有栖と喧嘩をした。
と言うか、有栖がキレて、怒って、帰ってしまったきり現時点で音信不通になっていると言った方が正しいかもしれない。
事の始まりは10日前。
例によって例のごとく行き当たりばったりと言うか思い立ったが吉日状態で京都までやってきたやってきた彼は長年の友人兼恋人の状態を見て固まって、怒って、拗ねたのだ----------------・・・・・・。
「呼べばいいやないか!」
「・・・・・・・」
「水くさいにも程がある!」
「・・・・っ・・」
ギュッと絞った冷たいタオルを額の上に置いた途端顰められた顔。
それを見つめながら大阪在住の推理小説作家を有栖川有栖はおもむろに手を出した。
「・・・・・・・」
寄せられた眉が有栖の現在の怒りを表している。
けれどそれに何かを言い訳する事も、向けられる視線でさえもが面倒で、布団の中の住人、英都大学社会学部助教授の火村英生はこれでもかというほどかったるい動作で無言のまま体温計を取り出した。
「38.3度!最悪や!アホんだら!!」
差し出されたそれを奪い取るようにして見ての一言である。更に深くなった眉間の皴とまだ文句を言いそうな有栖に火村は有栖以上に不機嫌な顔で口を開いた。
「・・・ごちゃごちゃうるせぇぞ・・病人の枕もとで怒鳴るな」
ヒリヒリと痛む喉。
そう、一週間ほど前からなんとなくまずいなと思っていたのだと火村は胸の中で溜め息をついた。
けれど仕事は待ってはくれない。
ただでさえ急に入るフィールドワークで休講が多くて有名でなのだ。
それに師走に入ればその字の如く『先生も走る』ほどいつもよりも更に忙しい。
風邪くらいで休んではいられない。
それが火村の下した判断だった。
だがしかし、今年の風邪は強かった。
“何だか怠くて熱っぽい”から“妙に喉が痛くてひどく怠い”に変わり“まずい熱が出てきやがった”に変わるまでそれ程時間はかからず、騙し騙し何とか仕事をというよりもとにかく寝て治してしまおうと思った時はすでに遅かった。
完璧に引き込んで食事も思うようにとれなくなってそれゆえ治りも悪くなると言う最悪のパターンに陥ってしまったのである。
「怒鳴られたくなかったらもう少し自己管理をしたらどうや!」
「・・・お前だけには言われたくないな」
「寝ろ!アホ!」
憮然としてそう言われ、悔し紛れに短く怒鳴って有栖はぷいと横を向いた。そうして持っていた体温計をテーブルの上に置くと今度は台所へと歩き出した。
すでに有栖にとっては勝手知ったる他人の家である。
北白川にある火村の下宿は彼が学生時代から住んでいるところで、現在に至るまで有栖はもう何度となくどころか数える事も不可能な程訪れている場所だった。
今では店子は火村のみで、大家の篠宮夫人と3匹の猫たちがこの家の住人になっている。
本に囲まれ、雑然とした部屋。
いつ訪れても変わらないこの部屋は、けれど今日は主の病気で何だかひどく寒く感じてしまう。
大体自分は3日前に火村に電話をしていたというのにこの状態に気付けなかった。それが有栖の不機嫌を増長させる。
『締め切りが明けたらうまいもんでも食べに行こう』
そしてこの男はいつもの笑いが見えるような口調で言ったのだ。
『当てにしないで待ってるさ』
本当に本当に本当に!気付かない自分も大概鈍くさいけれど、言わない火村も水くさい。
「・・・そりゃその時はここまでひどくなかったのかもしれへんけど・・」
台所で大家から戴いたリンゴの皮を剥きながら有栖はボソリと声を漏らした。
そうせめて少しでも具合が悪いと判っていれば、ちょっとでも早めに原稿を上げて、何か消化の良いものを買って駆けつけてきたのに。それなのに!!
予定通りに原稿を上げ、いきなり行って驚かせてやろうと京都の母校に出かけた自分が火村の不在とその理由を知ってどれだけ驚いたか絶対にこの男には判らないのだ。
(ふざけんな・・!)
包丁を持つ手に思わず力が入る。
「・・・アリス?」
「・・・・・」
「何してんだ?」
「・・・・婆ちゃんからリンゴを貰うたんや」
「・・・・食べたくないんだが」
「ふざけるな。ちゃんと食べてクスリを飲んで寝な治るもんも治らんわ。・・ったく・・いつからや?」
「・・ああ?」
「・・いつから熱があったんや?」
「さてね・・忘れた」
「火村!」
「・・おい、そそっかしいんだから包丁は置けよ。それと騒ぐな。何度も同じ事を言わせるんじゃねぇよ」
そこまでやや掠れた声で言うと火村はふぅと息を吐いて瞳を閉じた。
本当に具合が悪いらしい。
「・・・・・・一つでもええから食ってくれ」
そういうと有栖は泣き出しそうな顔をして火村の枕元に座り込んだ。
「・・・後で食う」
「・・腐る」
「ばか・・・そんなに早く腐るか。冷蔵庫にでも入れてお前は伝染らないうちに帰れよ」
言うが早いか火村は赤い顔をバサリと布団の中に潜り込ませて有栖に背を向けてしまった。
それを悔しげに顔を歪めて見つめて、次の瞬間、有栖は向けられた背中をキッと睨みつけた。
「・・ほんまは3日前から熱があったんやな?」
言葉にしただけで胸の中に痛みが走るような気がした。
「・・・・・・・」
けれど布団を被ってしまった火村は何も答えない。
「何でその時言わんかったんや?」
「・・・・・・・」
「ほんまに原稿が上がらんと思うとったんか?」
「・・・・・・・」
「それとも俺が来ても役に立たないってそう言う事か?」
「・・・・・・・」
「火村!何とか言うたらどうや!それで帰れって何考えとんねん!」
「アリス、いい加減にしろよ」
「いい加減にするのは君の方や!医者は?薬は!?」
「寝てれば治る」
「治らんかったからこうなっとるんやろ!」
「ゴチャゴチャうるさい!お前は俺の熱をこれ以上上げ
るつもりなのか!帰れ!!」
「・・・・・心配しとるんや」
「心配してもらったからって治るわけじゃない」
再びバサリと布団を被ってしまった恋人に有栖は子供のように顔を歪めた。
「・・・・・・帰る」
「じゃあな」
「もう来ない!絶対、絶対来ぃひんからな!!!」
「・・・・・・」
「いけず!くそボケ!アホんだら!大ッ嫌いや!!」
今時子供でも言わない稚拙な台詞を並べ立てて、有栖は怒りまくって帰って行った------------・・・・・・・。そうして10日。
有栖からの電話はない。
そして風邪が抜け、職場に復帰した5日前からかけ続けている火村からの電話にも出ない。
まさに徹底抗戦の構えである。
さすがにどうしたものかと思って火村は相変わらず雑然とした机の上に置かれている卓上カレンダーを眺めた。
いつもならばイベント好きの恋人からやれクリスマスだ年越しだと計画を練っては電話を掛けてくるという時期である。
一応昨日『クリスマスはどうするんだ?』と留守電に入れてはみたが未だその効力は発揮されてはいない。
「・・・・ったく・・」
苛々としたように呟いて火村はキャメルを取り出した。
確かに風邪を引いた事を知らせなかったと怒る有栖の気持ちも判らないではないのだ。
ただ火村自身、自分の身体を騙し騙し仕事をしていて、寝込んだら寝込んだで今度はとにかく早く熱だけでも下げなければと思う事しか出来なかったのだ。それで精一杯だったと言っても過言ではない。
それに正直に言えば有栖から電話が入った時、この風邪が抜けるまでは来ないでほしいと思ったのも事実だった。
けれど、でも『普通はそうだろう?』と火村思う。
好きな人間に風邪を伝染したいと思う人間はあまりいない筈だ。
似合わないと言われてしまうかもしれないが、好きな奴にはいつだって元気で笑っていて欲しい。
それに風邪くらいでいちいち看病に来て欲しい等と言う事の方がどうかと思う。
人それぞれの考え方はあるにしても、少なくとも火村はそう考える方の人間だった。
だからあえて告げなかったし、電話もしなかった。
寝ていれば治ると本気で思って、実際思ったよりも多少時間はかかってしまったがそうなった。
『呼べばええやないか!』
瞬間、泣き出しそうな顔をして怒鳴った有栖の声が耳の奥に甦る。
けれどそれは水くさいとか、心配を掛けたくないという気持ちよりもただ単に火村自身が有栖に風邪を感染したくなかったという火村の我が儘なのだ。
そう、火村が風邪をひいて苦しそうな有栖を見たくなかった。ただそれだけの事だった。
「・・・・・・・」
フワリと紫煙を立ちのぼらせて火村は眉間に皺を寄せたまま長くなった灰を灰皿の上に落とした。
もう一度、大まかな予定の書き込まれている卓上カレンダーを見た。
ただでさえ忙しい時期だというのに結局風邪で約一週間休んでしまったのだ。その皺寄せが当然のように今来ていて、火村はとてつもなく忙しかった。
本当にこの間の件がなければクリスマスなどとても考えられない。
けれど・・でも・・・
「・・仕方がねぇよな・・」
年内の関係回復を望むならばそれは外せないイベントだった。学生時代からの付き合いでそれはよく分かっている。
思わず零れた溜め息。
勝手にしろと思う反面、ひどく有栖の事を気にしている事実に苦笑に近い笑みを浮かべると火村はもう一度駄目押しのように、短縮に登録してある番号を押した。
「・・・・っ・・」
けれど聞こえてくるのは相変わらずの味気ない留守電のテープの声だけで、メッセージも残さずに電話を切ると火村は盛大に眉を寄せて苛々と受話器を戻した。
一体有栖は何をしているのか。
本気で避けるつもりでいるのだろうか。
「・・・・少しはこっちの事情も考えて拗ねろ」
それもどうかという事を呟きながら火村は頭の中で素早く仕事の予定を組み立て直した。
これ以上この苛々とした状態が続くというのはマイナス以外の何ものでもない。ストレスは溜まるし、何より仕事の能率が上がらない。
「・・・ったく・・覚えていろよ、クソ馬鹿アリス」
手早く荷物をまとめながらそう口にして、火村は掛けてあったコートを掴むと研究室を飛び出した。
いつもの感じの二人。相変わらず火村ってマメな男だ・・・・・・。