.

.

狂鬼恋歌9

「あ・・昨日の・・」
「ああ、どうも」
“童子荘”に入ってフロントに目を向けると昨日の男と目が合った。ペコリと頭を下げると向こうも軽く頭を下げてそこから出てくる。昨日は見過ごしてしまったのか、それとも彼がつけ忘れていただけなのか、ラフなポロシャツの胸元には“小出”の小さなネームプレートがつけられていた。
「今日は夕食狙いですか?それとも遅い昼食ですか?」
言われて時計を見ると2時を少し回っている。中途半端と言えばこれ程中途半端な時間もないかもしれない。
「今もテレビを見とったんですが、今夜から明日にかけて台風が上陸する言うとりましたわ。お陰でこっちは暇で暇で。キャンセルも出てしもうて」
それは確かにそうだろう。嵐が来ていると判っているのにわざわざ山登りに来る者はいない。
「あの辺りは避難とかした方がええんですか?」
「え・・?ああ・・それでいらしたんですか。そうですねぇ。まぁ、余程の事が無い限り大丈夫やと思いますよ。あの辺りは崩れるもんがあるわけやないし。川があるわけでもないから鉄砲水の心配もない。強いてあげる言うんやったら木が倒れる位ですか。まぁ、それでも別荘を建てた辺りは割合若い木が多い所やし、それで家が潰れる心配はありませんな」
「・・・・・・・」
何とも大雑把で豪快な見解だが、それでも人の良い笑顔を見ているとそんなものかと思えて来るから人間の感覚は不思議なものだと僕は妙な納得をしてしまった。
「安心しました。何しろ懐中電灯位しかないもので」
江神さんの言葉に小出はクシャリと顔を崩して笑った。それを見ながら江神さんはゆっくりと言葉を続ける。
「そう言えば、こちらはバンガローやキャンプ場がありましたよね。そちらの方は大丈夫なんですか?」
瞬間、浮かんでいた笑顔がピキリと凍り付いたのを僕は見逃さなかった。けれどそれは本当に一瞬の事で、次には困ったような笑みにすり変わる。
「キャンプ場の方は今日明日は使用禁止にして、バンガローにご宿泊の方はこちらの方にお泊まり戴く予定でおります。幸い、と言いますかキャンセルが入って部屋にも余裕がありますし。まぁ・・大丈夫やと思うんですが、上陸や直撃やて騒いでおりますし、万が一何かあったら大変ですから」
「そうですか。大変ですね」
「いやいや、これが仕事ですから」
それはつい先ほどにも、何度も聞いた言葉だった。
「では」と頭を下げて踵を返しかけた身体。それに江神さんは小さく口を開いた。
「遺体はどこで発見されたんですか?」
「えっ!?」
突然の質問に思わず声を上げてしまったフロントマンは次の瞬間ハッと自分で自分の口を押さえた。けれどその瞳はどんな言葉よりも「なぜその事を?」と語っている。
「先ほど警察が別荘まで来まして」
「・・ああ・・ああ、そうやったんですか」
息を吐く様に落ちた言葉。その後でキョロキョロと辺りを見回すと小出は「コーヒーでも飲みませんか」と食堂に向かって歩き出した。


「・・ほんまにえらい事ですわ・・」
3つのコーヒーをテーブルに置くと、彼は椅子に腰掛けながらそう口火を切って話し出した。
「夕べバンガローのお客さんから事務所の方に連絡が入ったんわ午後8時近かったでしょうか。昼間から姿の見えん友達がまだ戻らん言うて。一応近辺は手分けをして捜してみたんやけどそちらに何か連絡や情報がないか言うんです。とりあえず残っていた人間で事情を聞いて、もう一度辺りを捜してみたんですけど見つからない。ただ聞いた状況が状況だっただけに、下らん痴話喧嘩に巻き込まれるのもアホらしい言う考えが私らにもありましてなぁ・・。一応警察の方に届けて明日の朝までに戻らんようやったら捜索隊を出そう言うてたらこの始末ですわ」
小出は苦り切った様にそう言ってコクリとコーヒーを口にした。僕たちに話をしてしまう程、彼も煮詰まっていたのだろう。コーヒーをテーブルに戻すと彼はふと思いついた様に江神さんを見た。
「したら、揉めた学生言うんわお二人の事やったんですか」
「揉めていたのは一方だけなんですけどね」
僕の言葉に小出は分かっていると言う様にうんうんとうなづいた。
「えらい難儀でしたなぁ。それで警察が御宅まで伺うたんですか?」
「色々と人定尋問を受けました」
江神さんがクスリと苦い笑みを零す。
「そらひどい。せやけどそんなもんですわ。私らだって職務怠慢やとか、通報の義務がなんやとか言われて、果ては容疑者扱いまでされました。アリバイ言うんでしたか、それも聞かれました。もっとも誰かしらと話をしたり、姿を見られとりますからそんなん聞かれても恐るるに足りん言う感じでしたが」
クシャリと崩れた顔。笑うと眉が八の字に下がるのがなんだかおかしい。
「池の辺りを散歩していた方が見つけられたんですよね?」
逸れた話題を修正すべく、江神さんはカップを手に再び口を開いた。
「ええ。あの辺りは千丈ガ原を通ってこちらに下りて来られる方も多いんですが、車道から少し離れとりますから発見が遅れたんやと思います。鍋塚と千丈ガ嶽を往復されるハイカーの方は上の休憩所の駐車場か、鬼嶽稲荷さんの手前に車を止めるのが一般的なんですわ。せやから行くにしても戻るにしても車を使うてしまう方が多いんです。グルリと巡られる方も居るんですが、舗装道路を逸れてまで池の方に行かれる方は・・・」
「ここからやとどれ位かかるんですか?」
「そうですなぁ・・慣れたもんやったら15分もあれば」
「ちなみに稲荷神社から歩くと?」
この質問は僕。
「そらもう結構かかりますわ。40分・・もっとかかりますやろか。千丈ガ原の中を突っ切ってしまえばええんですけど舗装道路を歩くとグルリと大回りしますしなぁ。ここをまともに歩いたら1時間は下らんと思います」
道を思い出すようにして小出は小さくうなづきながらそう言った。そうしてその後でふと窓の外に視線を向ける。
「ああ・・降ってきましたわ。何か食べられますか?」
「夕食にはまだ早い時間ですが、大丈夫ですか?」
「なぁに、2人分くらいやったらどうとでもなります。厨房の方でもあの先生と飲んだ者がおりますからその教え子さんたちや言うたら用意してくれはりますやろ」
「お言葉に甘えます」
江神さんの言葉に小出は笑って立ち上がった。その歩いてゆく後ろ姿を見ながら何だか僕は、まだ1.2度しか会った事のない川辺教授と無性に話がしたくなった。
「・・・・千丈ガ池か・・」
ポツリと江神さんの声が漏れ落ちる。
「確かどこかに地図があったな」
言うが早いか立ち上がると江神さんはそのままパタパタと歩き出し、程無く地図と呼ぶにはあまりにアバウトなパンフレットをテーブルの上に広げた。
「バス停がここやろ?」
言いながらどこかで拝借してきたのだろう鉛筆でその位置を書き込む。
「池は・・ああ、確かに近いな」
位置的にはグラウンドと道を挟んだ反対側の少し奥という所に千丈ガ池と記されている。今聞いた話の通り、車の通る舗装道路からは少し離れている。
「・・・・・12時過ぎから4時・・・またはそれ以降かもしれんとなると・・・・全員真っ黒やな」
お手上げとばかりにカランとテーブルの上に短い鉛筆が転がった。今の僕たちは考えるには情報が少なすぎる。
取り出されたキャビン。銜えて火を点けるとユラリと煙がのぼる。
「彼女を最後に見たのは、あの仲間たちと僕たちなんでしょうか?」
「うん・・?」
「彼女はほんまにあの時点から行方が分からなくなったんでしょうか?」
「・・・・・さぁ・・それは聞いてみん事には分からんな」
フワフワと揺れた紫煙と、チラリと動いた視線に僕はゆっくりと後ろを振り向いて。
「・・あ・・」
入口の所に硬い顔をした美里と不機嫌を絵にかいたような会田と谷崎の3人の姿を見つけた。

.


再び童子の里に・・・・・