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長い恋〜もう一つのsimple〜 2

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 相馬が指定した店はこじんまりとして落ちついた、まさしく小料理屋と呼ぶのがふさわしい和食の店だった。
 カラリと開いた白木の格子戸。女将の「いらっしゃいませ。お連れ様がお待ちですよ」という声に竹製の衝立の向こう側を覗くと懐かしい顔が見えた。
「お待たせしてすみませんでした。お久しぶりです。お元気でしたか?」
 相馬の言葉に有栖は立ち上がってニッコリと笑った。
「ええ、お陰様で。相馬さんもお元気そうで。こっちの方こそ時間が計れずに少し早く着いてしまってすみません。仕事の方がお忙しかったんやないですか?」
 この前に会ってから3ヶ月近くが経つだろうか。元々東京に勤めている相馬が、大阪に出張になった時声をかけるといった状態だったので、こんな風に有栖の方から声がかけると言うのは今回が初めてだった。
「いいえ。特に今のところは大きなものは動いていないんですよ。それで大阪の方にも中々行く機会がなくて。ああ、どうぞおかけになってください」
 そう言って相馬自身も椅子に腰掛けるとタイミング良く女将がお絞りを持ってくる。馴染みの店はこういう時に便利だ。彼女はビールとつまみや食事の相談をして奥に下がると、すぐさまグラスと瓶ビールとお通しを持ってきてテーブルの上に置き「ごゆっくり」と会釈をしてまた奥へと下がった。
「いい店やなぁ。ほんまに相馬さんはどこでもいい店を知ってますね」
 感心したようにそう言う有栖に相馬はフワリと笑ってビールを持った。
「有り難うございます。ここも教えてもらった店なんですけどね。でもいつの間にか教えてくれた人間よりも来る回数が多くなってしまって。結構遅くまで開いているので夕食を食べ損ねたままとんでもない時間になった時とか、飲んだ帰りとかにも寄らせてもらっているんですよ。前に魚がお好きだって言ってらしたでしょう?ですから連絡をいただいた時に絶対にここにお連れしようと思ったんです。どうぞ」
「あ、すみません」
 グラスの中に注がれていくビール。同じく相馬のそれには有栖が注いで再会を祝してグラスを合わせる。喉の奥に落ちていく金色の液体。思わず同じようにハァと声を漏らして、二人は吹き出すように笑ってしまった。         
「ああ・・そうだ。この前の新作。読ませていただきました。トリックっていうんですよね。それがすごく良かったです。ラストにやられたって思いましたよ」
「有り難うございます。でも一声かけてくだされば贈ったのに水臭いなぁ」
「とんでもないですよ。次回作はいつくらいの予定ですか?」
「ああ・・・厳しい質問や。しばらくは長編の予定はありません。でも来月・・ちゃう、再来月って言うてたかな。ノベルズを文庫化する話がありまして。短編集なんですけどね。東京と大阪でサイン会をするらしいです」
 これは今日の午後片桐から聞いた話だ。新作ではなく文庫化でサイン会というのはどうなのかと言ったのだが、出版社も書店も乗り気だと言われれば、作家と言えどもある意味で客商売である。じゃあよろしくお願いしますと言わざるおえなかった。その代りと言ってはなんだが取材旅行は結構我侭が通りそうである。
「へぇ!すごいじゃないですか!東京のサイン会の日付が決まったらぜひ連絡をして下さいね。花束を持って駆けつけますよ」
「止めてくださいよ。そんなんただでさえ晒し者の一歩手前っていった心境なんですからね」
「なるほど、そんなところに花束を抱えた男が来たら嫌ですよね。じゃあ大人しく柱の影から有栖川さんの勇姿を観察するに留めましょう」
「・・・・相馬さん・・会う度にイケズになっとる」
「そんな事はありませんよ」
 眉間の辺りに皺を寄せている、年上とは思えない有栖に相馬は再びにっこりと笑った。本当に彼の恋人の気持ちがこういう時には良く判る。
 色々な話をしながら有栖は良く食べた。相馬が気に入っている店に有栖を連れてくるのは有栖が本当にものを美味しそうに食べるからだ。
 魚が好きだからと言っただけあって、色々な魚を使った料理が出されたが、そのどれもが美味しかった。有栖も満足してくれたようで、喋りながらも良く箸が進んでいた。
 そうして腹も膨れ、じゃあ軽く飲みますか?と相馬は有栖を誘った。
 何となく会話の中に有栖の思いを感じたから、ということもある。
 2軒目の店に移動して、店の前で驚いたような表情を見せる有栖に相馬は胸の中で小さく笑いを漏らしてしまった。
「・・・・ここは・・」
「ええ、あの店に似ているでしょう?偶然見つけたんです。うるさくはないし、なにより放っておいてくれている居心地の良さが気に行ってましてね。誰かを誘ってくるのは初めてです」
「・・・いいんですか?」
「嫌だなぁ、有栖川さん。ダメなら誘いませんよ」
 そう言って相馬はシンプルな木製のドアを押した。
 
 
 
 


 
 
 
 
  「・・・出歯亀とか好奇心とかそういうんやないけど・・その・・その後は・・?」
 バーボンを注いだグラスを手の中で揺らしつつ小さく口を開いた有栖にやはりと思いつつ、相馬は「判ってます」と口を開いた。
「ご心配をおかけしてる感じで恐縮なんですが、なにもないんですよ」
「そんな・・・ご心配なんて・・俺は」
「すみません。別に変な意味で言ったわけじゃないんです。本当に有栖川さんには色々と話を聞いてもらったりして感謝してるんです」
「感謝してるのは俺の方や。俺の方こそほんまに色々世話になって・・」
 思わず小さくなってしまった声に相馬は「火村先生はお元気ですか?」と訊ねてきた。
「お陰様で。相変わらずですよ。っていうか私の話はいいんです。せやから・・・その・・・見つかったって言うてたでしょう?もしかして人違いやったんですか?」
 再び声を潜めるようにしてそう訊ねてきた有栖に相馬は小さく笑って「いいえ」と言った。
「・・・・なら・・」
「会っていないんです」
「・・もしかして・・会いたくないって・・言われたんですか?」
 自分のほうが苦しいような表情を浮かべる有栖に相馬は小さく首を横に振った。
「いいえ。多分相手は私が居所を知っているなんて思ってもいませんよ」
「・・・・・・・会いたくないんですか?」
 小さな、けれどズバリと切り込んでくるような言葉に相馬は一瞬だけ声を失う。そうして再びゆっくりと溜め息のように言葉を発した。
「・・そうですね。そうなのかもしれない」
「相馬さん・・?」
 珍しくも自嘲気味な表情を浮かべた横顔。
 それを見つめて有栖は視線を反らして「すみません」と謝った。
「有栖川さん?」
「そんなつもりはなかったんや。けど、俺は相馬さんの気持ちの中にズカズカと土足で踏み込んでる」
 硬い表情と硬い声。そんな有栖を見つめて相馬はもう一度フワリと笑みを零した。そう。こんな有栖だからこそ自分はあの時に声をかけ、そうしてこんな話までもしてしまったのだ。
「いえ、そんな事はないですよ。こんな話を出来るのは有栖川さんだけですから、貴方が思っている以上に私は感謝しているんです。でも・・・そうですね。言い方が悪かったのかもしれません。捜していたというのは本当だったし、貴方と彼を見て自分も進もうと思ったのも真実だった」
「・・・・・」
「私は気付いたんですよ。捜していると言いながら本当はそのつもりだけだったんだって。初めて会った時、貴方にはずっと捜していると言ったのに、本気で捜してなどいなかったんです。私の中には傷つけてしまった彼を思い出にしてしまっている自分が居た。でも、好きだという気持ちが本当なら踏み出さなければならないと有栖川さんたちを見て思ったんです。だからそれこそ必死で居所を突き止めました。こんなに簡単に・・とまではいきませんでしたが、判った時は『ああ、ちゃんと見つかるものだったのか』と苦い気持ちにはなりました。会っていないと言うのは半分嘘です。会ったというのがお互いに顔を合わせて認識する事を指すならば確かにそうなんですけれど、顔は・・・そう、顔を見に行きました。でもそれで精一杯になってしまった。【会う】事などとても出来なかった」
 そう言ってグラスを傾けた相馬に有栖は小さく口を開いた。
「・・・・・・もしかして・・誰か・・その」
「さぁ、あいつに付き合っている相手が居るのかどうかも判りません。私は本当に逃げるように帰ってきてしまったんです」
「・・・・・・・」
「情けないでしょう?」
「・・そんな・・そんな事・・」
 聞いてはいけない事を聞いてしまった。そんな表情を浮かべる有栖を見て相馬は困らせるような事を言ってしまったなと思った。
 けれど紡ぎ出してしまった言葉は止まらない。
「本当に情けない以外の何物でもない。あの時貴方にあんな風に言ったのに、それ以上何が怖いのかなんてけしかけていたのに、いざ自分がそんな風になるとこれです。何をどう言い繕っても私は怖かったんです。少し大人びた面差しになった祐也を見てその現実に怖くなって逃げ出した。今思えば何がそんなに怖いのかとも思うんです。口を聞いてもらえないかもしれないというのが怖いのか。それとも傷つけてしまった事を責められるのが怖いのか。さもなければすでに彼の中で自分と言う存在が過去のものになっている事を思い知らされるのが怖かったのか。それのどれもが自業自得と言ってしまえばそれまでの事なのに」
 そう・・・・自分は怖かったのだ。そしてそれを誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「・・・そんな風に言うもんやないですよ。そのどれも怖くて当然や。もしも・・もしも俺が相馬さんの立場やったらやっぱり怖い。自分の存在が好きだと思っている人間の中で過去のものになって、憎まれていたり、忘れられていたりするのは辛いです」
 “私”から“俺”になった有栖の言葉に相馬はクスリと笑った。あの時もそうだった。泣いて泣いてそれでも告げる事は出来ないのだと言っていたあの日の有栖もこんな風に俺と言った。
 緩やかに流れていくオールディズ。
 本当にここはあの店に良く似ている。
 程よい暗さの照明とそれぞれが好きにグラスを傾けている。ボソボソとしたその会話が耳に届いても誰も、何も、気に留めない。
 そんな事を思っていると再び有栖の声が聞こえてきた。
「・・でも相馬さん。さっきの貴方の仮説の中にはなかったけど、その相手が貴方が現れて、好きだって、もう一度やり直したいって言ってくれる事を願っている可能性だってあるかもしれへんよ?確かに以前貴方が言ったように2年以上の時は人の気持ちが変わるのに十分な時間かもしれへんけど、5年経っても、10年経っても変わらない気持ちだってあるでしょう?」
「・・・・・きっと恋愛小説も書けますよ。有栖川さん」
「年上をからかうもんやないって言うとるやろ。俺は本気で言うとるんや。だって・・俺かて・・もしも・・もしも俺があいつに振られたら、すごく悲しくて落ち込むけどそれでも好きやと思う。嫌われても思い続けるのは俺の自由やって思うもん。そりゃちょっとストーカーっぽい考え方かもしれんけど、でも好きやったんでしょう?俺は相馬さんが何を言って彼を傷つけたのかは知らんけど、傷つけられても、好きなもんは好きやし、好きでいる俺の気持ちは俺のもんや。それでもしも・・・もしも・・やっぱり好きだったって、やり直したいって、ずっと・・ずっと捜していたんだって言われたら、嘘やろってちょっとは疑うかも知れへんけど・・でもすごく、すごく嬉しいと思う」
「・・・有栖川さんは強いですね」
「え・・?」
「強くて、優しくて、暖かい。火村先生が羨ましくなりました」
「・・せやから俺の話はええちゅうねん」
 少しだけ顔を赤く染めて困ったような顔をする有栖に相馬は小さく、口を開いた。
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「え?」
「“あの時は悪かった”“もう一度やり直したい”3年以上も経ってノコノコ現れてそんな事を言うのは本当に自己満足や偽善ではないと言い切れるでしょうか?」
 時間が、遡る。
『この気持ちはおかしなものだとは思いませんか?』
 頭の中で初めて出会った日の有栖の声が重なる。
 恐らく何度も何度も繰り返しただろう有栖の問い。
 同じように自分もこの問いを何度も何度も繰り返した。けれど、自分にはうまい答えが見つからない。
 有栖ならば・・・何と応えてくれるだろう。
 縋る様に、甘えるように、相馬はそれを口にした。
「・・・本当に彼を好きだと、大切だと思うなら、自分が気付いた事を伝えるべきやと思う」
 そう・・・多分自分はこんな風に誰かに許されたかったのだ。
 会いに行っていいのだと言って欲しかったのだ。
「ありがとう・・ございます」
 深く頭を下げながら、相馬は今度こそ本当に許して欲しいと思っている相手に気持ちを伝える決心をした。


 相馬さんサイドから見た感じに…