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狂鬼恋歌4

「目が覚めたか?」
「−−−−−−!」
 その途端聞こえてきた声に僕は慌てて起き上がって、次の瞬間ソファに逆戻りをしてしまった。
「・・・・すまん。痛むか?」
「い・・いえ!!大丈夫です!」
 答えた言葉にフワリと微笑む顔。それを見ながら今度はそっと起き上がって眠っていたソファに座り直す。途端にスルリと床に落ちた薄手の毛布。どうやら意識を失ってしまったらしい。しかも“脱いだ筈の服を着て眠っていた”という事実がちょっと居たたまれない。
“江神さ・っ・ん・・あ・あぁ・・”
“アリス・・”
“やっ・・あ・・い・・あぁ・・・!”
(・・やっぱり恥ずかしすぎる・・・)
 抱かれた事も、こんな風に意識を失ってしまった事も初めての事ではない。
 正確に言ってしまえば去年の冬から幾度も自分たちはこうして肌を合わせて、身体を重ねてきたのだ。
 けれど思うそばから、それでも何でも、恥ずかしいものはやっぱり、何度経験しても恥ずかしいのだと僕は赤い顔を更に赤くして俯かせた。
「えっと・・・あの・・・すみません」
「何がや?」
「・・・・仕事・・一人でしてはったんでしょう?」
 電気を消して、リビングに置かれていた柔らかなランプの灯りに照らし出されたテーブルの上には先刻まで使っていた一覧表が広げられていた。それは僕が知っている時よりも遥かにチェックされている本が増え、更に書き込みもされている。
「無茶をさせたからな。これで宝が探せんかったら恨まれてしまうやろ?」
 浮かんだ優しい微笑み。それがひどく気恥ずかしくて僕はその視線を避ける様にして表に視線を落とした。そして、そこに並ぶタイトルにふと先ほど感じた事を思い出して口にする。
「・・さっきも思うたんですけど、ほんまに範囲が広いですよね。文学史の専門書っていうのもあれば、エッセイみたいなものもあるし・・」
「けど秩序がないわけやない・・やろ?」
 言いながら銜えられた煙草。そうなのだ。決して秩序がないわけではない。それどころか・・。
「・・・・っ・・」
 言葉を繋ぐべく顔を上げた途端瞳に飛び込んできた灰皿。てんこ盛りというのがぴったりの、吸い殻が溢れ返ったそれに、僕はどうやら自分が眠っている間に彼が半日分の量を取り戻していたらしい事を知り、思わず苦笑を漏らしてしまった。
「アリス?」
「ああ、はい。そうです。さっき僕がやってた所は詩集があったんですけど、作家毎に驚く程資料が揃っているんです。全集から、解説本、研究本、更に恐らく原本。藤村なんか見事やったなぁ・・」
「出身が同じや言うて個人的に傾倒しとるって聞いた覚えがあるな。『破壊』に『夜明け前』・・・『椰子の実』も藤村だったな」
 スラスラと聞き覚えのあるタイトルが江神さんの口から零れる。
「僕は藤村言うたら『初戀』くらいしか思い浮かびません」
「“まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えし時・・”か。『若菜集』やったかな」
 柔らかなオレンジ色の光の中でフワフワと揺れる紫煙。
「よぉ判りませんけど、有名ですよね?」
「そうやな。藤村の代表作やろ。でも『若菜集』で言えば評価されとるのは別の物らしいけどな」
「そうなんですか?」
「ああ。おえふ・おきぬ・おさよ・おくめ・おつた・おきくのいわゆる“6人の処女”と呼ばれる6編と、お夏・清十郎を扱った“四つの袖”あとは“知るや君”に“草枕”辺りかな。そう言えば夕暮れから夜の辺りを書いた詩もあったな」
 ミステリー以外でも僕は江神さんの話を聞いているのが好きだった。文学部と言っても当り前だがその全てに精通しているわけでは勿論ない。教授など研究者たちにしても、浅く広くよりどちらかと言えば(無論異なるケースもあるが)狭く深くの場合が多いだろう。こんな風に様々な知識を幅広く自分のものにして持っている人間を僕は知らない。更に、彼は哲学科の学生だ。近代詩人は言わば畑違いの分野だろう。
「どういう詩ですか?」
 僕の問いかけに江神さんは思い出すように僅かに目をすがめると、やがて静かに口を開いた。
「“二つの声”朝の声と暮れの声と対になっとるんや・・」

たれか聞くらん暮れの声
霞の翼 雲の帯
煙の衣 露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使いの蝙蝠の
飛ぶ間も声のをやみなく

 低く、優しく響く声。
 それはあの日、あの夜に聞いた、あの詩の様に深く、ゆっくりと心の奥に染みてゆく。
 あの詩とは違う、けれど、どこかで記憶が交差する。

こゝに影あり迷いあり
こゝに夢あり眠りあり
こゝに闇あり休息あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とゝもに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ

「なんだか静かで、綺麗で・・でも・・恐い詩ですね」
「アリス?」
「・・・・・夜になるのが恐くなる」
「せやけど、夜がきいへんかったら、朝も来ないやろ?夜が明けるから朝になるんや」
「何だか卵が先かニワトリが先かみたいな話ですね」
 クスリと笑った僕に江神さんが小さく笑った。
「えらい時間やけど何か食うか?」
「・・・・うーん・・・江神さんは?」
「どうでもええな」
「なら、僕もいいです」
「ほんならそろそろ寝るか。明日は朝食を食べたらバスの時間を調べて買い出しに行かんと。さすがにあれだけで後4日は持たんやろ?」
「そうですね。それに残り全部が自炊っていうのもちょっと辛いものがありますし。どこか食べられる所を探してこないと」
「その度にハイキングやけどな」
「・・・・・サイクリングですよ」
 憮然とした僕の言葉に次の瞬間、江神さんは勢いよく吹き出した。
 こうして長い一日が終わった−−−−−−−。

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一日目終了。さて、これから何が起こるのでしょうか?