にどういうやりとりがあったのかは判らないし判りたくもないと僕は思った。ただ、これだけは判る。彼は彼女を永遠に手に入れたのだ。
 “外”を排除しても彼女は自分のものにはならない。
 だから彼は排除ではなく取り込む事を選んだ。彼女が永遠に自分のものになる為に。自分のものにする為に。そして、それを実行してから、彼は下りてきた山道を再び登り、鍋塚林道へ続くもう一つの道、分岐点から休憩所に向かって伸びる道から話をした通りの経路を通った。
「・・・・・・・」
 自分が殺した女を“捜している”という名目で3時間もの山道を彼がどういう気持ちで歩いたのか、僕にはそれも判らなかった。多分、永遠に判らない。
「・・嫌な・・事件や・・」
 ポツリと呟いた僕に江神さんは何も言わずにキャビンを取り出した。
 電話を終え、途中から話を聞いていた小出が、ようやく我に返ったという様にシパシパと瞳を瞬かせて口を開く。
「そ・・それやったら・・谷崎さんを殺したんわ誰なんですか?」
 長く感じるような沈黙の後、江神さんは「会田だと思います」と答えた。
「そんな・・・ほしたら・・」
 そう。小出の言いたい事は判っている。会田一人の犯行だとしたら、榎本美里の生きている可能性は低い。もしくは会田自身も・・。
“鬼がかなえを殺してしもうたんやわ”
 どういう経緯があって美里がかなえを山に置き去りにしたのかは判らない。けれど彼女はきっと自分の中に鬼が入り込んだのだと思ったのだろう。鬼が入り込んで、かなえをそのままにしてしまった。そこから全てが始まったのだと彼女は自分を責めたのだ。
 そして又、そこまで彼女を追い込んでその彼女を驚かしてやろうと思った篠原かなえも自ら鬼を呼び込み、そのかなえを自分だけのものにした谷崎も同じく鬼に魅せられたのだろう。
「・・・まだ見つからんのですかなぁ・・」
 壁の時計を見て小出が溜め息のような声を出した。
 時計の針は12時半を過ぎていた。
 刑事たちが別荘にやってきたのが9時過ぎ。話を聞いて、支度をしてここに来て、又話をして、美里たち
が居なくなって・・・・・時間の流れがひどく早い。
「何か食べられますか?」
 小出の言葉に僕はクスリと小さく笑った。
 なんだか彼には食べ物の心配ばかりをさせている。そういうと小出も又、眉を八の字にしてクシャリと笑いながら「それくらいしか出来ませんから」と言った。
 早く見つかればいい。
 見つかってほしい。
「・・・ほんまによぉ降りますなぁ・・」
「ええ、そうですね」
 独り言のような小出の言葉に江神さんが応えた。
 雨はやまない。
 サァサァと切りもなく降の続けるそれは一体誰の涙なのか。


 4時を回った頃、一報が届いた。
−−−−会田創一を発見した。
 山の中、土砂に半分埋もれて、彼は変わり果てた姿で発見されたのだ。
 事件は最悪の形で終わろうとしていた。
 大江山の山中で、雨によって引き起こされた小さな地滑りに巻き込まれたらしいと誰かが言った言葉が僕の耳に届いた。
 まだ山中を掘り起こしている者もいるが、この雨で二次災害を引き起こしかねないという意見も出ているようだった。榎本美里の捜索が一端打ち切られるのは時間の問題だ。警察も又、会田が谷崎を殺したと思っていたのだろう。だから、榎本美里は彼と一緒に地滑りに巻き込まれてしまっているに違いないと。
 クルクルと雨の中で回る赤いランプ。
 まるで小さなこの里が警察によって包囲されてしまったかの様だと僕は思った。
「女の子は一緒に巻き込まれてしもうたんでしょうか?」
 いつの間にか後ろに立っていた小出が力なくそう言った。
 僅かな沈黙。
「彼等のバンガローの場所を教えて戴けませんか?」
「江神さん?」
 突然の言葉に小出はびっくりした様に一瞬言葉を失ってすぐに先日見たものよりもずっと細かい地図を出して、それを教えてくれた。
「江神さん、どないしはったんですか?」
 僕がもう一度問いかけると江神さんはどこか苦しげな表情を向けた。
「助けに行こう」
「え・・・」
「せめて、彼女だけでも鬼から助けてやりたい」
 訳が判らなかったが、江神さんにはきっと全てが判っているのだ。だから僕はそれに従っていればいい。 今の僕にはそれしか出来ない。
 雨の中を宿舎を出ようとする僕らを田島刑事が目敏く見つけて奥から飛び出してきた。
「どこに行くんや!」
「もしかしたらと思うて」
「もしかしたらって?」
「彼女を助けられないかと」
「今、山ん中に入るの危険や。今日の捜査は打ち切りになった。大体関係のない人間が」
 関係者になったり、ならなくなったり勝手な事だと思いつつ僕はそっと隣に立つ江神さんを見た。
「どないしたんや、田島!」
 言いながら小宮山警部補が近づいてきて、僕たちを見るとおや?という顔をした。
「どないしました?」
「・・推測で警察の手を煩わせるわけには行かないと思いまして」
「何を言うて」
「田島、黙っとけ。推測でも結構です。話を聞かせて戴けますか?」
 にっこりと笑った初老の刑事に江神さんは迷っているような、苦しげな表情を浮かべて、やがて先ほど語った話をかいつまんで話をした。刑事はただ黙って話を聞いている。
「・・それで江神さんはどう考えたんです?」
「・・・・彼女はバンガローに居るんやないかと」
「アホな!」
「会田は彼女を連れて逃げようとしていたのかもしれない。彼女はそれを嫌がった。これは彼女に聞いてみなければ判りませんが、彼女は大きな誤解を、篠原さんも、谷崎さんも会田さんが殺してしまったのではないかと思われたのではないかと思うんです」
「・・・・ほぉ・・」
「失礼ですが谷崎さんは他殺という事ですが、正当防衛、もしくは不測の事故という見方は全く出来ませんか?」
「争った跡はあります。フェンスの鉄柱に頭を打ちつけておりました。死因は出血多量によるショック死です。こちらも呼び出したのは谷崎自身と考えとります。私からも一つ質問してよろしいですか?」
「・・・・はい」
「なぜ榎本美里がバンガローに居ると?」
「・・・・・彼は、会田は彼女の目の前で地滑りに巻き込まれたと思います。おそらく、彼女を庇って」
「・・・・・・・」
「ここで彼女が一番知っている場所はバンガローです。全ての事が夢だったと願うとしたら、きっとみんなが帰ってきてくれると願うとしたら、彼女はバンガローで待つ筈です」
「・・・・警部に了解を取ってくる」
「小宮山さん!」
「全てはわしの責任でええ。その仮説を信じてみたいいう気になった。それでもしも彼女だけでも救えるならそれが一番や」
 数分後、僕たちは覆面車に乗ってバンガローに向かっていた−−−−−−−−。

江神さんは間に合うのか!?