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狂鬼恋歌15

 小宮山警部補のお声がかりで車が通れるギリギリの所まで送ってもらって別荘に戻ってきたのは、もう10時も近くなった頃だった。
 宿舎に泊まっていけばいいと小出も、警察も言ったのだが僕たちは丁重にそれを断った。
 少しでも、事件から離れた所に居たかったのだ。
 彼女は二瀬川渓流の、嵐で増水した濁流の中からすぐに救い出されて病院へと運ばれた。
 まだ、息はあったらしい。
 何とか助かってほしいという警部補の疲れたような言葉に僕はただうなづくしかなかった。
「・・・・えらい目に合うたな」
「・・そうですね」
 雨はすでにやみ、帰る道すがら木々の間から見えた空は汚れたものを全て落としてしまったかのようにひどく澄んでいた。多分、明日は良い天気になるだろう。
 帰ってきたのを待っていたとでも言うように川辺邸の電話が鳴った。主の川辺教授からだった。警察から色々と話が言ったのだろう。江神さんが簡単に話をした。学会で連絡がうまく取れなかった事と、色々と大変だったようだが・・という労いの言葉と、すまなかったという謝罪の言葉が江神さんの口から僕に伝わった。
「一つだけ疑問があるんです」
「何や?」
 ソファに腰掛けた江神さんに僕はそっと話しかけた。
「谷崎はなんで会田を呼び出したんでしょう?」そう。彼はもうかなえを永遠に自分のものにした筈なのだ。
それなのに・・・。」
 僕の問いに江神さんはバサリと髪を掻き上げて、やがて小さく口を開く。
「篠原かなえが会田の名前を出したから、又は、別れるきっかけを作った榎本美里が憎かったから・・・俺にはよぅ判らんよ」
「・・・・・・彼女はどうなるんでしょうか?」
 込み上げてくる切なさに僕はもう一度違う問いを投げかけた。ゆっくりと向けられた顔。
「彼女は何も罪を犯してない。しいて上げるとすれば偽証罪くらいなもんか?後はとにかく、生きて、受けた心の傷を治すだけや」
「・・・そう・・ですね」
 そう僕たちにはもうどうすることも出来ない。あとは彼女自身が自分自身の傷を癒していくの事を願う事しか出来ない。過ぎ去った夏の日、僕らが自身がそうであるように−−−−−−−−−−。
 落ちた沈黙の中で、江神さんがキャビンを取り出した。最後の一本だったらしいそれを銜えてパッケージを握り潰す指。カチリと点けられた火に、次の瞬間、小さな赤いそれが僕の瞳の中でジワリと泌んだ。
「アリス?」
「・・・・何でも・・な・」
 紫煙が揺れる。
 ユラユラと揺れて立ち昇る。
「アリス・・」
 腕を引かれて抱き寄せられるままに胸の中に倒れ込むと点けたばかりのキャビンの香りがした。
 それがなぜか切なくて、けれどどこか嬉しくて、僕は彼のシャツをギュッと握り締めた。その途端。
“・・鬼が・・”
 彼女の声がした。
 耳の奥に残る彼女の声に僕は小さく頭を振る。
 彼女の言う通り、それは“鬼”のせいだったのかもいれない。もしかすると、誰の中にも“鬼”は、いるのかもしれない。けれど、でも・・
「負けへん・・」
 それはあの嵐の夜も口にした言葉だった。
 そしてその気持ちは変わらない。
 鬼になんか、負けない。だから・・。
「・・・・離さんといて下さいね」
「アリス?」
「・・絶対に離れないから・・せやから・・離さんといて」
 鬼の入り込む隙などない様に−−−−−・・。
 灰皿の上に最後のキャビンが押しつけられた。
「・・・・おいで」
 掠めるような口づけの後でゆっくりと立ち上がった身体。短い言葉と同時に差し出されたその手を見つめて。次の瞬間、僕はしっかりと握り締めた。

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「あ・・あぁ・・!」
 キシリとベッドが鳴った。
 思わず伸ばした手に絡んだ指。
「え・・がみ・さん・・江神・さ・・江神さん・・!」
 名前を呼ぶと捕まれた手に力が込められる。
 それが切なくて、僕は又その名を口にする。
 リビングは吹き抜けになっていて、2階部分は1階部分の半分しかない。そのスペースは中々洒落者らしい教授の趣味か、どこか屋根裏めいた作りの寝室になっているのだ。
「・・あ・・い・・ゃ・・・っ・・」
 あの後二人で手を繋いだまま2階へと上がり、まるで何かの儀式のようにこの部屋のドアを開けた。そうして引き寄せられるように抱き合ったまま、ベッドへと倒れ込んだのだ。
「え・・が・・ぁ・ん・・やぁ・・!」
 重ねたぬくもりを離したくなくて、離れたくなくて、幾度も幾度も口付けを交わした。
「う・・ん・・ぁ・・・」
 首筋に、胸元に、唇が落ちる。
「えが・・みさ・ん・・」
 肌を這う手の感触に押し寄せてくる、泣きたくなるような羞恥心と、甘い“何か”。それを抱えたまま、僕は抱き締めてくるぬくもりを掻き抱いた。
−−−−−“鬼のせいよ・・ ”
 どういう理由があったにせよ、山の中に友人を置き去りにしてしまったその罪悪感を彼女は“鬼”と呼んだ。そして彼女の罪悪感を見たいと願った女も又、きっと自らの中に“鬼”を取り込んでいたのだ。けれど女は自分の中の“鬼”に気付く事なく、“鬼”に魅せられた男に殺されてしまった。
「アリス・・」
「・・・っ・・ふ・ぁ・」
 “外”を排除する事ではなく、永遠を選んだ男も、恋人をただひたすらに守ろうとした男も、鬼たちの中で躍らされてしまったのかもしれない。けれど、全てを鬼のせいだけには出来ないのだ。僕たちは生きている人間なのだから、どこかでそれに対峙して向かい合い、打ち勝たなければならない。そうしてその時に、もしも僕がそれと向かい合わなければならなくなった時には、この人が・・今抱き合っているこの人が側に居てくれればいい。勿論・・・。
“案外、俺が殺したのかもしれへんよ?”
 万が一にもその反対の時があるとするならば、その時にもこの人の側に居たい。否、きっと、絶対に側に居る。鬼の入り込む隙などない程に−−−−−−。
「・・も・・いぃ・か・ら・・」
「アリス・・」
 小さな声に応える様に呼ばれた名前。ついで落ちてきた口付けは離れて、重なるその度に深いものになってゆく。
「・・・アリス・・」
「・・は・ぁ・・っ・・」
 肌を滑る唇。
「江神・・さ・・」
 長い指が熱に触れる。
「!・・・っ・・・ん・」
 更にその奥へと触れた指に、揺れた髪がパサパサと渇いた音を立ててシーツを打つ。

−−−−−−山を追われ、里を追われ、行き場をなくした鬼たちが
                        ヒタヒタと音もなく人の心に忍び込む−−−−−−

「アリス・・・」
 ゆっくりと抱え上げられた足。
「・・・・・・好きです・・やから・・」
 背中に回した指に僕はそっと力を込めた。そして。
「・・・は・なさんといて・・くださいね・・」
 真っ直に見つめた瞳の中で、江神さんがフワリといつもの微笑みを浮かべる。
 そして僕はそれに励まされるようにもう一度同じ言葉を繰り返した。
「離さない・で・・!・あ・・あぁぁっ!」
「・・・・・離さんよ」
 微かに聞こえた声は、確かにそう言った。
 その答えを抱き締めたまま、僕は刻まれるリズムに薄れてゆく意識の中で、鬼がゆっくりと岩戸を閉じる幻を見た。


えーっと・・・・・・何も言うまい・・・です。推理だけで終わりたかった方にはすみませんと・・・