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狂鬼恋歌3

「一息するか?」
「・・・そうですね、コーヒーでも淹れます」
いつの間にか夕日の中に沈んだ木立。窓から見えるはそこ
は“夕暮れ”とでもタイトルのつきそうな一枚の風景画に変わっていた。
 朱に染まった木々。その間から見える雲の帯。
 一瞬目を奪われて、ハッとして視線を剥がすと僕はパタパタとキッチンに向かい、やかん−−本当に“やかん”と呼ぶにふさわしい形容の物なのだ−−を火に掛ける。
 やり始めたら随分と没頭してしまったらしい。その証拠に妙に肩と目が痛い。コキコキと首を回してついでに瞳を瞬かせて僕は一つ息をついた。
 宝の眠る『川辺邸』はチラホラと葉の色が変わり始めた木立の中にあった。深みのある茶色の木材にダークグリーンの窓枠が洒落たログハウス。それはカントリー系というよりもどっしりと落ち着いた北欧系の家を連想させた。大きめの窓と、おそらくリビングとつながっているのだろうオープンデッキは教授の趣味に違いない。
 中に入ると話の通り、管理人が整えておいてくれたのだろう、部屋はきちんと掃除がされていて、電気もガスもすぐに使える様になっていた。そして、小さな冷蔵庫の中にはハムや玉子・牛乳などの食材とキッチンのテーブルの上には食パンと多少のレトルト食品、そしてプロパンガスの説明と使ったシーツなどをどこにまとめて置けばいいか等が書かれたメモが置かれていたのだ。
 とりあえず、一番の心配がなくなった事でホッとして、次にどの程度の整理を行うのかまずは見てみようとリビングの隣の部屋を覗いて・・・そうして僕たちはその蔵書の多さに圧倒され、まるで常夜灯に引き寄せられる虫の様にそのままバイトに雪崩れ込んでしまったのである。
「アリス?」
「あ・はい!すみません!!」
 かけられた声にハッとして、シュンシュンと音を立てていたやかんを火から下ろすと、僕は用意をしておいたカップの中にそれを注いでリビングに向かって歩き出した。
 ホッとするようなコーヒーの香り。
 けれど足を踏み入れたリビングにはすでに嗅ぎ馴れた匂いが立ち込めていた。
 ソファの向こうで微かに昇る白い煙。
 作業自体は、棚に入っている本を教授から預かった一覧表と照らし合わせて−−−ちなみにこの表もゼミ生のバイトらしい−−−あった本はチェックして、表に載っていないものは書き込み、棚ごとに分類をしてゆく(もっとも大体分類されているので大きく動かす事はない)という非常に単純といえば単純なものだった。
 だが、蔵書に何かがあっては大変と作業の間、煙草が吸えないという事がヘビースモーカーである江神さんにとっては難点と言えばこれ以上はない程の難点なのかもしれない。
 クスリと笑ってカップをテーブルの上に置くと「何や?」という声が聞こえてきた。
「いえ、お疲れ様でした」
「ああ・・・想像以上に凄いな」
「ええ、でも思っていたよりはきちんと分類されていたんでホッとしてます。“宝”を見つけても見ている暇がなかったらどないしようと内心ビクビクしてたんです」
 僕の言葉に江神さんは小さく笑って吸いかけのキャビンを灰皿に置くと、代わりにゆっくりとカップを口に運んだ。それを見つめながら僕も又コーヒーを口に含む。
「・・・いいところですね」
「“隠れ里”の雰囲気にはピッタリか?」
「・・・・・江神さん」
「せやってそれを味わいたかったんやろ?」
 聞こえてくる、クスクスと笑いの混じった柔らかな声。
 それにフイと顔を逸らして、そうして次の瞬間、僕はデッキにつながるガラス戸の向こうに広がる風景に思わず目を奪われてしまった。
 つい先ほどの、赤い・・紅い世界から変化した、宵闇に溶ける手前の、どこか神々しい、けれどなぜか禍々しささえ感じる風景。
 ゾクリと僕の背中を“何か”が駆け抜ける。
「アリス?どないしたんや?」
「・・あ・・いえ・・逢魔ガ時っていうんでしたっけ」
「アリス?」
 突然の話題に小さく眉を寄せて、江神さんは僕の視線を辿った。視界に映る、くすんだ赤い木立。
「・・・ああ。夕暮れと夜の間に魔物が訪れる時間があるっていう話か?」
 話をしている間にも、夕日の赤は闇に食われて呑み込まれてゆく。
「はい。ここやったらさしずめ鬼が現れるってところですかねぇ・・」
 ポツリと独り言のように落ちた僕の言葉に江神さんは一瞬だけ考えるようにして、そっと口を開いた。
「そうやな。鬼が現れて、人の心を惑わしてしまうかもしれへんな。けどな、アリス。鬼やったら攫って食ってしまうんやで?」
「江神さん・・?」
 今度は僕が眉を寄せる番になった。
 ほとんど“夜”の世界に沈んだそこから視線を元に戻した途端、ぶつかる瞳。
「大江山の鬼は人を攫ってきては食ったり閉じ込めたりしていたと言われとるんや」
 繰り返された言葉。
 そうして江神さんは限りなく苦笑に近い笑みを浮かべた。
「お伽草子の中では、鬼どもは悪行を繰り返しやがて頼光に退治されてしまうけどな、地元では村人の為に尽くした良い鬼として語り継がれとるそうや」
「江神さん?」
 話題の転換について行けない。そんな僕にもう一度フワリと微笑むと、江神さんはいきなり僕の身体を引き寄せた。
「ええええ江神さん!?」
 パァーッと赤くなる顔。
「鬼も色々や。語り手によって善にも悪にもなってしまう。せやからきっと鬼のせいにも、魔物のせいにも出来へんな」
「・・・え・・?」
 トクン・トクン・・と鼓動が鳴る。
「5日間2人きりって言うのは思っていた以上の状況やな。アリス」
「・・・・・・・」
 耳をくすぐる、どこか困ったような色を含んだ言葉に、抱き寄せられたまま僕は赤い頬を肩口にそっと押し当てた。確かに、これは鬼のせいにも魔物のせいにも出来ないかもしれない。 けれど、でも、そんなものたちに惑わされてしまったと何だか信じてしまいたい気がした。
「えっ・・と・・あの・・・・た・・宝探し、頑張りましょうね」
 それはこの場面とはひどくかけ離れた、けれど、どこか甘えた響きを持っていた。
 重なる視線。
 重なる唇。
 重なる吐息。
「そうやな・・」
 サラリと揺れた長い髪。
 縋がる様に背中に手を回して。
「江神さん・・」
 キシリと鳴ったソファに、一瞬だけ視界に入った“闇”の風景の中、サワサワと風が揺らす微かな葉擦れの音を聞きながら、僕はそっと瞳を閉じた。

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そんなに・・・なシーンじゃないのに妙に恥かしい感じがするのは私だけかしら・・・・