.

.

長い恋〜もう一つのsimple〜 1

.

 好きだから、好きだと言える単純な恋がしたい。
 東京在住のサラリーマンである相馬明人が、当たり前でけれどそれゆえに年を重ねるほど難しくなってしまう、そんな言葉を口にしたのは、ふとしたきっかけで知り合った
彼大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖の瞳
があまりに切なくて、ひどい言葉で傷つけてしまった存在を思い出させたからだった。
『・・好きだから・・好き。俺にはそれだけなのに』
 時間が経つほど鮮やかになって甦る、涙で一杯になった瞳と震える声。
 三流の恋愛ドラマのように、失ってからその存在が自分にとってどれほど大切だったのか気がついた。
 容姿が似ているわけではないのだが、有栖はなぜか別れてしまった年下の恋人を連想させた。
 初めて会った時、有栖は自分が抱えている気持ちはおかしいものではないかとひどく真剣に問い掛けてきた。
 何度か話すうちに、有栖が思いを寄せている男が、学生時代からの友人で、親友である事を知った。
『今のままでいい』
 有栖は少しだけ切ないような笑みを浮かべてそう言った。
 今のままでいられたら他には何も望まない。そんな風に自分の気持ちに蓋をしているような有栖が道端で泣いているのを偶然見つけた時は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
 ふられたのだと、今のままでいいなんて自分は何て贅沢な事を言っていたのだと、けれどそれでもこの気持ちは言えないのだと再び泣き出してしまった有栖に、相馬は本気で相手の男に有栖の事をどう思っているのだと詰め寄りたくなった。
 だが、そんな事はお節介以外の何物でもなかったのだ。
 初めて会った有栖の思い人である“母校の社会学部の助教授である火村英生”氏は、一目で彼が有栖の事をどう思っているのか判る程だったのだ。
 こうして一足早く幸せを手に入れて歩き出した“同胞”に、相馬は心の底からエールを贈った。
 そうして彼自身もまた、1歩を踏み出す決心をつけたのである。


「あ・・そうや。言うの忘れとったわ。俺な来週東京に行くから」
 ベッドの中、ようやく熱のおさまってきた身体を横たえたまま有栖は突然そう言った。
「ああ!?なんだって?」
 それに、同じくベッドの上に横たわったまま眉間に皺を寄せるようにして火村が声を出す。
「せやから東京」
「なんでだよ」
「なんでって・・次回作の打ち合わせとか、もしかしたら取材旅行に行かせて貰う事になるかもしれへんし。あと必要な資料を頼んだり、ちょっと自分で探したり・・」
「こっちに来てもらったらいいだろう?」
「・・毎回そんなわけにはいかんって。それに」
 どこか不貞腐れた子供のような言葉にそう言うと、次の瞬間、有栖はハッとして言葉を途切らせた。だが勿論それを聞き逃す火村ではない。
「それに?」
「いや・・えっと・・・その・・し・仕事やし。片桐さんもそんなに大阪には来られんし・・せやから・・」
 モゴモゴと歯切れの悪い言葉と微妙に反らされた視線。そんな有栖に眉間の皺を深くして、火村は思わずハァと溜め息をついた。そうしておもむろにベッドの下に落とした服に手を伸ばして拾い上げ、キャメルの箱を取り出す。
「!おい・寝煙草はあかんて言うとるやろ!」
「恋人が一緒にいるベッドの上で他の男のことを考えているんだ。グレたくもなるだろう?」
「・・・・・他の男って・・」
「違うのか?」
「・・・・・・」
 どうして判ってしまうのか。何も返せないままガックリと肩を落とすと、有栖は溜め息をつきながらそっと半身を起こした。
「・・・いつもこっちに来た時、声をかけてくれるから、たまにはこっちから声をかけようと思ったんや」
「・・・・・」
「でも別に言う機会をうかがっていたとかそういうんやないで。ほんまに東京に行く事を思い出して、言うてなかったって思って・・」
「会う約束をしていた事もポロリと口から出たと」
「・・・か・・隠すつもりもなかったんや。けど君・・相馬さんの話をすると不機嫌になるんやもん」
 やはりそいつか。出てきた名前に火村は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「そりゃ面白いわけがないだろう?なんてったって俺以外でお前にキスを唯一の奴なんだから」
「!!そんなん!あれは・・。それに俺は」
「ちなみに野郎限定って事にしておいてやる」
 間髪入れずに切り返された言葉。ようするに数える程度の女性たちとのそれは気にする価値もないと言うことか。
「・・ムカツク・・」
 赤くなったり青くなったりする有栖の前で火村はクスリと笑って身体を起こした。そうして先ほど手にしたキャメルを咥えて火を点ける。
 ふぅと吐き出された紫煙。
 立ち昇るその紫煙を小さく睨みつけながら有栖は子供のように唇を尖らせた。
「だって、相馬さんにはほんまにお世話になっとるし、幸せになってほしいんや」
 そう、相馬がいなかったらきっと火村とこんな風になっている事などなかったに違いない。
 万が一お互いの気持ちに気付いたとしても、それはもっと先の事になっていただろう。あの時は自分の気持ちを隠す事で精一杯だったのだから。
「幸せねぇ・・」
「!なんやねんその言い方は!ほんまに相馬さんが居らんかったら・・俺は・・」
「だから気にいらねぇんだよ。・・ったく」
「・・はじめに話を振るようにしたのはそっちやで」
「うるせぇ」
 まるで駄々っ子のような物言いで、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、火村は携帯用の灰皿の中に灰を落とした。そんな様子を眺めて有栖はふうと息をつく。
 どうも最初の印象があまり良くなかったらしく、恋愛感情などないと判っているにも関わらず、火村は相馬の話をすると決まって面白くない顔をする。会う事を隠すつもりはないが、だからといってわざわざ知らせる事もないと思っていたのが今回は完全に裏目に出てしまった。
 火村とこういった関係になってみて、有栖は彼が意外にヤキモチ焼きである事を知った。もっともそれをどこかで嬉しいと思う辺り自分自身も十分イカレているとは思うのだが・・・。
 流れる短い沈黙。それを破ったのは有栖だった。
「前に・・」
「ああ?」
「ほら、捜していた相手が見つかったって聞いたやろ?せやからそれも気になってるんや」
「人の恋路に首をつっこんでると馬に蹴られるぞ」
「・・・」
 本当にああ言えばこういう男である。
「馬に蹴られる趣味はないけど、とにかく東京に行くのは決まっとるし、相馬さんに会うのも予約済みや。君が何て思っていようと、相馬さんが居らんかったらこんな風になってなかった。せやから俺も、もしも俺に出来る事があるなら一肌でも二肌でも」
「脱ぐなよ」
「へ?」
「ボタン一つでも外すな」
「あ・・アホか。そういう意味やなくて」
「馬鹿、そんなのは判っている。お前があの男に恩義のようなものを感じているのも知っているし、その事までどうこうとは思わない。東京であいつに会う事も許してやるさ」
「・・・なんで君に許してもらわなあかんねん」
「つっかかるなよ。言い方が悪かったか。ヤキモチだ」
「!」
 本当にこの男は妙なところで素直になるから始末が悪い。思わず顔を赤く染めた有栖の目の前で、いけしゃあしゃあとそう口にした本人は短くなったキャメルを携帯用の灰皿に押し込めた。そうしてそれをベッドボードの上に置くと、ふぅと煙を吐き出して口を開く。
「でもそれだけにしておけって言ってるんだ」
「だけって・・別に俺は」
「だから勘違いするなって。別に俺はあの男とお前がどうこうなんて本気で思ってなんかないさ。ようするにお節介は止めとけって事だ」
「・・お節介なんて」
「お前がどう考えていようと、それは当人同士の問題だ。確かにお前の言う通り世話になったかもしれないが、それでも最終的にこうなったのは俺たちの意思だ。そうだろう?」
「それは・・」
 確かにそうだ。あの時に火村が自分の気持ちをぶつけずにそのままどこかに行ってしまう事だってあったかもしれないし、有栖自身、ああなってもまだ自分の気持ちが言えないという可能性だってあったかもしれない。
「それに、そのえらく年下の奴とくっつくだけが幸せってわけじゃない」
「!!そんなん!・・そんなんは俺たちが決める事やないやろう?」
「そうだ。判っているじゃないか。別れてから2年以上が経っているんだろう?以前(まえ)に本人が言っていたように、それは人の気持ちが変わるには十分過ぎる時間だ」
「・・・相手は・・もう相馬さんの事が好きやないって?」
「そういう事も考えられるって事さ。本人たちが会う、会わないは別にしても、そこにまるっきり第三者であるお前が顔を突っ込んでどうするんだ。まかり間違えばもっと泥沼化してしまう事だって考えられる」
「・・・・・・・」
 黙り込んでしまった有栖に火村は胸の中で舌打ちをした。さすがに言い過ぎてしまったか。
「・・アリス」
「・・・・」
「肩・・冷えてるぞ」
 言いながらそっとその肩を引き寄せると、大人しく寄りかかってくる少しだけ冷たくなった身体。先ほどの熱さはもうすっかり引いてしまっていて、それをなぜか口惜しく思いながら火村は肩を抱く手に少しだけ力を込めた。
「・・言い過ぎたか?」
「・・ううん」
 返って来た短い返事。そう、有栖自身も火村の言った事は理解できるし、ありえない事ではないとも思う。
 悲しいけれど人の気持ちは変わるのだ。けれど・・。
「でも・・・ほんまに・・幸せになってほしいんや」
「・・ああ・・そうだな」
 今度は素直にそう返して、火村は俯き加減の有栖の顔にそっと唇を寄せた。
「・・・っ・・」
 重なる唇。
 触れるだけの口付けは、けれどひどく甘くて、温かいと有栖は思った。
「・・・でもやっぱりピロートークとしちゃ面白くねぇよな」
 耳元で囁くようなその言葉に有栖は小さく笑った。
「他に忘れている事があったら今思い出しておけよ?」
「なんやねんそれは」
「休憩終了。仕切り直しってヤツだ」
「え・・ちょ・・」
 言葉と同じにベッドに押し倒されて有栖は「うそ・・」と思わず声を上げてしまった。
 だが勿論こんな嘘をつく男ではない。
「火村!だって・・も・・2回も・・ぁ・」
「休憩したから大丈夫。まだ枯れるような年でもないだろう?なんならどこまで出来るか限界に挑戦してみるか?」
「!冗談やな・・あ・・んぁ・」
 言いながらもそこここに触れる唇と、再び熱を呼び覚まそうと動く手に有栖は小さく身体を捩った。
「・・あかん・・て・・」
「半月我慢してたんだぜ?しかも来週は一人淋しく過ごさなきゃならないって聞いたら我慢出来ないだろう?」
「それは・・んん・・っ・」
 半月ぶりなのは自分だけのせいではなく、火村の仕事も忙しかったからだ。それに来週中ずっと東京に行っているわけではなく2泊の予定なのだ。けれどそれを言う暇も与えずに火村は有栖を追い上げていってしまう。
「・・・あ・ん・・!」
 抱かれたばかりの身体は冷えていても、すぐにその熱を思い出していく。
 頭のいい恋人はすでに有栖の弱点を知り尽くしているのだ。
「火村・・ほんまに・・限界なんて」
「馬鹿、本気にするなよ」
 泣き言を言うようにそう言うと、小さな笑い声と同時に瞼に触れるだけの口付けが落ちてきた。そして。
「とりあえず・・あいつによろしく言っておいてくれ」
「え・・・?」
「くれぐれもお節介はするなよ」
「・・・・・判ってる」
 そう言ってゆっくりと唇に降りてきた口付けに有栖は目を閉じてその背中に手を回した。


と・・・とりあえず始めは本と同様二人からです(^^ゞ