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狂鬼恋歌2

丹波と丹後の境に位置する大江町は、その中央に由良川が流れ、町の北部には鬼退治の伝説で有名な大江山の峰々が裾野を広げている。
 大江山は主峰・千丈ガ嶽を差す場合もあるが、一般的には千丈ガ嶽から鳩ガ峰、鍋塚、鬼穴と続く一群の山塊を総称する。町のあちこちには伝説にちなんだ鬼の観光スポットが点在し鬼瓦公園や、鬼の交流博物館、又駅構内の売店でもシマ模様の鬼のパンツまで売っている念の入れようである。
 大江駅前から町営のバスに乗って約30分。といっても1日に6便しかないバスである。
 これに関しては教授からは聞いていなかったが、おそらく車を使って来ているのだろう彼はそれを知らなかったのかもしれないととりあえず好意的に思っておこう。
 ともあれ、さほど待ち時間がなくスムーズに乗れるのは奇跡に近いかもしれないと停留所の時刻表を見ながら思った僕は、終点近くの道端に現れた『お伽草子』に登場する鬼退治にやってきた山伏姿の源頼光たちの人形を眺めてバスを降りると、今走ってきた道を戻る様に舗装された道路を下り始めた。
「えーっと・・・・吊橋の手前まで戻って脇道を登って行くんでしたよね?」
「ああ。この前の停留所で降りても良かったんやけど、教授曰く“登るより下る方が楽なのは常識”だそうやから。この先が酒呑童子の里と呼ばれている所や。というてもここも一部みたいなもんやけどな」
 言いながら江神さんは後方の門のようなものを指差した。
 それに視線を向けて、ついでとばかりにグルリと周囲を見回す。
 ぽっこりと腹の出た赤鬼が前に立つ、大きな三角屋根のどこか公民館を連想させるような白っぽい建物が“大江山の家童子荘”。
 その道沿いに建つコンクリートの奇妙な形の建物が“鬼の交流博物館”。
 そして更にその先には“大江山グリーンロッジ”と記された、落ち着いた茶系の洒落た建物が見える。
「・・・・・結構綺麗な所ですよね」
「そうやな。ちなみにこの向こうにはバンガローがあるそうやで?」
「酒呑童子の里なんて言うからもっと鄙びた所かと思うてました」
 僕の言葉に江神さんはクスリと笑いながらキャビンを取り出した。
「せっかく5日間も居るんや。一度位は酒呑童子の里の中を覗きにくるか?池があったり、鬼の銅像があったり、その先にはいいハイキングコースもあるそうやで?千丈ガ原を経由して鬼嶽稲荷神社まででも1時間位で行ける書いてあった」
 フワリフワリと白い煙が揺れる。
「どこで見たんですか?」
「駅のパンフレット。因みにな肝臓に強くなるお札が貰えるそうや」
「・・・・・・」
 そう言えばバスの僅かな待ち時間に何かを見ていた気がする。この好奇心が部長の部長たる所以であると僕は胸の中で溜め息をついた。別に山登りが嫌いなわけではないが好んでする程好きでもない。どうやら5日間の中の一日は大江山ハイキングになりそうだ。川辺教授の自慢の書院がどれ程の雑然さなのかは判らないが、これはかなり頑張らないと宝の発見には至らないかもしれない。
 そんな僕の考えを気付いているのか、いないのか、やがて江神さんが「あれやな」と声を出した。
 視線を上げると見える大きな吊橋。府道と宮川の上流・二瀬川渓流の上にかかる、新童子橋。
 幾重にもワイヤーが張られた赤いそれを眺めながら、僕は府道を大江方面からこちらに向かって走ってくる一台の白い車に気が付いた。小さな点のようなそれはすぐに大きくなって吊橋の手前辺りで僕たちとすれ違う。
 何気無く目で追うと4人の男女たちの姿が見えた。そしてその内の髪の長い女が車内から愛想良く手を振って、そのまま走り去って行ってしまった。
「・・・・里のどこかに泊まるんでしょうか?」
「この先にはそれしかないからそうやろ」
 言いながら江神さんは短くなったキャビンを携帯用の灰皿に押し込めて再び歩き出す。その背中を追う様にして歩きながら、僕は小さく口を開いた。
「・・何だか思っていたイメージとどんどんかけ離れて行く感じがします」
「アリス?」
 すぐさま返ってきたどこかいぶかしげな声。
 府道を逸れて、幾つかの名前の並んだ立て札の立てられた辛うじて車が通れるという脇道に入りながら僕は溜め息をついて口を開いた。
「せやって何だかすごく整備されとる感じやし、鬼の博物館もモダンな建物だったでしょう?鬼の里なんていうから隠れ里のイメージがあったんですよね。でもああいう若い人間も来るんやなぁって」
 ジャリジャリと靴の下で鳴る砂利。それに重なる僕の言葉に次の瞬間、江神さんはプッと吹き出して笑い出してしまった。
「江神さん!?」
「若い人間って、自分かて十分若いやろう?それとも年をそんなにごまかしていたのか?」
「そんなん!そういう事やなくて・・!」
「そりゃあ今から千年も昔は鬼が棲む位山奥やったけど、ここは元伊勢神宮があったり、天の岩戸があったりと結構古くから信仰で栄えた土地なんや。ちなみにこの先、もっと宮津よりの方にはスキー場だってあるんやで。それになあんまり何もなくても反対に困るやろ?もっとも教授は回りに何もないって威張って言うてたからこれからがアリス好みの隠れ里の雰囲気になるのかもしれへんな」
 クスクスとまだ笑いを漏らしながら江神さんは一応“道”と呼べなくもない山道を歩いてゆく。
 その間に、一つ、又一つと『川辺』とは違う名の立て札が現れて、その少し先の林の中にログハウスのような家が見え隠れして行く。
「あとどれ位なんですか?」
「さぁ・・バスを降りてから20分位って言うてたんやからあと5分程度ってとこか?」
「・・・・・・」
 バスを降りて吊橋までが10分強。そこから約10分。
 マツやクヌギの潅木帯の緩やかな傾斜のある道は、けれどどんどん細くなり、やがて車の通行が不可能な程の幅になった。この脇道を歩き出して5分。少なくとも後5分はこの奥に入ってゆく計算だ。だが、しかしここを5分間奥に入ってゆくだけでもそれは結構冒険なのではないだろうか?
「・・入る時、立て札みたいなのがありましたよねぇ?」
 僕の問いに江神さんは歩調を揺るめて振り向いた。
「ああ。因みに『川辺』以外にあった名前は今の時点で出揃ったな」
「・・・・・・・」
 思わずヒクリと引き吊った頬。
 そう。物好きは結構いるものなのだと僕は府道の脇に立てられたそれを見て思ったのだ。けれど、でも、先ほどの車が通れるギリギリの地点で、そこに記されていた『川辺』以外の名前は出切ってしまったという事は、やはり“物好き”の頂点はあの教授しかありえないらしい。
「確か途中にも看板があるって言うてたんやけど・・」
 江神のその言葉を待っていたかの様に現れた、草の中に半分倒れ掛けて立てられていた“看板”というか“立て札”というか、とにかく教授らしいと言えばこれ程あの教授らしいものはないという木の板。それには、消え掛けて、けれど確かに『川辺』と記されていた。
「間違うてはおらんようやな」
「そのようですね」
 ではやはり、益々細くなって行く、この道なき道を突き進んで行くのだ。少なくともあと3分以上は・・・。
「川辺教授は車で来るんですよね?」
「ああ・・多分な」
 歩く度に草が音を立てる。
「でもここは車は入れませんよね?」
「さっきの場所で停めて、そこからはやっぱり歩くんやろ?ああ・・でも別荘には“愛車”があるから使うてくれって言うてたな」
 膝上近くまである草の道を歩くのは中々どうしてきつい。
「・・・・・何だかその愛車の形が目に浮かびます。多分動力は人力やと思います」
「俺もそれに賛成や」
 熊笹が行く手を阻む。ハイキングは確か5日間のうち一日だけではなかったのだろうか?しかもここはその予定のコースではなくて、更に、行った道は帰らなければならない道でもあって・・・。
「・・・江神さん」
「何や?」
 さすがに熊笹の道の中では煙草を吸うわけにいかないヘビースモーカーは僕の呼びかけに再びクルリと後ろを振り返った。
「僕はバスを降りてからやなくて、車を降りてからの時間の間違いやないかと思うんですけど」
 言っても仕方がないといえばこれ程仕方のない事もないが、それでも言わずにいられない。
「それかあの地点から“愛車”を使うての時間やな」
「・・・・・・」
 尚悪いやないですか・・という言葉を飲み込んで僕は半分自棄になったような気持ちで熊笹の道をザカザカと進み始めた。確かに隠れ里がどうとか、整い過ぎてなんだとか思ったけれど、よもや別荘につくまでにハイキングが用意されているとは思わなかった。が、しかし、それでも何でもここは一度は教授が歩けた道なのだ。自分たちに歩けない筈がない。
「とりあえず管理をしてくれてる人に泊まれる様にはしておいて貰う言うてたから、着いて早々掃除から始める事はないはずや。ただ・・・」
 キラキラと落ちる木漏れ日。
 どこかから聞こえる名も知らぬ鳥の声。
 何となく途切れた江神さんの言葉の先が想像出来て僕は再びヒクリと頬を引き吊らせた。
「・・・まさか着いてすぐに買い出しに出るなんて事にはなりませんよねぇ・・」
「そう願いたいんやけどな。でも、どっちにしても5日間自炊いうわけにもいかんやろうから、何辯かはこの道を往復せなあかんけどな」
「・・・・・・がんばります」
 やはり宝探しはそう楽なものではないらしい。
 溜め息をついた僕に江神さんがクスリと笑った。
 そうしてその15分後−−−バスを降りてから30分強のハイキングの末、僕たちはようやく“宝”の待つ『川辺邸』に到着した。

とりあえず目的地に到着。さて何が起こるかなと・・・・・