タダより高いものはない 1

「おい、アリス。いい加減にしろ」
例によって雑然とした研究室。
聞こえてきた溜め息混じりの言葉に、一体お前は幾つの人間なのだと言いたくなるような子供じみた仕草でフイと顔を背けて私、有栖川有栖は口を開いた。
「別に君のせいやなんてこれっぽっちも思ってへんで」
「だからさっきから何があったのか聞いているだろう」
「・・・・・・・・・・絶対に死んでも言わん」
「ならせめてその態度をどうにかしろ」
「気にせんとどんどんお仕事して下さい」
「言われなくてもやってる。ただ目の前で仏頂面をされると気力が半減するんだよ」
「ああそう。そらどうもすみません。どうせ元々こんな顔や」
「・・・アリス」
わざとらしい、勘に触る溜め息。けれどこれ以上は「お話しません。邪魔しません」と言った構えで新聞を広げた私に、この研究室の主である火村英生は再びペンを走らせ始めた。
そう・・・・・・・
あまりにも唐突だが、私は非常に機嫌が悪かった。
が、別に朝からずっと不機嫌だったとか、この所慢性的にふてくされていたとかそう言うわけではない。
今日は私にしては驚異的とも言える時間に起きて、燃えないゴミを出しに行ってしまう位には機嫌も調子も良かったのだ。
そうしてその後“朝食”と呼べる時間に朝食を食べて、優雅にコーヒーブレイクなんぞをしていたところに入った電話。
締め切りが明けて暇を持て余し始めて居たところに絶妙のタイミングでかかってきたそれは、今目の前委で渋い顔のまま仕事をしている学生時代からの友人であり、お互いの母校でもあるこの大学で犯罪学の教鞭をとる社会学部の助教授・火村からのものだった。
以下再生・・・・・・

『・・この時間に馬鹿にクリアーな声を出してるじゃねぇか』
取った電話から聞こえてきた変わりのない声。この男の口の悪いのは今に始まった事ではない。
傍若無人なその言いぐさにも「原稿が上がったんやるフィールドワークか?」等と寛大な対応が出来たのだからこの時点での私の機嫌はどちらかと言えば【上】のつくものだった。
何しろほんの数日前まで篭もりきりでワープロに向かっていたのだ。
締め切り間際の睡眠不足を解消したら持ち上がってきた【暇】という文字。
そこにフィールドワークかもしれない電話が入ったのだ。機嫌の悪くなる筈がないではないか。
しかし、聞こえてきた言葉は生憎フィールドの誘いではなかった。
『残念ながらフィールドじゃない。そろそろ有栖川先生の締め切りが明けた頃だと思って食事の誘いだ』
「食事?」
『ああ。いい店を教えて貰ったんだ。こっちに出てこないか?』
「・・・・んー・・・・・」
確かに私は暇だったが、実は車を車検に出してしまっていたのだ。一瞬萎える気持ち。
『奢ってやるよ』
「!行く!!」
予定は決まった。
かくして私は“せっかくやから久しぶりに講義も聴かせて貰うか”と意気揚々とマンションを出たのだ。
再生終了・・・・・・

ガサガサと広げた新聞の文字は当たり前だがちっとも頭の中に入ってはいなかった。
そう。ここまでは確かに機嫌が良かったのだ。否、性格に言えば何となく思い立って谷町線で東梅田に出てJRに乗り換えるまでは「久々に電車もええなぁ」等と思っていた。
だが、しかし・・・・
(・・・クソッ!!あのボケ!!今度会ったら絶対しばいたる!!!)
思い出しても腹の立つ、と言う言葉はあるが、思い出したくなくても浮かんできてしまう記憶に私は思わず手にしていた新聞をグシャリと握りしめてしまった。
それにチラリと視線を送ってきた火村を無視して、新聞の皺を伸ばしつつ、ついつい意識は先刻の記憶に戻ってゆく・・・・・。

京都方面に向かう電車は何故か程良く(この言い方もおかしいが)混んでいた。
買い物に行くのか、帰りなのか話に花を咲かせる中年以上のご婦人たちと、移動中なのだろうサラリーマン。そして大学生くらいの若者と、もう授業が終わったのか?という制服を着た学生たち。
普段滅多に乗らない平日の昼間の車内をそれとなく、何気なく、けれど興味津々に観察をしている自分に思わず胸の中で笑いを漏らして、私は奥のドア付近の場所を陣取ると持ってきた文庫を広げた。
単純と言えば単純だが、こうしていると何となく学生時代に戻ったような気持ちになる。
電車の揺れ。
ドアのガラスから差し込む日差し。
そして推理小説の文庫本。
私はしばらくその気分に浸りきっていた。けれど・・・・・・・
(え・・・?)
不意に意識を引き戻される感覚。
(・・・・・何や・・・・?)
背中に感じる圧迫感というか、不快感に思わず車内に目を走らせつつ私は自分の背後を伺った。
その途端腰の辺りでモゾリと何かが動く。
(・・・・・・・・・な・・に・・?)
確かに車内は混んでいた。
座席は埋まって、立っている人間も多い。人と全くぶつからずに済むという空間ではない。
が、しかし、かと言ってサラリーマン時代に経験したようなラッシュのように身動きがとれないと言うほど混んでいるわけでは勿論ないのだ。
(何なんや、こいつ・・・・)
せっかくの時間を邪魔されたと言う気持ちの方が大きくて、私はムッとして少しだけ身体をずらした。
それと同時に駅に着いたらしく、がやがやと乗降客が入れ替わり、先程よりも又少し車内が込み合う。
締め切りのドアとボックスシートの背に挟まれるようにして立ちながら私は“平日の昼間でも結構混むんやなぁ”などと悠長に考えていた。
ガタンと音を立てて動き出した電車。再び戻ってきた時間。
けれどその次の瞬間、私は思わず背中に冷水を浴びせられたような感覚に陥ってしまった。
手だ。
私の手は文庫を持っている。もう片方は小さなバッグを持っている。だから断じて私の手ではない手が、私の尻に当たっているのだ。
(う・・・・・・嘘やろ・・・?)
私の内心の焦りを構う事なく、手はジワリと動き始めた。
(・・・何を勘違いしとるんや!!俺は男やで!?)
慌てて小さく身体を動かすと真横に立つ、両手に紙袋を持った迫力のある婦人に睨まれた。
その間にも手はジワリジワリと羽織っているハーフジャケットをものともせずにスラックスの上から尻を撫でる。
(ロ・・ロングのコートを着て来るんやった!)
思わず浮かんだ考えに、けれどそう言う問題ではないと思い直して私は必死に後ろに立つ人間を見ようとした。
(・・・男やて気付いたら止めるやろか・・・・・・)
しかしその考えも私の中で瞬時に却下された。
どう考えても後ろに立っている人間が私を女だと勘違いする筈がないのだ。私は今までの人生の中で女性に間違われた事はない。(名前だけなら何度も間違われたが)
そしてくどいけれど、車内は混んではいてもすし詰めではなく、手が当てっていても動けませんという状態ではない。
(何を考えとるんや!?)
こう言っては何だが、周りにはもっと若い人間がいる。
高校生もいれば、大学生だろう人間も、ついでにおばさん(失礼)以外の女性だっているのだ。
それなのに、それなのに、それなのに!!!!
「・・・・・・・・っ・・」
手はこれ以上私が動けないのだと思ったのか足のつけね辺りを撫で回しつつゆっくりと前に移動し始めた。こうなるとこの場所を陣取った事が悔やまれる。
とにかく動けない。
そして周りからは完全に死角的な位置になる。
(・・・冗談やないで・・ほんまに・・・)
隣の中年婦人に睨まれるのを覚悟の上、私は又少しだけ身体を動かして、コホンとわざとらしい咳払いをした。
瞬間引っ込められた手。
このままとにかく早く次の駅に着いてほしい。
けれど私の願いは僅か数秒で破られる事になった。
「!!!!!!!」
声を上げなかったのはまさに奇跡に近い。
あろう事か後ろの男は自分の熱を押しつけてきたのだ。
ザァーッと背中を寒いものが駆け抜ける。
再びゆっくりと蠢き始めた手は大胆にも股間の辺りを行き来し始めた。
「こ・・・・の・・・・」
怒りと恥ずかしさに身体が震えた。
何がどうしても一発殴らなければ気が済まない。
一瞬俯いて、グッと唇を噛み締めて、私は後方に向かって口を開こうとして・・
「ちょっとあんた、気分が悪いんちゃうの?」
「・・え・・・・・」
だがしかし、声を出したのは私ではな隣に立つおば・・もとい中年のご婦人だった。
「そっちにトイレがあるから我慢せん方がええで!何かあった方が迷惑なんやから。すみません!この人通したって下さい!!」
「あ・・あの・・いえ・・」
「青い顔しとるわ。早よ行きや。お大事にな」
言うが早いかあれよあれよと開かれたモーゼの十戒ならぬ、トイレへの道。
確かに痴漢からは逃れられたが、その顛末はお世辞にも私の意に叶うものではなかった。
開けられた道を歩きながら私の機嫌は下降の一途を辿り、そのまま現在に至っているのである。

(・・・・・どう考えても一生の不覚や・・・・)
30も遠に越した男が電車で痴漢に遭うなんて笑い話にもならない。
しかも文句の一つでも言えたのならともかく、結果的にはおばちゃんに助けられる羽目になったのである。これで機嫌が悪くならなかったら嘘である。
フルフルと怒りに震えた手の中でカサカサと新聞が小さな音を立てた。
その瞬間、部屋の中に地を這うような低い声が響く。
「・・おい、いい加減にしろ」
先刻と同じ言葉に私は思わず唇を真一文字に結んだ。
それが又気にくわないと言うように火村はチッと小さく舌打ちしてもう一度口を開く。
「何があったのかちゃんと言え」
言いながらだらしなく結ばれたネクタイを更に引っ張って緩めて、火村は苛立たしげにキャメルを取り出して口に銜えた。
「・・・・何もない」
「何もない奴が新聞をグシャグシャにしたり眉間に皺を寄せたりするのか?」
カチリと点けられた火。
「・・・する・・かもしれへんやろ」
「アリス」
呼ばれた名前と共に吐き出される白い煙。
「ないったらない!!」
誰が痴漢に遭ったからムカついている等と報告をするものか。
けれど私の苛立ちが感染して悪化してしまったかのように、火村は火を点けたばかりの煙草をすでに満杯状態の灰皿に押しつけて睨みつけてきた。
「てめぇ、俺の我慢にも限度ってもんがあるぜ?それがものを奢って貰う人間のする事か?」
「奢ってほしいって言うた訳やない。君が奢るって言うたんや」
「・・・・・いい度胸だ。で?」
「でって何や。でって。主語も述語もないで、先生」
「そんなのてめぇはいつもの事だろ。もう一度聞く。何があってそんなに不機嫌なんだ?」
「・・・・・・・・・・別に」
「何もなくて不機嫌になれるのか、お前は」
「・・・・・不機嫌なんわ君の方やろ。何もないし言う気もない。ほら、それよりもうすぐ本日ラストの講義やろ?さっさと行って、さっさと講義をして、さっさと食べに連れて行け」
本当は講義を拝聴しようと思っていたのだがとてもそんな気にはなれない。
確かに火村の言う通り私は不機嫌で、しかも八つ当たりをしている自覚もあった。
そのままここを訪れてしまったのは失敗だった。
とにかく火村が講義をしている間に少し態勢を立て直して、せめて食事はおいしく食べたい。
けれどそんな私の気持ちは八つ当たりをされてしまった十数年来の友人であり、恋人でもあったりする助教授には通じなかったらしい。
社会学部気鋭の助教授は、フィールドワークと称するそれと同様にその理由を探り始めたのだ。
「・・朝は機嫌が良かったよな?」
「・・・・火村?」
「ここに来たのも待ち合わせよりもかなり早い時間だった。って事は出る時も機嫌は良かった訳だ」
「・・・おい・・・・」
「さしづめ次の講義をご聴講あそばす予定でいたんだろう?だから何かあったのはここに来る途中だ」
言いながらユラリと椅子から立ち上がった身体に私は思わずビクリと身体を震わせてしまった。
「・・・火村・・は・・早く講義に行かんと遅刻するで?」
「ご忠告は感謝するが講義開始まで後10分はある。それにあんまりきっかりに行っても学生たちには不評だろ?ちなみにな、開始20分を過ぎると自動的に休講になっちまうが、言い換えれば20分過ぎまでは学生たちには待っている義務がある。
一歩、又一歩近づいて来る身体。
「・・・何言うて・・」
背中をザワザワと嫌な予感が走り抜ける。
「30分あれば誰かさんの隠し事を聞き出すのには十分だと思わねぇか?」
「!!!!」
やっぱりそう来たか。
私は思わず座っていたソファから立ち上がった。けれどドアに向かった足は、次の瞬間意地悪く出された足にものの見事に掬われてしまった。
「あ・危ないやろ!」
「てめぇが大人しく吐かないからだろ」
「誰が“吐く”か、ボケ!!」
「人間“素直”が肝心だぜ?」
端から見ている分には滑稽な、けれど当の本人たちにしてみればひどく真剣なソファ前での攻防戦。
「何があったか正直に言え」
「嫌や」
「てめぇ・・・」
「絶対に言わへん!」
「・・・こうなりゃ意地でも聞き出してやる」
言うが早いか火村はアッという間にソファの上に私を押し倒すと、あろう事か身体の上に乗り上げてきた。
「ひ・・火村!?」
思わず引きつる声と顔。
「30分だ」
「・・・・・へ?」
「30分以内に吐かなかったら休講にした分もプラスするから覚悟しろよ」
「!!ちょっ・・何を考えてんねん!ここをどこやと」
「俺の研究室」
「このボケ!アホんだら!!判っとるんやったら放せ!ここは研究をするところで尋問をするとこやないで!!」
「お前が素直に言わねぇからだろ。1時間近くも今言い出すか、何があったのかとやきもきさせられたんだ。このまま講義に出たってまともな話が出来るわけがない。判るだろう?」
判らない・・・・判りたくない。
「ほら、さっさと言っちまいな、先生」
「い・・嫌や!」
「・・・・・・・・そんなに隠しておきたい事なのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「それはぜひとも聞かせて貰わないとな」
「火村!」
腹の上に膝を乗り上げたまま、火村は器用にセーターを捲り上げ、中のシャツのボタンを外してゆく。
「ちょっ・・・ほんまに・・冗談やろ?」
「冗談に思えるか?」
「・・・・・・・・・・・・」
思わず返答に詰まってしまった私を無視して、火村は手の動きを再開させた。
「や・・・嫌や!ほんまに・・・こんな所で誰かが来たらどないすんねん!」
「さぁな」
「火村!」
焦る私の声にどこ吹く風の様子で火村はバラバラとボタンを外し終えて少しだけ冷たい指を脇腹に滑らせた。
「!!」
「言えよ、アリス。言っちまえば楽になれるぜ?」
ドラマの中の刑事の無用な台詞を口にして薄く嗤う顔。
身体を乗り上げてゆっくりと首筋に唇を寄せてくる男に、必死でシャツを引っ張って引き離そうとした私の手は、けれど次の瞬間、易々と片手で頭上にまとめ上げられてしまった。
「・・・・なんで・・」
ポツリと漏れ落ちた声は自分でも判るほど絶望的な色を滲ませていた。
それにもう一度薄く嗤う顔を私はクシャリと眉を寄せて見つめた。