大阪・夕陽丘にある有栖のマンションに着いたのは午後4時を少し回ったところだった。
年代物のベンツを地下駐車場の空きスペースに入れて先刻車で下ったスロープを登り、火村は傾きはじめた日に7階の部屋を見上げてエントランスをくぐった。
丁度1階に止まっていたエレベーターに乗って7の数字を押す。閉まったドア。何とも言えない浮遊間と一緒に上がり始めたエレベーターの中で火村は小さく溜め息をついた。
実は走りはじめてしばらくした車の中でも、火村は今度は有栖の携帯の方にかけてみたのだ。
ところが電波の届かないところか・・・ という例のメッセージが聞こえてきただけで昨日と変わらず埒があかない。溜め息混じりに切った電話。
よくもここまで怒りが持続していると半ば呆れ、半ば感心したような気持ちになりながら、火村はここに至ってふと『有栖がこの間の件で怒っている。もしくは拗ねまくっている』という事以外の仮説を思いついた。
まさかという気持ちはあるが、世の中には万が一という事もある。
しかも相手はあの有栖なのだ。
もしかしてもしかすると電話に出ないのではなく、出られないのではないか。
その可能性は十分ある。
「・・・・・あの馬鹿・・・」
勝手に膨らむ想像に自分で苛々として、ただでさえ飛ばしていた車の速度を更に上げ、多分今までの最短時間でここに来た。
乗っていたエレベーターがポンと軽い音をたてて小さな振動と共に止まる。次いで開いたドア。足早に箱の中から降りて火村は702号室に向かった。
そうしてすぐに辿り着いたドアの前。
一応と言ったようにはやる気持ちを抑えて鳴らしたドアフォンは、けれど全く返事が返ってくる気配がない。
小さく舌打ちをして、火村はおもむろに合い鍵を取り出すと躊躇いもなくドアを開けて中に入った。
「アリス!」
返事はない。
けれど彼が出掛ける時に履いている靴と、買い物などちょっと出る時に使っている普段用の運動靴に毛が生えたような靴は2足とも玄関にある。
「上がるぞ」
言いながらすでに靴を脱ぎ捨てて火村はリビングへと歩き出していた。
「いるのか?アリス?」
開いたリビングへのドア。そこにも有栖の姿はない。
部屋の中は赤い夕日が射し込み始め火村がいつも座るソファを照らしている。
「アリス!」
リビングから見えるキッチンは勿論、隣の書斎にも有栖の姿はなかった。それどころか返事もない。
どこかに出掛けているのだろうか。
ただ単に不在というだけなのだろうか。
「・・・・・・」
残っている部屋は一部屋。
寝室だけだ。
湧き上がる嫌な予感。
そしてこういう予感ほど当たるものなのだ。
スゥと息を吸って、吐いて、火村はカチャリと寝室のドアを開けた。
「・・・アリス?」
思わず潜めた声。
果たしてそこには、火村の想像通りの状態があった。
盛り上がったベッドの上にはこの部屋の住人がいた。 近寄ってみると苦しげな息が聞こえてきて、それだけでも有栖の熱が高い事が想像できた。
「・・・アリス?」
けれど有栖の返事はない。
「馬鹿野郎・・」
思わず零れたその言葉にも、いつものようにくってかかってくる声はない。
眉を寄せて火村はそっとベッドの横に膝をついた。
「アリス?聞こえてるか?アリス?」
「・・・・ら・・?」
「気付いたか?」
向けられた視線に、少しだけホッとして火村はそっと有栖の額に手を当てた。
「・・なんで・・?」
「・・・・・いくら電話をかけても出ないから来ちまったんだ。ひどいな・・」
思っていた以上にひどく熱い有栖の額に火村は眉間の皺を深くした。
「いつからだ?」
「・・・・・・判らん」
「アリス?」
「ほんまに・・・よぉ判れへんねん・・・」
掠れた声。
「君んちから怒って帰ってきて・・・無茶苦茶頭にきて飲んでふて寝して、起きたら頭が痛くて・・」
「おい・・・」
「・・その後・・エッセイの締め切りがあったからそれやって・・・結構時間がかかって・・・・」
『締め切りに間に合うように送ったのは覚えとるんやけど・・』と暗い室内でも判る赤い顔に火村は眉間に皺を寄せたまま口を開いた。
「・・その締め切りはいつだったんだ?」
問い掛けに告げられた日付は今から4日も前のものだった。それ以前に送っているわけだから少なくとも5日間はこんな状態でいたわけだ。
キリキリと痛む胸。
「・・・飯は食ってるのか?クスリは?大体最後に何かを口にしたのはいつなんだ?」
枕元には半分ほどに減っているイオン飲料のペットボトルが置いてある。
考えるのも嫌だが、多分ここ数日はこれしか口にしていないだろう。
(死ぬ気か・・この馬鹿!!)
苛々とした気持ちを抑えるように立て続けに質問をすると苦しげな息の中で有栖はまたしても「判らん・・」と口にした。
その答えを聞いて火村は盛大な溜め息を落としてしまった。
「アリス・・・」
「・・・・だって・・」
苦しげに寄せられる眉。
病人に何を言っても無駄だと言う事は判っている。
多分こうして話をしているだけでも相当辛いのだろう。火村自身も熱に苦しめられた記憶が新しいのだ。
だがしかし、『でも』とか『だけど』と言う言葉を付け加えたくなってしまうのは多分自分だけではないだろうと火村はもう一度胸の中で溜め息を落とした。
こうならないように自分は有栖を追い立てるようにして帰したのだ。それなのに・・・・。
「・・・ったく・・なんだってこう“お約束”を外さないんだか・・」
「火村・・?」
「もういい。もう寝ろ。何か作ってやる。どうせまともなクスリもないんだろう?あと欲しい物はあるか?」
「・・・・・・」
相当喋らせてしまった為、もう何かを言う気力も無くなってしまったのだろう。有栖は熱で潤んだ瞳を閉じてその問いに答えた。
それに「待ってろ」と短く言って立ち上がると寝室を出ていった火村は、しばらくして再び部屋に入ってきた時には色々なものを抱え、更にそれをとりあえずその辺に置くと更に勝手知った留様子で有栖のクローゼットを漁り、眠っていた有栖に近づいた。
「・・アリス?起きられるか?」
「・・・・・・・ん・・」
ぼんやりと開いた目がゆっくりと向けられるのを見て火村は「飯だ」と言うと、こんなものが何処にあったのかというような小さなトレーの上に乗った白粥とお茶をいつの間にか持ち込んだらしい椅子の上に置いた。
「起きあがれるか?」
「・・ん・・」
けれど小さく応えてはみたものの意識がはっきりしないのか、完全に体力がなくなっているのか、一向に起きあがる気配のない有栖に、火村は胸の中で小さく舌打ちをして背中に腕を差し入れるとゆっくりとその身体を起こした。
それだけでもフゥと零れる熱い息。
そして嫌でも判ってしまった痩せてしまった身体に火村は眉間に皺を寄せて口を開いた。
「・・食えるだけでいい。でも水分はとれよ」
言いながら火村はてきぱきと座っている有栖の背中にクッションを当てて、セーター肩から羽織らせた。更にお粥の入ったスプーンを口に運ぶにいたり有栖は小さく口を開いた。
「自分で・・」
「出来るか、馬鹿」
細い声を瞬時に却下して眉間に皺を寄せたまま三回ほど口に運ぶと有栖が申し訳なさげに首を横に振る。
「・・・もう食えないのか?」
「うん・・・」
「じゃあ薬だ」
そう言って今度は手を添えるようにして水の入ったコップを持たせて開けさせた口の中に薬を放り込んで飲ませた。
「・・飲んだか?」
「・・・・苦い・・」
「・・・・」
うまく飲み込めなかったのだろう錠剤に、やっぱり顆粒タイプにすれば良かったと思いながら火村は残っていた水を自分の口に含むとそのまま有栖の口を塞いだ。
「・・・ん・・」
口の中に広がる薬の苦みと小さく漏れ落ちた声。
唇を離すとコクンと動いた有栖の喉を見て、火村は口の端から零れてしまった水をそっとタオルで拭ってやった。
「まだ寝るなよ。着替えてからだ」
「・・・火村?」
そう言うと火村はトレーや薬の残骸等を素早く片付けて有栖を先程白粥を乗せていた椅子に移し、シーツとブランケットを新しいものに替えた。そして嫌がる有栖の身体を有無も言わさず拭いて、これもまた素早く下着からパジャマまでを着替えさせてベッドに戻す。
「寝ろ」
「・・・・・・」
「後でまた何か食えそうなものを持ってきてやるからそれまで寝てろよ」
胸の中に渦巻く怒りのようなものを抑えて火村はまとめてあった食器類と洗濯物を抱え上げた。
口を開くと「どうしてこんなになるまで」と怒鳴りだしてしまいそうで必要最低限の事しか言えない。
確かに有栖を怒らせて追い返したのは火村だった。
けれどものには限度というものがあって、ここまでひどい状態になっているのも関わらず何も言ってこないと言うのはどうなのか。自分はこの5日間、毎日毎日それこそ日に何度も電話を掛けていた。留守電だって残していた。たとえ有栖の熱が5日前からだったとしても始めからこの状態だったとは思えない。
少なくとも電話に出る事くらいは出来ただろう。
万が一出る前に切れてしまったとしても折り返し「俺も熱が出た」とか「お前の風邪を伝染された」くらいは言ってこられる筈だ。
それをしなかったのは多分に例の一件が有るからに違いなくて、そんな有栖に腹が立って、今までその可能性に気付かなかった自分自身に苛立つ。
(大体俺は自分で動く事は出来た)
言っても仕方のない事を胸の中で呟いて火村は部屋の明かりを補助灯だけにしてドアに手を掛けた。
とにかくしばらくはここで仕事をする事にしよう。
今持っている仕事はそれ程多くはないので、もう少し有栖の様子が落ち着いたら一度大学に取りに行って・・・。
「・・・火村・・」
荷物を抱えたままそう考えてドアを出ようとした瞬間
聞こえてきた声に火村は「どうした?」と振り返った。
「・・・ありがとな・・」
「・・いいから寝ろ」
胸の中に湧き上がる切ないような、やりきれないような、それでいてひどく愛おしいような気持ち。
けれどその気持ちは次の言葉が凍り付いた。
「俺、もう平気やから・・帰ってええよ」
「・・・・アリス?」
「風邪伝染し返したら困るし、仕事あるやろ?」
「・・・本気で言っているのか?」
「・・・・うん」
「ふざけるな!」
唸るように低くそう言って火村は持っていた荷物を床の上に置いた。食器が目の入ったので放り投げなかったのが火村のギリギリの理性だった。
「せやって!・・火村かてそう言うたやん!俺だけ世話になるなんて嫌や!」
「そういう問題じゃねぇだろう!?この状態のお前を置いて行けるか!俺の胃に穴を開けるつもりか!」
「そんなん俺かて同じやったもん!それやのに君、追い出したやないか!せやから俺も自分で治す!もう世話かけたけど後は自分で出来るから帰れ!」
「・・・・・」
「あん時の俺の気持ちが判ったか!・・あほぉ・・!」
そう言ってそのまま子供のように泣き出してしまった有栖に火村はすでに戦意を喪失して心の底から深い深い溜め息を落としてしまった。
熱があると子供っぽくなる人間は多いが、元々の精神年齢が精神年齢だとどうやらまるっきりの子供になってしまうらしい。
そうではないと判っていても、この言葉を言う為に熱を出したのかと疑いたくなる。
「・・・・・・」
言い合う事も馬鹿らしく、その言葉を取り合う事も気が引けると言う状態にヒリヒリと痛みだしたこめかみを押さえて火村は泣いている有栖に近寄り、その横にそっと腰を下ろした。
「・・泣くなよ。熱が上がるぞ」
「いいもん!」
「あんまり怒鳴ると辛いだろう?」
「平気や!」
グズグズと泣きながら布団を頭から被って丸くなって行く身体に、火村は子供を宥める母親のようにその背中(だと思われる所)をトントンとそっと叩いた。
「・・・この間は悪かった。本当は謝ろうと思ってきたんだ。留守電少しは聞いたか?」
「・・・・・・・・」
「お前の気持ちを考えなかった俺が悪い。だから帰れなんて言うなよ」
我ながら砂を吐きそうな台詞だと思いつつ火村はもう一度ポンポンとその肩(らしいところ)を叩いた。
「アリス」
「・・・・・・じゃあ・・今度火村がひどい熱を出したらちゃんと隠さず俺を呼ぶか?」
「・・ああ」
せめて粥が作れるようになってから言ってくれとは思ったが、勿論火村はそれを口に出すような愚は犯さなかった。
僅かに覗いた赤い顔。
「でも・・風邪伝染し返したら・・」
「一度かかって免疫が出来てるからかからねぇよ」
「そうなん?」
「ああ。だから大人しく寝てろよ」
「・・・うん・・・ごめんな」
ようやく布団の中から出てきた顔の、泣いた後の赤い瞳に火村はそっと唇を寄せた。
「・・火村?」
「クリスマスまでにはちゃんと治せよ」
その台詞は今の有栖にとって駄目押しの決定打となった。
「うん」と頷いた顔の赤さは多分熱のせいだけではない筈だ。
言われた通り大人しく寝る体制に入った有栖にもう一度、今度は掠めるようにその頬に口づけて火村は再び荷物を持ち直すと寝室を出た。
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. 有栖の熱は2日で下がり、普段通りの生活が出来るようになるのに4日かからなかった。
甘い?甘い??