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狂鬼恋歌14

 緩やかな山の斜面に点在するバンガロー。
 目指すバンガローは斜面の上に方にある。勿論車で上れる所ではない。
 林と呼ぶにはまばらな木々の中、泥と砂利でグチャグチャになった道を歩きながら僕は彼女が生きている事だけを願っていた。
 生きていてほしい。
 この鬼の棲む山で、これ以上鬼に取り込まれずに生きていてほしい。
「・・・暗くなってきましたね」
「晴れていればもうじき日暮れの時間やからな」
 江神さんの言葉に僕はそうかと思った。そうしてここに来た日に見た、あの赤い、禍々しいまでの、紅い空間を思い出した。
 全てを包み込み、燃えるように赤く・・・紅く染め上げて、やがて夜の闇へと沈んでゆく時間。
 鬼の・・・訪れる時間がくる・・・。

たれか聞くらん暮の声
霞の翼 雲の帯
煙の衣 露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使の蝙蝠の
飛ぶ間も声のをやみなく−−−−−−−・・・

 あの日に江神さんが聞かせてくれた詩が、いっそ鮮やかに僕の頭の中に甦った。そして、見えない夕暮れが辺りを覆いつくすのを想像して僕はゾクリと身体を震わせる。
「ここや・・」
 田島が小さく言った。
 小宮山が小さくうなづいてドアノブを握る。
 キィッと小さな音をたてて開いたドア。
「榎本さん・・?」
 中に田島、江神さん、僕の順番で入り、意外に広い室内に少しだけ驚いて、そうして次の瞬間、僕は部屋の隅で小さく小さくうずくまっていた彼女を見つけた。
「帰りませんか?」
 江神さんのかけた言葉に彼女は小さくうなづいた。
 その姿を見て、僕はホッと息をつく。間に合ったのだ。彼女は生きていた。
 ゆっくりと立ち上がり、歩き出して、やがて彼女の後ろでパタンとドアが閉じた。
 その瞬間ふらついた身体に思わず出された手を彼女は気丈にも首を振って拒んだ。
 先頭を切って下り始めた小宮山。その後に僕と江神さん。そして、彼女を挟んで田島。
 1・2歩歩き、そのままピタリと足を止めて彼女は黙って空を見た。その様子を立ち止まって僕たちも又ただ黙って見つめていた。
 やがて・・。
「・・・鬼が・・」
「え?」
「私・・・創一を信じられなかった」
「・・・・・・・」
「殺したんやて・・人殺しやて言うてしまった・・それなのに」
「・・・お話は宿舎の方で聞かせて下さい」
 田島の言葉に美里は小さく首を横に振った。
「榎本さん?」
「いや・・創一・・!」
 その瞬間、美里はクルリと踵を返し、斜め後ろにいた田島をいきなり突き飛ばすとそのまま走り始めた。
「−−−−−−−−−−!」
 突然の予測できない出来事に、泥の中に転がった刑事が慌てて体勢を立て直して後を追う。
 そして、その後を江神さんと、僕と、小宮山警部補が追い駆ける。
 ズルリと足が滑る。
 緩やかな坂のような道を彼女は信じられない早さで走っていた。転んだ拍子にどこか捩ったのか、泥のせいなのか田島は彼女に追い付けないでいる。雨にけぶる視界の中、やがて見覚えのある物が僕の瞳に飛び込んできた。いくつものワイヤーで張られた赤い吊橋。
 “新童子橋”と呼ばれるその橋の袂で彼女はクルリと振り向いた。
「来ないで!!」
 手にはいつ持ったのか、嵐で折られたのだろう裂けた木の枝が握られている。
「あほな事を考えるんやない!!それをこっちに渡して戻ってくるんや!!」
 田島の言葉に彼女は再び首を横に振った。
「創一は、創一は・・?」
「・・・会田は発見されて今病院に居る」
 それは嘘ではない。ただし生きてそこにいる訳ではない。解剖の為に運ばれたのだ。
「・・・創一は誰も殺していないの!だから!」
「判っている!!あんたがその話をきちんとしてくれたら会田の容疑はすぐにでも晴れる。せやから戻ってくるんや!」
「私、創一がかなえも、谷崎君も殺してしまったんやと思うた。せやから、帰ろうって言われた時どうしてそんな事が言えるのかって思うて・・・警察が居るから山の中を通って行こうって・・・」
 けれど田島の言葉が届いていないかの様に美里の言葉は更に独白めいたものになってゆく。

“人が死んでるんよ!?どうして?”
“関係ない”
“創一!”
“俺たちには関係ない ”
“・・・・創一・・貴方なの・・?貴方がかなえを・・谷崎君を殺したの・・?”
“美里!”
“ほんまに・・殺したの?”
“・・俺が信じられへんのか!? ”
“嫌!寄らんといて!・・・人殺し!!”


「その時ドォーッと嫌な音がして、創一が私を突き飛ばしたの。そして目の前で・・」
 土の波に飲み込まれた恋人を彼女はどんな気持ちで見つめたのだろう。
「いくら呼んでも、返事がないの。こんなに呼んでるのに。まだ答えてくれへんの。・・創一は私を許してくれへんのかしら。疑うたから・・信じられへんかったから。私の中にかなえを置き去りにした鬼が居た事を創一は気付いてしまったのかしら・・」
 ユラリと吊橋が揺れた。
 恐らく小宮山警部補が呼んだのだろう、橋の向う側から幾人もの警官が彼女へと近づいている。
「・・・まずいな・・」
 江神さんの声がした。
 前に田島や僕たち。後ろには警官隊。
 今の彼女が選択出来る道はたった一つしかない。
 詩の続きが脳裏をよぎる。

こゝに影あり迷あり
こゝに夢あり眠あり
こゝに闇あり休息あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ−−−−−−−−−・・・

「−−−−−−−−−−−!!!」
 彼女の身体がフワリと宙に浮いた。
 現実へと戻ってくる以外の方法を彼女は迷う事なく選んでしまった。
「救急隊や!急げ!!川から引き上げるんや!」
 小宮山警部補の声がした。
 ワァワァと宵闇の中に響く声。
 どこかで鬼たちの嗤う声が聞こえる。
 大江山の鬼たちが夜の硲で笑っている。
「・・帰ろう、アリス」
「・・・・・はい」
 江神さんの言葉に僕はゆっくりと返事をした。
「泣くんやない」
「・・・はい」
 肩に置かれた手が優しくて、切ない。

草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とゝもに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ−−−−−−−−−−−−

 悲劇はようやく、幕を閉じた。


この話を書いた時、江神さんが見つけた犯人はみんな自ら命を絶ってしまうので可哀相だと言うようなお手紙を戴きました。
なるほど・・・・・と思って反省して記憶があります。他の皆様はいかがでしたでしょうか?