Platonic 3プラトニック

 夕日に照らされた、まだ昔ながらの雰囲気を残す西陣の街並。
 児童公園の前を通って、何となくノスタルジックな交番を過ぎて、見慣れた下宿の向かい側の角に立って・・・すでにどのくらいの時間が経っただろう?
 時間の経過と共にラウンジでの決心は加速度的に萎んで小さくなっていた。
 夕べ織田が訪ねてきた時と同じように江神さんは留守だった。
 ピッチリと閉じられたカーテンが何だか自分を拒んでいるかの様で、けれど今更引き下がるわけにも行かず、しかし大家にどこに行ったのか尋ねる勇気はなく、とりあえず留守を確認してここにこうしているのである。
 細い路地の角。見つめる木造家屋の斜め前に立つ電柱はいつの間にか長くアスファルトの道に影を落としている。
 帰ってくる人影のない真っ直に伸びた道。
 遠くに聞こえる子供の声。
 カラカラとどこかで戸を閉める音がする。
(・・・・・・今日も・・遅いんやろか?)
 朱い糸を紡いだ様な空に少しづつ、少しづつ織り込まれて行く藍の糸。
 それは次第に深く、濃くなって、やがて夜の帳を降ろして行くのだ。
(・・・やっぱりバイトなんやろか・・?)
 閉じたままのカーテンは開く気配すらない。
(・・・・もしかして・・)
 そう。もしかして、いないと思っているだけで本当は戸を叩いても出られない程、具合が悪いのかもしれない。
 けれどその考えは僕の中で即座に却下された。
 もしもそうならば夕べ織田が訪ねた時点で下宿屋の主人が何かを言うだろう。
 だから多分、絶対に、江神さんはあの部屋にはいないのだ。
 やっぱりバイトという線が無難なところだろう。
 でも・・・。
 再び胸の中に広がって行く埒もない思考。
(・・・もしかして・・もう帰って来いひんつもりやろか?)
 それは考えただけで胸が潰れてしまいそうな想像だった。
 そんなアホな事と思っても後から後から湧いてくる思いがそれの邪魔をする。
 あの日、あの時、あんな事をしたのはこんな風にいなくなってしまうからで・・・。
 それが何かの弾みでああいう形になってしまって・・・。
 だからあんな事があろうが無かろうがもう会えないのかもしれなくて・・・。
「そんなん・・嘘や・・」
 零れた言葉は自分でも驚く程小さい、心細げな声だった。
 こんな風に落ち込んでゆく様な想像をして自分を痛め付けるような趣味は断じてないのだが、それでも、何でも、どうしても6日間も会っていないのは事実なのだ。
「・・・・・ほんまやったら・・どないしよ・・」
 言いながらズルズルとしゃがみこんで僕は持っていたバックをギュッと握り締めていた。
 灯り始めた街灯の柔らかな、けれどどこか淋しげな明かり。
 迷子になった子供の様だと思った。
 心細くて、悲しくて、切なくて、どうしていいのか判らない。
「・・・・・・江神さん・・」
 ポツリと漏れ落ちた名前に、込み上げそうになる何かをグッと堪えて・・・。
そして−−−−−−−。
「・・・アリス・・?」
「−−−−−−−!!!」
「何しとるんや!?具合でも悪いんか!?」
 宵闇の中、慌てて駆け寄ってくるその影に僕は無我夢中で手を伸ばした。



「・・・・ゆっくりでええからな」
 熱いから気を付けて飲めと続けられた言葉と一緒に出されたカップを受け取って僕は子供の様にコクンとうなづいた。
 フワリと鼻先を掠めるミルクの香り。
「・・・いつから居ったんや?」
「・・・・・昼過ぎ」
「アリス!?」
 返した答えにキャビンを取り出しかけていた手を止めて江神さんが声を上げる。
「ずっと居ったんか?」
「・・・・はい」
 途端に眉間に寄せられた皴。
「アリス、無茶したら・」
「せやって!せやって江神さんが来いひんからやないですか!」
「アリス!?」
 カップの中で白い液体がチャプリと揺れて僕は慌ててそれをテーブルに置いた。そうして再び口を開く。
「何も言わんで顔見せんようになって・・」
「・・・急にバイトが入ったんや」
 返ってきた言い訳めいた言葉が悔しい。
「嘘や」
「アリス・・」
「ほんまは僕に会いたくなかったからや」
何のせいで・・と言う必要は勿論無かった。
「・・・バイトは・・ほんまや」
「けど会いたくなかったんもほんまの事でしょう?」
「・・・俺は・・」
 珍しく言葉を濁す江神さんに僕はクシャリと顔を歪めた。
「何辯も考えたんや」
「・・・・・」
「何であんな事したんやろ。何で謝ったんやろ。何で顔見せてくれへんのやろ」
「アリス」
「あの日、聞かんかった事も後悔した。何で何も言われへんかったんやろって。・・・すまんてどういう事ですか?謝る位なら始めからせぇへんかったら良かったんや」
「アリス」
 繰り返された名前に、けれど口を閉ざす事も、話を聞こうともせずに僕は更に言葉を続けた。
「何でキスしたんやろ。何で謝ったんやろ。もう会われへんつもりやろか。いくら考えても判らなくて、イライラして。僕は・・・江神さんにとって僕は謝って、顔見せんようになって、それで終わりになる存在やったんかって眠れんようになって・・・。それもこれもみんな江神さんのせいや!江神さんが理由も言わずにキスしたり、謝ったり顔見せんようになったりするから!せやから・・!!」
「・・・・俺のせいか・・」
「そうです!」
 勢い込んでそう答えた僕に次の瞬間江神はなぜかフワリと微笑んだ。
「なら責任とらなあかんな」
「・・江神さん?」
 心無しかその声が楽しそうに聞こえるのは僕の錯覚だろうか?
「キスしたんわ、情け無いけど我慢出来なかったからや」
「・・え・がみ・さん!?」
「謝ったんわ驚かせたから。それとお前に嫌な思いをさせたと思うたから」
「・・そんな・・」
「普通、男からいきなりキスされたら嫌やしショックやろ?」
「それは・・」
 当り前だ。・・あれ?でも・・それなら僕は・・。
「顔を合わせ辛かったんわ事実やし、正直アリスの方が俺の顔を見たくないやろうと思うてたからバイトにかこつけた」
 言いながら江神さんはゆっくりと先ほど取り出しそこねたキャビンに手をかけて口に銜える。
「・・・・・・・僕は・・」
 今更ながら僕は愕然としてしまった。
 確かにそうだ。今の今まで何でキスしたんだとか、何で謝ったのかとか、何で顔を見せなくなったのかとかそんな事を悩んでいたのだけれど、普通男にいきなりキスをされたら気持ち悪くて、二度と会いたくないとか避けたいと思うのは僕の方で・・。でも・・だけど・・。
「今度は俺の方から尋いてええか?」
 白い煙をくゆらせて江神さんがゆっくりと口を開く。
「あ・・はい・・」
「キスをしたんわ、嫌やったか?」
「−−−−−−−−!!!」
 いきなりの問いかけに瞬間頭の中が真っ白になった。
 絶句をするというのはこういう事なのかと半瞬遅れて思う。
 けれどそんな僕の気持ちも構わずに江神さんは更に言葉を続けた。
「謝った事を怒っていたのは何でや?」
「・・・・・・・」
「顔を見せなくてどうしてイライラした?」
「・・・・・・・」
「何で今日待ってたんや?」
「・・・・・・・」
 真っ直に見つめてくる瞳。
 いくら僕でも、流石にここまで言われれば気付く。
 なぜ自分が悩んでいたのか。
 何を怒っていたのか。
 何を恐れていたのか。
 そしてそれを合わせてブラックボックスに叩き込んだらどんな答えが残るのか。
「・・・江神さんずるい」
 唇を尖らせた僕の言葉に江神さんはフワリと笑った。
「そりゃあアリスよりもずっと大人やからな」
「・・・・・」
「ずるいし、汚いし・・でも・」
 途切れた言葉。
「江神さん?」
「欲しかったもんが自分からやって来たんや、どんな事しても離せへんやろ?」
「・・・・・・・・」
これは・・赤面ものの立派な口説き文句だ・・と思う。
「言うときますけど・・僕かてたった今気付いたばっかりなんですからね」
 言っても自慢にならない事を口にして僕は思わずフイと横を向いてしまった。
「そうやな・・」
 答えながらクスクスと笑っている優しい気配。
(・・・ああ・・もう・・ほんまに・・)
 赤くなる顔。熱くなる頬。クラクラとする頭。
「アリス・・」
 呼ばれた名前におずおずと顔を上げて。
 伸ばされた手に手を差しのべて。
「・・好きや」
 掴まれた手の指に何かの誓いの様に触れた唇。
「・・・・僕も・・好きです」
 そうして僕はたった今手に入れたばかりの答えを口にした。



うわー!!!ほらね、壊れてきたでしょ!?でもでもでも、江神さんってこう言う事さらっと言っちゃう様な所ってありませんか?私のドリームだけ????