Spring Spring アリスサイドストーリー 

「ふぁぁぁぁ・・眠いー」
たった今ベッドから起き上がってリビングに出てきたばかりとは思えぬ台詞を口にして大阪在住の推理小説作家・有栖川有栖は、うんと大きく伸びをしてそのままグルリと肩を回した。
途端にバキバキと聞こえた鈍い音に思わず寄せられた眉。
脱稿をしたのは一昨日の事。そこから今までの睡眠不足を取り戻そうと眠って、眠って、眠って、更に惰眠をむさぼってゴロゴロしていたが、その報いはこんな所にきていたようだ。
「寝過ぎて身体が痛いとか言うたらどんな罵詈雑言を言われるか判らんからな」
思わず脳裏に浮かんだ人の悪い笑みに更に深くなる眉間の皴。
しかも起きた理由が腹が減って眠っていられなくなったというおまけつきだから始末におえない。
有栖自身ですら、さすがにどうかと思ってしまう事をあの男が何も言わずに済ませる筈がないのだ。
そう・・。あの男−−−−・・。
京都在住の母校の社会学部助教授、火村英生。
フィールドワークと称して犯罪の現場に赴く彼を有栖は“臨床犯罪学者”と名付けている。
その長年の友人で、しかもちょっと大きな声では言えないのだが実は数年前から恋人でもあったりする。
「そういえばこの所連絡がないな・・」
確かこの前電話がかかってきたのはフィールドの誘いだった。
その時は丁度原稿が煮詰まっている時で丁重にお断りをしたのだ。
無論その際に彼は「また同じ事を繰り返しているのか?“進歩”っていう言葉をいい加減お前の辞書にもインプットしてやれよ」と嫌味を添えるのも忘れなかったのだが・・・。
「・・・毎回同じ話書いとるわけやないんやから、進歩も何もあるかい」
大体あの時は煮詰まっていただけで、締め切りが目の前に迫っていたわけでも勿論破っていたわけでもない。
もっともそれを言ってもあの男はきっとニヤリと笑いながら「人生余裕が欲しいよな」位は言いかねない。
「・・・考えていたらなんや腹が立ってきた」
そうなのだ。大体自分は腹が減ってベッドから起き出してきたのだ。それが埒もなくそんな事を考えていたらアドレナリンを無暗に放出するだけで何の得にもならない。
「腹が減ると怒りっぽくなるんってほんまやな」
呟く様に言いながら有栖はリビングを横断し、キッチンの端の冷蔵庫をガチャリと開けた。
「・・あちゃー・・」
けれどそこにはまともに食べられるような物は存在していなかった。
思い返せば当り前なのだが、修羅場を展開してその後倒れ込むようにして眠り転けていたのだ。まともな食べ物がある筈がない。
「・・・・カップ麺でいいか」
とにかく何かを食べてそれから買物に行くなり、何をどうするかを考えよう。
軽く溜め息をついてケトルを火にかけると有栖は残り少なくなっているカップ麺を手に取りバリバリと音をたててそれを開ける。 「・・詫びしいなぁ・・」
いつもならそろそろ火村から連絡が入る頃だ。
修羅場中の有栖の食生活を熟知している恋人は文句を言いながらも頃合いを見計らってそれを立て直しに来てくれるのだ。
「・・・・電話がきたのが10日位前やったから・・うーん・・」
指を折りながら壁に掛けられているカレンダーを目で追う。
多分、恐らく、絶対に、大学は卒業式も無事に終え、春休みに入っている。
雑務があるにしろどうにも時間がとれないという状況にはなっていない筈だ。
「・・もしかして何か事件でもあったのかな・・」
何しろ丸々2日寝ていて、さらにその前から新聞にすら目を通していない。
チーッという湯が沸き始める細い音を聞きながら有栖はリビングのテレビをつけた。この時間ならばワイドショーが一番てっとり早くニュースを知る事が出来る。カチリと電源を入れると現れた画面。
“次は気象情報です。お天気はいかがですかぁ? 
聞こえてきたやけに明るい女性キャスターの声と同時に映し出され桜の花に有栖の動作が止まった。
(え・・!?)
“わぁー綺麗ですねぇ。春本番という感じですねぇ 
“昨日からの暖かさのお陰で固かった蕾が一気に膨らみました。市内ではまだ1分咲き程度と言ったところですが、高知の方では3分咲きから5分咲きという所もあってお花見気分が盛り上がってきています。この暖かさは当分続きそうですので、京都や大阪の方でも気の早いお花見を楽しまれる方もいらっしゃるのではないでしょうか?それでは予報です・・・” 
「・・・もう・・桜の時期か・・」
慌てて窓の外を見ると確かに柔らかな日差しの春らしい青空が広がっている。
「・・何や損した気分やな」
桜の花もほころび始めるようなこんな天気の日にただひたすら寝て過ごして居たのかと思うとそれはひどくもったいない事のように思えた。
ピーッと鳴ったケトルの音に慌てて火を止めて、ノロノロとカップの中に注ごうとしたその手を有栖はピタリと止めた。
「止めた。予定変更や」
言うが早いかクルリと踵を返してリビングに戻ると、そのまま受話機を取って短縮のボタンを押す。
耳に響く呼び出し音。1回、2回、3回・・・・・・
『・・はい、火村です』
「久しぶりやな、先生。元気にしとったか?・・・・・・・やかましいな。お陰さんでピンピンしとるわ。なぁ、それより今日そっちに行ってもいいか?下宿の裏の家に桜の木があったやろ?ちょっと早いけど花見でもしよう。ビールは持参するから。・・・・・アホ!そんな事あるか!ええやん別にちょっとしか咲いてないても花見は花見やろ?・・・・・・・別に何もあれへんよ。それより、食事は作ってくれるか?何でもええから。・・・・・駄目か?・・・・・うん!任せる!・・・・・判った。ほんなら後で」
ピッと切った電話。カチャリと受話機を元に戻して。
「本日の予定決定!」
そうして有栖はにっこりと笑って、とりあえずコーヒーを淹れるべくキッチン に向かって歩き出した。

Fin

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